13:因縁の男


 デリックの看病のおかげか、シンディはすぐに元気になった。むしろ、今まで以上に元気になりすぎて、シンディは以前にも増して頻繁に外出するようになった。シロの通院はもちろん、餌を買いに行ったり、図書館に寄ったり、長い間会っていなかった友人と遊ぶこともあった。目に見えて明るさを取り戻したシンディに、ヘレンもカリーナも大喜びである。
 最近は、ようやく男性にも慣れてきたのか、一定の距離を守って離すくらいであれば、過度に怯えることもなかった。今日も、応対する図書館の職員は男性だったが、何こともなくほんの貸し借りを終えることができた。まごうことなき進歩に、シンディは浮かれていた。
 家路までの道のりを、シンディは遠回りしながら歩いていた。今までずっと家の中にばかり引きこもっていたせいで、ヘレンの近所のことはあまりよく分からないのだ。外出する度に違う道を通り、どんな家があるのか、何の店があるのか、そういったことを毎日発見しながら歩くのが、もっぱら最近の楽しみの一つでもあった。
 今日の経路は、いつもよりずっと人通りの少ない小道だった。まだ少し昼を過ぎたばかりだというのに、薄暗く、静かだ。露店や店の類いはなく、完全な民家の通りのようだ。ちょっと気後れしてしまいそうなその道ですら、今のシンディにとっては好奇心をくすぐる道でしかない。この道を抜けたらどこへ出るのか、もしかしたら家までの近道だったりしないのか。そんなことを考えていれば、家まですぐなのだ。
 シンディは、完全に無防備だった。浮かれてもいたし、気もそぞろだった。後ろからの足音に気がつかないくらいには。

「シンディだろ?」

 軽い口調だった。しかしシンディの身体は固まる。嫌でも聞き覚えのある声だった。

「久しぶりだな。最近見かけないから心配してたんだぜ?」

 ジャラジャラと宝石を身につけた男――ファビウスは、シンディに追いつき、そして並んで歩こうと歩幅を合わせた。しかしシンディも無言で足を速める。

「おいおい、釣れないじゃないか」

 気安くファビウスはシンディの肩に腕を回した。

「そんなに警戒しなくても、さすがにこんな所であの日みたいなことはしねえよ」

 耳元で囁かれる。シンディは嫌悪感しか抱かなかった。でも声が出ない。カタカタ震えてしまうのを、堪えることしかできなかった。いつしか立ち止まってもいた。

「や……やめて……」
「はあ? 何だって? 聞こえねえよ。そんな調子じゃ、俺みたいなやつからすれば良いカモだぜ?」

 心臓がドクドクと嫌な速度で鳴る。焦りが更なる焦りを生み、頭が上手く働かない。
 しかしその時、弾けるような笑い声がその場に響き渡った。子供の声だった。同時に二人の目の前に数人の子供たちが駆けてくる。鬼ごっこをしていくのか、互いにはしゃいでいて、こちらには見向きもしていなかった。

「……興ざめだな」

 その声に、シンディは弾けるように走り出した。ファビウスの腕を振り払い、途中何度も躓きそうになりながらも必死に駆ける。彼が本気になれば、女であるシンディに追いつけないことは無いだろう。が、追いかけるつもりはなかったのか、後ろから足音はしなかった。
 シンディは真っ直ぐに家に向かうと、ふらふらとした足取りでそのまま家に入って行った。
 扉をきっちり施錠してからようやく、シンディは安堵の息を吐き出す。そのまま呼吸が落ち着きを取り戻すまで、そこから動くことができなかった。


*****


 夕餉の際、元気がないとヘレンやカリーナには随分心配されたが、シンディは曖昧に微笑むだけに留めておいた。彼女たちに話せば、いつか母親にも情報が行き届いてしまうことは必至だ。彼女にはもう失望されたくなかった。そんなちっぽけなシンディの意地が、彼女を余計袋小路に追い込んでいた。
 夜、シンディは早々に寝台に横になったが、頭はすっかり冴えていた。思い出されるのは、昼間の出来事。ファビウスの熱い体温、不愉快な吐息、身の毛もよだつ声――。

「おーい、もう寝てる?」

 突然、暗い思考を切り裂くように、シンディの耳にけだるそうな声が飛び込んできた。ハッとして彼女は身体を起こす。

「ごめんね、寝てた?」
「あ……いえ、大丈夫です」

 シンディは慌てて立ち上がると、窓を開けた。窓越しでは、やはり声がこもってしまうのだ。だが、すぐにデリックが窓に手をかけ、ほんのわずかな隙間を残して、閉めてしまった。

「元気ないね」

 わずかな隙間からデリックが声をかける。シンディは一瞬固まったが、すぐに笑みを見せる。

「そ、そんなことないですよ」
「具合、まだ悪いの?」
「そんなことは……! デリックさんのおかげで、今はもうピンピンしています!」

 なぜか拳を握ってそう力説するシンディに、デリックは堪らず笑い出した。

「え? あの……」
「いや、ごめん。ついこの前まであんなに落ち込んだり臥せったりしてたのに、急に元気になったなって」
「そ、れは……その、本当にその節はお世話になったと……」

