02:引きこもり生活


 貴族令嬢シンディの日々は、家に引きこもって読書に明け暮れるばかりだ。一端の令嬢ならば、夜会に行ったり茶会を行ったりと、将来の夫探し・情報収集に忙しいのだろうが、シンディはその華やかな舞台から離れ、まるで隠居生活のような暮らしをしていた。共に暮らしているのも乳母のヘレンだけで、他は通いのメイドだけである。
 怒る人がいないから、という理由だけではないだろうが、今日も今日とてシンディの朝は遅かった。最近の彼女は、寝ようとするたびにうなされることが多く、なかなか熟睡することがない。そうすると、次第に眠るのが億劫になり、寝るのも遅くなる。厳しい母親がいないことも、シンディのその習慣に拍車をかけていた。
 シンディは緩慢とした動作で身支度を整える。
 ――以前とは程遠い生活だ。シンディの部屋は小さく、あまり日も差さないし、身支度などは自分でしなくてはならない。豪奢なドレスを着ることも無ければ、キラキラ輝く宝石を身に着けることも無い。しかし、シンディは今の生活を意外と気に入っていた。気の向くままに起き、心置きなく本を読む。この暮らしぶりを見れば、母親が眼を吊り上げて起こる様は想像に容易いが、しかし今ここに彼女はいない。シンディは、思う存分殻に閉じこもることができた。
 階下へ降りると、ヘレンが安楽椅子に座ってのんびり揺れていた。その瞼は眠そうに半分降りかけていたが、シンディが起き出したのを見ると、ゆっくり開かれた。
「おやおや、今日も遅いお目覚めですねえ。おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
「昼餉を召し上がりますか?」
「あ……はい。頂きます」
 こくりと頷くと、ヘレンはゆっくりと立ち上がって準備をし始めた。シンディも立ち上がってそれを手伝う。すると、ヘレンが不意に笑い出した。
「何だかこうしていると母と娘のようですねえ……。あら、でもお嬢様には失礼でしたね」
「いえ、そんなことは――」
 慌ててシンディは首を振る。ヘレンは穏やかな笑みを浮かべたままだが、シンディは下を向いた。
「……すみません。私のせいで。ヘレンさんにもご迷惑をおかけして」
「あらあら、何だか堅苦しいですねえ。昔のように婆やって呼んで頂きたいものです」
「……婆や、その」
「私は迷惑だなんて思っていませんよ。むしろ、お嬢様が来てくださって毎日が楽しいんですよ。以前までの生活は……何と言いますか、変化がありませんからねえ。カリーナさんも、週に三日ほどのお手伝いですから、毎日が寂しくてね……」
 シンディは一瞬言葉を詰まらせた。
 ヘレンは、シンディの乳母として小さい頃からお世話をしてもらっていたが、やがて高齢のため、この一軒家を購入して隠居生活を送っていた。そんな悠々自適な生活の時に自分が飛び込んできて、内心は迷惑と思っているのではないか、シンディは不安でならなかった。が、相変わらず優しいヘレンの言葉に、早速シンディは涙腺が緩みかけていた。
「ただいま戻りましたー!」
 そんな時、底抜けに明るい声が家中に響いた。通いのメイド――カリーナである。
「おや、お嬢様、おはようございまーす」
「おはようございます」
「すみませんね、私がもう少し早く帰っていればお待たせすることもなかったのに」
 シンディとヘレンが昼餉の準備をしているのを見ると、カリーナはすまなそうに眉を下げた。それに更に慌てるのはシンディの方だ。
「いえ、そんな! むしろ私のせいでいつも二度手間してしまっていて申し訳なくて……」
「そんなことお気になさらなくて結構ですのにー」
「でも……」
「はいはい、もういいじゃないですか。ほら、もう準備できましたよ。お嬢様、どうぞ頂いてください」
「……はい」
 ヘレンののんびりとした声に、シンディは項垂れたまま、しずしず席に着いた。
「じゃあ私は紅茶でも入れるとしますかね。おいしそうな焼き菓子を買ったんです」
 にっこり笑って、カリーナは嬉しそうにキッチンに立った。その後ろ姿に、ヘレンが声をかける。
「私にも紅茶を入れてもらえるかねえ」
