12:ウサギの次は
コンコン、といつものようにシンディの部屋の窓が叩かれる。だが、シンディはいつものように迎えることができなかった。ベッドの中でゴホッと咳をした後、ゆっくり窓の方へ顔を向けた。
「で、デリックさん……」
「…………」
紅潮した頬に、潤んだ瞳、苦しそうに漏れる吐息。
勘のいいデリックはすぐに察した。
「ウサギの次は君か……」
「す、すみません」
デリックの呆れた声に、思わずシンディは謝った。迷惑をかけているわけではないのに、なぜか申し訳なくなったのだ。
「でも寝ていたら治ると思うので。すみません、今日はこれで――」
「薬は? ちゃんと飲んだの?」
か細いシンディの声が聞こえるように、デリックは窓を開けた。といっても、病人の身体を冷やしてもいけないので、ほんの少しだけだ。
「の……飲んでませんけど。でも――」
「飲まないと治らないよ。家の人は? このこと知ってるの?」
「いえ、伝えてません。熱があることに気が付いたのは、寝る前ですから」
「はあ……」
寝ていたら治るなんてそんな安易な考え、子供だってしない。
デリックは今日の仕事を頭の中でやりくりしながら、窓枠に頬杖をついた。
「何か食べたいものは? 薬と一緒に買ってくる。こんな夜だから、全部買ってこれるか分からないけど」
「い、いえ! ご迷惑でしょうし、そんなことを頼むわけには――」
「いいから。早く言って。俺だって早く帰りたいし」
「す、すみません。……では、果物を少々お願いできると……」
「果物ね。それだけ?」
「はい。本当にお気になさらずに……」
尻すぼみにシンディの声が消えていく。だが、そのすぐ後にコホンと小さな咳をしたために、全くもってデリックはほだされなかった。
「じゃあちゃんと布団被って寝てて。ウサギの世話も俺がするから。いいね?」
「はい。何から何まで済みません……」
申し訳なさそうに口元まで布団を被るシンディ。それを見届けてから、デリックは部屋を出て、しっかり窓を閉めた。
薬と果物、買うものはそんなに多くないにしても、こんな時間まで開いている店など、数少ないだろう。歓楽街の方に行けば何かあるかもしれない、とデリックは頭の中で地図を描きながら闇の中に溶け込んだ。
*****
買い物は、考えていた以上に手間がかかった。果物はなかなか見つからないし、薬も薬でこんな時間に開いている店などない。ようやく見つけたと思ったら、そこは歓楽街の果ての場所で、戻ってくるのにも更に時間がかかったのだ。
ぐったりした様子でシンディの家まで帰ってくると、デリックは慣れた手つきで木を登った。
「入るよ」
長く窓を開けているよりは、入ってきっちり閉めた方がいいだろうと、デリックはまたもや主の許可も待たずにずいっと侵入した。ケージの中のウサギも物音に起きたようで、がさごそケージ内を歩き回っていた。
ベッドに近づくと、眉根を寄せて寝入っているシンディの寝顔が目に入る。起こすのも悪いかと、デリックはそのまま地面に座り込こんだ。とりあえず果物の皮でも剥こうかとナイフを用意したが、ふと思い立ち、シンディの顔を見る。玉のような汗を浮かべており、寝苦しそうだ。冷たいもので額を冷やした方がいいのかもしれないと部屋の中を見回せば、水差しが目に入った。それで自分の手巾を濡らすと、恐る恐るシンディの前髪に触れた。
「…………」
なんとなく罪悪感を感じるデリック。だが、看病なのだから仕方がない。
ひんやりと冷たい手巾を額に置くと、シンディはわずかに身じろぎをして目を覚ました。ゆっくり開く彼女の瞳と、ぱっちり目が合う。
「ごめん、起きた?」
「あっ……いえ」
彼女が起き上がろうとするので、デリックは慌てて引き留めた。
「いいよ、そのままで。果物でも食べる? 何が好きか分からなかったから、適当に買ってきたけど」
デリックが真っ赤な実を持ち上げると、シンディはこくりと頷いた。
月明かりを頼りに、デリックはするすると果物の皮を剥いていった。その器用な光景に、シンディは目を丸くする。
「お上手ですね」
「まあね」
皮をむき終えたデリックは、皿がないことにも気がついた。仕方なしにむき出しのまま一欠片の果物をシンディに差し出した。
「ほら」
「ありがとうございます」
両手で受け取ると、シンディは小さくかじりついた。しゃくしゃくと小気味のいい音が響く。
「おいしいです」
「ただ切っただけだけどね」
しばらく、デリックが渡して、シンディが食べての構図が繰り返される。半分ほど食べたところで、シンディはお腹が膨れてきたのだが、折角切ってくれたんだからと断るのも忍びなく、そのまま有り難く食べ続けることにした。
ようやく全て食べ終わると、デリックは薬を取り出した。水差しと共に、シンディに差し出す。
「じゃ、食後の薬」
「はい」
食後じゃなくて食前だったら良かったのに、とシンディは苦虫を噛みつぶしたような顔で薬を口に含み、水と一緒に流し込んだ。後味が悪いままでは、穏やかに寝付けるかも分からない。
シンディが薬を飲んでいる間、手持ち無沙汰なデリックは、シロのケージにやってきていた。もう明け方に近いせいか、シロは活発にケージの中をウロウロしていた。見慣れないデリックの姿に興味津々なようなので、デリックは指先をケージの中に入れてみた。始めは物珍しそうにデリックの指の臭いばかり嗅いでいたシロだが、やがて攻撃のつもりなのかパクリと噛みついてきた。飛び上がるほど痛いわけではないが、それでも苦笑いが出てくる。
「今……なに、しましたか?」
「え?」
突然シンディが声を発したので、デリックは後ろを振り返った。彼女は未だベッドの上だが、なんとなく暗い面持ちでシロの方を見ていた。
「ああ、ごめん。触っちゃ駄目だった?」
「い、いえ、そうじゃなくて、今……シロが、触れて――」
シンディはギュッと毛布を握りしめた。
「い、いつも私が構おうとしても、シロは見向きもしないくせに……!」
「お、落ち着いて……」
何やら情緒不安定のシンディに、デリックは慌てた。
「それに、触れたっていうか、噛まれたっていうか……。どちらかというと、嫌われてるんじゃ?」
「全然そっちの方がいいですよ! 私なんて、興味すら持ってもらえないんです!」
撫でようとしても逃げるし、指を入れても無視するし……と、シンディはブツブツ独り言を口にする。
「慣れだよ、慣れ。俺の場合は、ただ珍しかっただけだよ」
「でも……」
真っ赤な顔でシロを恨めしく見つめるシンディを宥めるのにも数十分、彼女が寝付くのにも小一時間かかり、結局デリックが彼女の部屋を出る頃には、もうすっかり朝日が昇っていた。
「あー、もう眠い」
欠伸を連発しつつ、デリックはついそんな独り言を呟く。
依頼人に深入りしてはいけないことは充分分かっているのに、どうして放ってことができないのか、
デリックはその答えが分からないまま、ガシガシと頭をかいた。