15:シンディの怒り


「全く、どういうことか説明してほしいものだな」

 一行は、一旦場所を移動し、近くのカフェに腰を下ろしていた。腕を組む男――シンディの兄は、酷くご立腹な様子で、対するデリックは項垂れており、またまたシンディの方は、これまた拗ねたようにそっぽを向いていた。

「あの……すみません」

 気まずい空気に、デリックは頭を下げた。目の前のこの男性がシンディの兄だということは、彼に十数分もこんこんと説明され、ようやく理解できたのだ。確かに、シンディとこの男性、二人をよくよく比べてみれば、顔立ちも雰囲気もよく似ている。そして同時に気づいたのだ。そういえば俺、この人殴ってしまったな、と。
 中流階級でしかないデリックが、上流階級である貴族を殴ったと。二人の間にどんな事情があれ、悪いのはどう見てもデリックの方だ。加えて、彼は妹に抱きついただけで、変質者ではなかった。殴る理由は絶対にない……とは言い切れないが、あるとも言えない曖昧な状況だ。
 事を荒立てないよう、謝っておくに超したことは――。

「デリックさんは謝ることはありません」

 ピシャリとシンディは言い切った。デリックはハラハラと彼女を見るが、シンディはチラリとも彼の方は見なかった。じっと目の前のテーカップだけを見つめている。

「し、シンディ」

 妹の前では極端に弱くなる兄。
 男は、こびへつらうように両手をすりあわせた。

「そんなに怒ることはないだろ? ちょっとした誤解じゃないか」
「急に抱き着いてきたりして、一体どういうおつもりでいらっしゃるんですか」
「それは……つい嬉しくなったんだから仕方がないじゃないか。それに、以前だってよく嬉しいことがあったらシンディの方から抱きついたりしてきたじゃないか」
「いっ、いつの話をしているんですか!」

 一瞬デリックを見た後、シンディは真っ赤な顔で兄を睨み付けた。

「シンディー……」
「私、怒ってるんですからね」

 シンディはもうすっかり冷めてしまった紅茶の水面を見つめる。

「あなたのせいで……私は」

 眉間に皺を寄せると、それ以降シンディは何も語らなくなった。
 しばらくそんな彼女の顔色を窺っていた兄であるが、小さくため息をついた後、テーブルの上で両手を組み合わせた。

「――シンディ。だからこうして一言謝りたくて、手紙を送ってたんじゃないか。君はほとんど外に出ず、家に引きこもってばかりだと聞いたから、手を煩わせないために、届け人を使って……」
「私が男性が苦手だってお分かりの上での所業ですか!?」

 鋭くシンディが睨み付けるが、男は困惑の表情を浮かべる。

「えっと……どういうことだい?」
「…………」

 男は下手に聞き返すが、シンディの方に、応える様子はからっきしだ。堪らずデリックが口を挟んだ。

「シンディ……さんは、手紙の主があなただということを知らなかったんです。ずっと、身も知らない男の人からだと思っていて」
「なぜ?」

 一層眉を顰める男性に、ついにデリックはその疑問をぶつけた。

「あの、失礼ですが、お名前をお聞きしても?」
「ああ。僕はアーヴィン=マレットだ。今はマレット家の――」
「ちょ、ちょっと待ってください。ダーウィン=マレットさんじゃないんですか?」
「はあ? 何を言ってるんだ?」

 驚きを浮かべるアーヴィンに、デリックは黙って手紙を差し出した。シンディが受け取りを拒否した手紙の一部だ。いつか受け取ってくれるのではないかと、いつも携帯していたものだ。

「ほら、ちゃんと見てくれ。アーヴィン=マレットって書いてあるじゃないか。字が読めないのか?」

 あくまで純粋に聞き返すアーヴィン。デリックは頭を抱えたくなったのを堪え、丁寧に手紙の差出人のところを指さした。

「いえ、字は読めます。でも、僕から見ると、これはダーウィン=マレットに見えます」
「…………」

 アーヴィンは難しい顔で黙り込んだ。己が書いた名をじろじろと見、そして。

「いや、アーヴィン=マレットにしか見えない。君の目がおかしいんじゃないか?」
「…………」

 もう言い返すのも面倒で、デリックはそのまま引き下がった。このまま続けても水掛け論にしかならないことが容易に想像がついたのだ。だが、シンディは違った。デリック――この場合、至極一般論の彼――のことを暗に非難しているように聞こえて、我慢ならなかったのだ。

「私にもダーウィン=マレットに見えます」
「シンディまで!」
「あなたは字が汚すぎるんです。お母様にも言われたでしょう。もう少し丁寧に書けと」
「だ、だからってなあ……」

 実の妹にまで糾弾され、アーヴィンは若干落ち込んだ。が、すぐに盛り返す。

「でも、だからってファーストネームをちょっと間違えたくらいで、兄を兄だと分からないなんてひどいじゃないか。シンディ、本当は僕だと分かってたんだろ? 確かに、婿入りをしたから家名はマレットに変わったさ。でも嫌がらせで知らないふりをしようと――」
「知りませんでした!」