「はいはい、もちろんですとも」
 紅茶を入れ終わると、カリーナはすぐにテーブルにつき、嬉しそうに焼き菓子を取り出した。可愛らしい包装に包まれていて、有名店の名が刻まれている。
「じゃあ頂きましょう」
「お嬢様も昼餉を食べ終わったらゆっくり頂いてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
 シンディは静かに料理に口に入れ、ヘレンとカリーナはのんびりと紅茶を飲んだり焼き菓子を口に放り込んだり。穏やかな昼下がりだった。会話が途切れた合間を狙って、シンディは口を開いた。
「カリーナさん……」
「はい? 何でしょう」
「あの……届け人ってご存知ですか?」
「はて、届け人?」
 一瞬考えるような素振りを見せたものの、カリーナはすぐに顔を輝させた。
「あー、それなら私知ってますよ、届け人でしょう!」
「は、はい」
「巷で人気なんですよ! ロマンチックだって」
「ろ……ロマンチック?」
 シンディの声は疑念で溢れている。それもそうだろう。夜中に男が手紙を届けに来るなんて、不審以外の何物でもない。
「若い女性の間で流行ってるんです。意中の男性に手紙を送ったり、逆に手紙を貰ったり。ほら、普通お届け物っていちいち配達局に行かないといけないじゃないですか? でも届け人だと直接個人に届けてくれるんですよ! 住所さえ知っていれば!」
「そりゃ便利だね」
 ヘレンは驚いたように目を瞬かせた。彼女もシンディ同様、届け人の存在を知らなかったようだ。思いのほか手ごたえがあったので、カリーナは更に勢いづく。
「そうなんですよ! それにですね、届け人は色々なオブションもあって、依頼人の細かな依頼にも対応してくれるんです」
「なるほどねえ」
「だからこそ、最近では届け人を利用したプロポーズとかあるみたいです。窓から届け人が女性の注意をひきつけている間、後ろから恋人が指輪を持って現れるっていう!」
 きゃーと叫びながら、カリーナは顔を両手が覆った。置いてけぼりを食らうのはシンディとヘレンだ。二人顔を見合わせて、曖昧に笑う。
「でも個人の家に届けるって言うのなら、結構高いんじゃないのかねえ?」
 シンディも隣でうんうん頷いた。
 一軒一軒物を届けるのが大変だからこそ、届け物は街に点在する配達局に集まるのだ。証明書さえ出せば、届け物は簡単に受け取ることができる。ただ、いつ荷物が届くのか、はたまた荷物が届いたことなどについては配達局は全く連絡してくれないので、定期的に自分から訪れなければならないのが手間だが。
 しかしその手間を省いたのが届け人だという。一軒一軒――しかも個人へ届けるとなると、相当な体力を要するだろう。
「そうですねー。私も詳しくは知らないんですけど、相場は結構お高いようです。届け人には相当な身体能力が必要ですからね。家の屋根を飛び越えたり木に登ったり。それに加えて、細かい技術とかも必要ですからね」
 言われてみて、シンディは改めて思い至る。
 そういえば、昨日の彼は、シンディの部屋――二階の窓に、なんてことない表情で顔を出していた。確かにシンディの部屋の前には大きな木があるが、どうやって上ったのだろうか。多少太い枝は生えているものの、それを登るとなると、相当の体力や筋力が必要となるはずだ。
「あ、お嬢様、紅茶お飲みになりますか」
 シンディが黙り込んだのを見計らって、カリーナが声をかけた。丁度シンディも昼餉を食べ終えたばかりだった。
「あ……すみません。頂きます」
「はーい」
「私もお代わりお願いしましょうか」
「はいはい」
 明るい声を上げるカリーナを見ながら、シンディは小さく息をついた。
 ヘレンとカリーナのゆったりとしたお茶の時間を楽しんではいるものの、ふとした拍子に、漠然とした不安に襲われるシンディがいた。
 届け人。
 なぜ彼が自分の所へ来たのかは分からない。依頼人の相手が誰なのかも。それでも、もう来ないでほしいとシンディが思うのは仕方のないことだろう。
 知らない人の手紙を持って、知らない人が自分を尋ねてくるだなんて、怖いことこの上ない。
 シンディは暗い面持ちでため息をついた。