01:届け人デリック


 まさかそんな所から人が入ってくるだなんて、誰が想像しただろうか。まして、それが自分の一番嫌いな『男』だとは。
 シンディはその日、珍しく夜更かしをしていた。といっても、夜会で帰るのが遅くなっただとか、友人と歓談に耽っていただとか、そのような年頃の娘のような理由ではなく、単に読書をしていて時間を忘れただけだった。
 もうすっかり夜は更け、辺りはしんとしている。窓から覗く遠くの方では、まだ歓楽街で華やかな灯りがともっているのが見えるが、もともと彼女が住むこの辺りは人が少なく、閑静としていた。
 灯りを消し、シンディは欠伸を堪えながら寝台に潜り込んだ。さあ寝ようとゆったり呼吸を落ち着かせてしばらく。
 コンコン、と微かな音がシンディの耳に飛び込んできた。が、もうその時にはシンディは船を漕ぎ始めていて、どこか夢のように感じていた。しかしその微かな音は、次第に大きくなり、彼女の睡眠を妨げる。いい加減シンディの意識も浮上し始めた。
 わずかに眉を顰めながら、シンディはようやく起き上がった。まだうつらうつらとしているが、窓の方から音がすることくらいは気が付いていた。寝台から立ち上がることなく、そのまま視線を窓へ向けた瞬間。シンディは戦慄した。
 恐怖、しかないだろう。深夜をとうに過ぎたその時刻に、自分の部屋――しかも二階――の窓から『男』が覗き込んでいたら。
 シンディはただただパクパクと口を開け閉めした。混乱と恐怖で声が出ないのだ。窓の向こうの人物も口をパクパクしている。どうやら窓を開けてほしいらしい。誰が開けるものか。
 シンディはすっかり縮こまって毛布の中へ潜り込んだ。身体を丸めてぶるぶる震える。
 助けを求めることなど頭に無かった。階下には耳の遠い同居人もいるが、恐怖よりも申し訳なさが先立ち、動くことができない。
 ここでじっとしていればどこかへ行ってくれるかもしれない。
 そんな儚い希望だけが頼りで、シンディは微動だにせず蹲っていた。が、窓を叩く音は未だ止むことは無い。
「ちょ……お嬢さん? あのー、ここ開けてもらえませんか?」
 しかし窓の向こうの人物は諦める様子が無く、気安い口調で話しかけてくる。籠ったように聞こえるその声は、紛れもなく男のものだ。
「届け人の者ですがー。シンディさんですよね? 手紙を預かってるんですけど」
「……っ」
 どうして私の名前を知ってるの。
 シンディはビクッと肩を揺らしたが、思い切って毛布の隙間から覗いてみた。
 シンディの反応が無くても、窓の人物は絶えず声をかけてくる。その様子からは、危険な様子はあまり感じられないが、しかしかといって恐怖が薄らぐわけではない。窓の向こうの人物がたとえ良い人であっても、こんな時間にどうして女性の部屋へ訪れているのか。
 手紙、と言っていたような。
 ふとシンディは思い出した。手紙を預かっている、と、確かにあの人はそう言っていた。
 ここでこうしていても埒が明かないとシンディは判断し、そっと寝台を抜け出した。その際に、サイドテーブルの上から羽ペンを手に取る。護身用としては頼りないかもしれないが、無いよりはマシだろう。
 ペンを後ろ手に持ち、そろりそろりと窓に近寄った。もちろん、窓を開けるなんて危険なことは絶対にしない。
「な……何の、ご用ですか」
 震える声でシンディが問うと、向こうの人物はホッと息を吐き出したようだった。月明かりによく見てみれば、彼はシンディとそれほど歳が離れているわけではないようだ。少し幼い顔つきと、短く跳ねている黒髪。
 明らかな『男』という要素がなく、シンディは少しだけ心を落ち着けた。だが、それでも警戒は解かなかった。
「あ、やっと来てくれた。あのですね、俺こういう者なんですけど」
 ゆっくりと彼は懐からカードを取り出す。その動作からは、シンディを驚かせないような配慮が感じられた。
「……届け人……デリック?」
 窓越しにシンディは読み上げる。届け人という言葉は初めて聞くが、それ以上にその横の王家の紋章に息を呑む。シンディは一応貴族の娘であるので、王家の象徴である紋章の見分けくらいはできる。しかし、問題は、どうしてこの怪しい人物のカードにその紋章があるのかということだ。
「知りませんか? 手紙や荷物を届ける届け人」
「……知りません。そもそも、どうして個人の家に直接来るのですか? 届け物があるのなら、配達局へ行ってください」
「あ……いや、俺達は配達局とは別のものであって……あー、なんて言えば良いのかなあ」
 デリックは迷ったように頭を掻くと、居住まいを正した。よくよく見れば、彼はシンディの部屋の前にある大きな木の枝から身を乗り出していたようだった。シンディは申し訳ない思いを抱いたが、すぐに心を鬼にする。たとえどんな事情であっても、こんな時刻に女性の部屋を訪れようとするなんてあってはならない。
「俺達届け人は、個人宅に直接お届けする仕事です。配達局なら安価で大量のお届けにも対応できるけど、わざわざ取りに行かないといけない。その手間を省くのが届け人」
「はあ……」
 淀みなく説明する彼の口調からは、シンディを謀ろうとする気配は感じられない。とりあえずシンディは曖昧に頷いた。
「そういうことなんでシンディさん――」
「あの……下の名前で呼ばないでください」
 唐突な申し出に、デリックが目を丸くした。
「そう言われてもですね……この手紙にはあなたの下の名しか書かれてないんですけど。では家名をお聞きしても?」
「……もういいです」
 首を振るだけで無理矢理話を終わらせたシンディに、デリックは小さくため息をついた。
「えーっと、差出人はダーウィン=マレット様からですね。受け取ってもらえますか」
「…………」
 聞き慣れない名だ。シンディは瞬時に身を強張らせる。
「できれば窓を開けてほしいんですけど。手紙を渡すだけなんで」
「……すみません。無理です。私、その人のこと知らないので」「え?」
「そもそも、家族以外、私がここに住んでいるということは知らないんです。どうして直接手紙が?」
「いや……知りませんけど」
 一瞬沈黙が漂った後、シンディはため息をついた。
「……正直なところ、怖いんです。お帰り願っても?」
「え……」
 今度はデリックの方が呆然とする番だ。
「いや、それじゃあ俺の仕事が――」
「お帰りください」
 冷淡に言い放つと、シンディはさっと身を翻し、毛布に潜り込んだ。その後もしばらくデリックの困ったような声が聞こえたが、シンディは反応しない。
 無理矢理押し入って入ってこないとも限らない。その時は、どうすればいいんだろう。
 シンディは身を固くし、それでもデリックの声を無視し続けた。しかしやがて、その声も無くなり、辺りは静かになった。ようやく、シンディはホッと息を吐き出すことができた。