 兄の声を遮り、悲鳴にも似た妹の声が響いた。

「分かるわけないじゃないですか……。あなたは、ただ一言、結婚する旨を伝えるだけ伝えて、勝手に家を出て行ったんですから。私に詳細を伝えるようなことはせず、相手の方についても教えてくれず、ただ黙って……」

 尻すぼみにシンディの声が小さくなる。だが、キッと顔を上げると、彼女はしっかり声を押し出した。

「私がどんな思いでいたと? お母様には言いづらくても、私にだけは言ってくださっても良かったのに。相談に乗ることができたかもしれないのに。どうして、黙って……。お兄様の幸せのためなら、私だって我慢できたのに。お兄様が一言頼んでくだされば、私だって――」

 一瞬、シンディの声に嗚咽が混じる。ハッとしてアーヴィンが顔を上げたが、彼女は未だ、険しい表情のままだった。今まで見たことのないような鋭い眼光で睨み付けられ、アーヴィンは居たたまれなさに項垂れた。

「もう、行きます」

 さっと立ち上がると、シンディは脇目も振らずに歩いて行った。

「シンディ、さん!」

 咄嗟にデリックは追いかけようとしたが、それよりも一瞬早くアーヴィンが彼の手を掴んだ。

「待って……待ってくれ」
「え、で、でも……」
「話を、聞かせてくれないか」
「話って……」
「シンディの、ことだ」
「…………」

 傷心のまま走って行った妹よりも、過去の彼女の話の方が大切なのかと、デリックはそう思ったが、あまりにアーヴィンが痛ましい表情をしていたので、何も言い返せなかった。力なく椅子に座る。

「このまま、追いかけていっても、僕はまた無神経なことしか口にできない気がするんだ」

 まるで言い訳のようにアーヴィンは呟いた。だが、デリックの興味はもうそこにはない。

「……何が聞きたいんですか?」

 直球で尋ねるデリックに、アーヴィンはわずかに躊躇ったそぶりを見せ、そしておずおずと口を開いた。

「シンディの男嫌いは……そんなに深刻なんだろうか」
「深刻……ですか。一般的な程度はよく分かりませんが」

 デリックは一旦そう前置きをした。

「深刻、だとは思いますよ。最初、僕のことも警戒心で一杯でしたし、男性からの手紙だということを伝えたら、それだけで嫌悪感丸出しでした」
「そう、か」

 短く相づちを打つと、落ち込んだように彼は組んだ両手に顔を埋めた。だが、すぐにハッとしたようにデリックを見る。

「君は、シンディとは仲がいいの?」
「いい……というほどではありませんが、まあ世間話をする仲です」
「シンディは男嫌いなのに、君とは話すのか?」
「慣れ……じゃないでしょうか。いろいろありましたし」

 言葉を濁す彼に、アーヴィンは柔らかく笑った。

「シンディは、君を信頼してるようだね」
「……そうでしょうか?」

 釈然とせずに、デリックは曖昧に返事をした。
 ただ頼れる男性が側にいなかっただけではないかと、デリックはそう思った。自分に心配事ができたときに、不安になったときに、助けてくれる人が誰もいない。ただ悩みを聞いてくれるだけでもいいのに、それを頼めない。

「シンディは」

 一旦言葉をくぎると、後はせきを切ったように彼は話し始めた。

「過去、異性関係で嫌なことがあってね。一年前、僕が嫡男の責務を放って結婚したから、シンディがブランドン侯爵家を継ぐという噂が流れたんだ。それを聞きつけた他の貴族が、突然シンディに言い寄り始めたんだ。僕は後々母に聞いたんだけど、酷いものだったらしい。誰が先にシンディをものにできるか、まるで競争のように我先に話しかけたり、手紙や贈り物を届けさせたり。家にまで突撃する輩もいたらしい。挙げ句の果てには――」

 流れるように続いていたが、アーヴィンはハッとした様子で口をつぐんだ。デリックは怪訝な表情になる。

「どうかしたんですか?」
「あ……いや。とにかく、色々なことが重なって、シンディは男性が苦手になったんだ。今となっては、後悔しかない……。全て、考え無しな僕のせいさ。本当に悪かったと思っている」

 言葉もなくデリックはアーヴィンを見つめた。その表情に、アーヴィンも思うところがあったのか、苦虫を噛み潰したような顔になった。

「君の言いたいことは分かってる。シンディに直接言えと、そう言いたいんだろう? 僕もそう思うよ。どんなにシンディが無視しても、僕は謝り続けなくてはいけないって。でも、君にもお願いしたかったんだ。きっと、シンディはもう僕とは会ってくれないだろうから、せめて手紙だけでも渡してくれないかな? シンディが会ってくれる気になってくれるまで、君が手紙を渡して欲しいんだ」

 真剣に頭を下げるアーヴィンに、デリックは頷くしかなかった。

「分かりました」
「……ありがとう。君はやっぱりいい人だね」

 シンディそっくりの顔で、アーヴィンはお人好しな笑みを浮かべた。