 それを言われると、シンディも立つ瀬がなくなるため、もごもごと返事をするしかない。

「シロも元気?」

 デリックが珍しく穏やかな表情なので、シンディも嬉しくなって大きく頷いた。

「はい。見て行かれますか? まだ起きてて――」

 何気なくシンディは大きく窓を開けた。窓から入るにしろ、覗き込むにしろ、この方が良いと思ってのことだ。だが、そんな彼女の手をデリックが止める。

「病み上がりでしょ。窓は開けなくていいから」
「えっ」
「あ、ごめん」

 シンディが戸惑っているのを見て取り、デリックはすぐに押さえていた手を離そうとした。すっかり忘れていたが、彼女は男性が苦手だったと思い当たったのだ。しかし、シンディは咄嗟に彼の手を掴む。

「え……?」
「…………」

 戸惑うデリックを余所に、シンディはその手を離そうとしなかった。いつも無表情のデリックは、珍しく間抜けな表情になる。

「冷たい……」
「そりゃ外は寒いからね」

 シンディは黙ってデリックの手を見下ろす。彼の手は、氷のように冷たかったが、なぜだか嫌な思いは無かった。デリックの手を持ち上げ、両手で触る。

「な……何さ」

 これにはさすがのデリックも動揺する。うわずった声で聞き返す。

「あの?」
「――っ」

 ようやくシンディは我に返ると、慌てて手を引っ込めた。どちらの手も、ぬくもりが抜けていき、冷気が忍び寄る。

「す、すみません……」
「いや、別にいいけど」

 デリックには困惑だけが残ったが、さして気にした様子も見せないで、そのまま手を引っ込めた。

「…………」

 シンディは、自分の手を静かに見つめた。
 男性が苦手だ。それは確かだ。何を考えているのか分からないし、力も強くて怖い。でも……この人なら。――いや、この人と。
 シンディはそっとデリックを見つめる。
 結局開けてままだった窓を、デリックはわずかな隙間を残して閉めた。最近はいつもこの動作ばかりだった。近ごろは、シンディもデリックへの警戒心が薄れ、彼がやって来ると自ら窓を開けるようになっていたが、デリックは、会話の途中で必ず窓を少しだけ開けた状態まで閉める。そのあまりにも自然な動作に、シンディは最初、面と向かって自分と話したくないのだと思っていた。でも違う。彼は、冬の夜の寒さを案じていただけだった。以前風邪をひいてしまった自分のことを思って。
 ……そこまで考えるのは、自意識過剰というものだろうか。
 でも、その行動が起きるようになったのは、シンディが風邪をひいた次の週からだった。デリックの優しさに、思い上がってしまっても仕方がないだろう。

「……デリックさん、外は寒いでしょう。中に入って行かれますか?」
「……いや、いい。すぐに終わるから」
「そう、ですか」

 シンディは小さく息を吐くと、少しだけ開いた窓の隙間を見る。
 いつから、だろうか。
 この窓が、恨めしいと思うようになったのは。
 この窓さえなければ、私が普通だと思う込むこともできたのに。
 彼と、対等に話せていると錯覚することもできたのにっ
「――依頼人の人が、君に会いたいって」

 唐突に話が始まる。シンディの心は急速に冷えて行った。
 きっと……目の前の人は、私のことを、ただの客だとしか思ってないのだろう。それは、分かっていたはずなのに。

「その依頼人の人とは、手紙でやり取りしてるんだけど、いい逃げ……みたいな感じで、場所と時間だけ手紙に書かれてて、そこで待ってる、とだけあった」
「……ひどい人ですね。私の気持ちと都合を考えもしないで」

 知らず、冷たい声が出た。
 行きたくはない。が、もしシンディがいかなかったら、その依頼人は、寒空の下で長い時間待つことになるのだろう。……本当にひどい人だ。
 シンディがそれ以上何の反応も示さないのを見て、デリックは少し戸惑ったようだ。躊躇いがちに、言葉を押し出す。

「俺が言えた立場ではないかもしれないけど、今後似たようなことが続く可能性もある。一度会って、ガツンと言ってやったらどうだろう」
「…………」
「――俺も一緒に行くから」
「えっ……!」

 シンディは思わず顔を上げた。俯いたデリックが目に入った。

「上司に言われてるんだよ。その依頼人、結構な上客だから、できるだけ相手に添うような形でこっちも力を尽くせって。だから……」
「……デリックさんは、相手の方の味方だと?」
「いやっ、誰もそんなことは……!」

 慌ててデリックは否定するが、シンディにはそうとしか聞こえなかった。

「……分かりました。行きます」

 シンディは小さく呟いた。どちらにせよ、この関係は早く終わらせるに限る。そうしなければ、自分の身が持たないと思った。

「……ごめん」

 どうして謝るんですか。
 あなたは、ただ仕事をしているだけでしょうに。
 シンディは唇を噛むと、その言葉を必死に自分の中に押しとどめた。彼に、面倒な客だとは思われたくなかった。