16:時間と共に
怒りにまかせてカフェを出た後、シンディには行く当てもなく、そのまま彼女の足はヘレナの家に向かっていた。結局、そこが一番落ち着くのだ。ここから小一時間ほどの場所にシンディが生まれ育ったブランドン家の実家もあるが、シンディはなるべく寄りつかないようにしていた。あそこに嫌な思い出があるというだけではなく、知り合いにも見つかりたくないのだ。会ったが最後、またどんなことを言われるか……。
思案に暮れていたシンディが曲がり角を曲がったとき、何者かとぶつかった。おっと、というかけ声と共に、シンディが転ばないよう肩を支えられた。声の調子と腕の大きさから、すぐに男性だとは分かったものの、シンディは礼を述べようと顔を上げた。しかし、すぐにそのままの表情で固まった。
「シンディじゃないか。やっぱりこの近くに住んでたんだな」
「あ……」
見覚えのある顔に声。こんな記憶、消せるものなら消してしまいたいが、もうシンディの奥深くに根付いてしまっていた。決して消えることのない、どこへ逃げてもついて回る記憶と醜聞。
「今から家に帰るところか? 俺が送ってやろうか?」
恩着せがましくファビウスは言うが、シンディは反応せずに黙って下を向いていた。
家はもうすぐ目の前なのに。でも、彼の目の前で入ったら、家が知られてしまう。知られたところで、どうということではないが、以前の経験から、シンディは極度にそのことを恐れていた。知らない人からものや手紙を送られてきたり、勝手に家に尋ねてこられたり。あんな思いは、もうたくさんだった。
「おい、無視することないだろ。仲良くしようぜ」
「……衛兵を呼びますよ」
馴れ馴れしく肩に手を回すファビウスに、シンディは小さく言い返した。この前と違って、今彼女達がいる場所は、大通りではないものの、多少なりとも人の目がある場所だ。こんなところで無体は強いないだろうと、わずかながら彼女は強気だった。
「俺たちの仲だろ? 脅しのつもりか?」
しかしファビウスは簡単に鼻で笑う。
「呼んでどうする?」
「――っ」
「またこの前みたいにもみ消すだけさ」
震える手で拳を握るが、シンディは言い返せなかった。
……ずるい。なんてずるい人なんだろうこの男は。
前回も泣き寝入りせざるを得なかったのに、きっと今回もそうだろう。衛兵を呼んだところで、公爵家の権力を使ってもみ消されるだけだ。ただでさえこちらは女性の身で、立場が弱いというのに。
シンディはファビウスの手を強く振り払うと、脇目も振らずに歩き出した。もう家が知られたくないなんて考えている場合ではなかった。とにかく、この場から逃げ出したい、その一心だった。
シンディの隣を歩きながら、ファビウスのその軽い口は止まない。
「いい加減素直になれって。俺が婿入りした方がお前の家も得だろ? 自分のことだけじゃなく、家のことも考えてやれよ」
「…………」
「天下のバラード公爵家様がわざわざこうして打診してやってるっていうのに、何が気にくわないんだか。結婚を申し込んでいる男の中で、俺が一番だとは思わないか? 家柄然り、顔然り」
「お話しはそれだけでしょうか」
無表情のままシンディは振り返った。ようやくヘレンの家に着いたのだ。ファビウスは品定めするかのように、ヘレンの家を上から下まで眺めた。
「……へえ、今はここに住んでるのか」
「もう……しばらくは私はあの家に戻るつもりはありません。結婚も、今のところは考えておりません。あなたも、どうか他の方をお探しください」
できるだけ早口でそう言うと、シンディは門の扉を開けた。
ここには人の目立ってあるんだから、大丈夫ず――そう言い聞かせて。
ファビウスの方も、それは分かっていたのか、無理に押し入ってくることはなかった。代わりに、シンディが閉めようとした門を、右手で力強く押さえた。
「分かった分かった。そんなに嫌がるんなら、今日のところは退散しよう。ただ――笑えるな」
顔を歪めて笑うファビウスに、シンディは不審げな視線を向けた。ファビウスは弧を描く口元を押さえた。
「だってそうだろ? 俺とこうして話すだけでも嫌悪感が丸出しなくせに、文句の一つも言えず、あのことをなかったことにしないといけないのは笑えるだろ?」
「――っ」
キッと睨み付けると、シンディは門をそのままに、一目散に家の中に駆け込んだ。
屈辱だった。
どうして、自分のこのやるせない思いを、あんな男に代弁されないといけないのか。
私の気持ちは誰も分かってくれなかったのに、あんな男が。
バタンと扉を閉めると、シンディは荒々しく鍵をかけた。
もう、外には出られない――出たくない。
家も知られたし、きっとあの男は、私に執着し続ける。
シンディは、絶望に両手で顔を覆った。
ようやく、ようやく外に出られるようになったのに。距離があれば、男性とも話せるようになったのに。
一体いつ、また日の目が見られるようになるだろうか。
自分で自分にそう問うたが、もうそんな日は一生来ないような気がした。
*****
また夜がやってきた。
もうどうせあの人は来ないのだろうと、シンディは早々寝台に横になり、眠れない時を過ごしていたが、今はもう聞き慣れた枝がしなる音を耳にし、飛び起きた。
「あっ……」
窓越しに、シンディはデリックと目を合わせた。ついで我に返ると、急いで窓を開けた。
「どうも」
「……もう、今夜は来られないのかと」
嫌な目にも遭わせてしまったし、カフェで内輪の嫌な所も見せてしまった。それに何より、彼の責務は今日限りで終わったのだから、ここへ来る理由はないはずだ。
困惑するシンディを余所に、デリックも困ったように眉を下げた。
「お節介かもしれないけど、一応事実だけ伝えようと思って」
「はい」
「……お兄さん、すごく申し訳なさそうにしてたから。君が嫌な目に遭ったのは、全部自分のせいだって。許してくれとは言わないけど、君が受け取ってくれるまで、手紙を送りたいって」
「……はい」
シンディは短く頷いたが、それだけでは肯定か否定かも分からなかった。だが、デリックはなんとかなるんじゃないかと微かに思った。カフェでもそう思ったが、今だって、彼女が心の底からアーヴィンのことを嫌っているようには見えないのだ。
たぶん、まだ心の準備が必要なだけで。
きっと、時間が彼女の心を癒やしてくれる。
このときのデリックは、そう思っていた。