11:月夜のティータイム
朝食を胃袋に押し込むと、シンディはすぐさま家を出た。今も苦しんでいるかもしれないシロのことを思うと、いても経ってもいられなかったのだ。こんなに早くにお出かけになるなんてと、ヘレンとカリーナには驚いたような顔をされたが、シロのことはまだ話す勇気がなかったため、曖昧にはぐらかして家を出た。
サフリエという名の動物病院には、昼近くになってようやくたどり着いた。ここまでの長い距離を、夜の間に往復させたのだと思うと、シンディは申し訳ない思いで一杯だった。
病院に入ると、一人の老人がシンディに背を向ける形で座っていた。ケージに入れられた動物たちに囲まれながら、書き物をしているらしい。
扉のベルの音で、老人は振り返った。
「何かご用かな」
「あ、えっと、昨日夜遅くにウサギを看て頂いたと思うんですけど……」
「ああ、シロちゃんのご主人かな」
「はい! あの、シロの様子は――」
「ひとまずは落ち着いたよ」
老人はちょいちょいと手招きをし、一つのケージの前で立ち止まった。中では、落ち着いた様子のシロが牧草を食んでいた。
「スナッフルという、いわば鼻風邪だね。この子はまだ小さいけど、最近飼い始めたのかな?」
「は、はい。まだ数週間も経ってないと思います」
「初めての場所に移動したからストレスを感じたみたいだね。ウサギにはよくあることだよ。ストレスを感じやすい動物だから。治療は終わったけど、スナッフルは再発する可能性もあるから、適度に通院することをおすすめするよ」
「分かりました。明日も来た方がよろしいでしょうか?」
「週に一度ほどで大丈夫だよ」
柔らかい口調と表情で老人は笑った。ようやくシンディも人心地がつき、胸をなで下ろした。
「こちら、お薬お渡ししておきますね」
「ありがとうございます」
治療費を渡した後、シンディは小袋に入った薬を受け取った。老人はシロがいるケージを棚から取り上げ、シンディに手渡した。
「あの、つかぬ事をお伺いしたいのですが……」
ケージを胸に抱えながら、シンディはおずおずと老人を看た。
「こちらって、夜もやっているんでしょうか……?」
「いや、日中だけだよ」
迷うことなく返ってきた返事に、シンディは慌てて頭を下げた。
「そ、そうですよね。あの、昨夜は本当に申し訳ありませんでした。シロが……この子の調子が悪そうだったので、いてもたってもいられず、無理にお願いしてしまったんです。本当にご迷惑を……」
「デリック君には、いつもお世話になってるから、気にしないでいいよ」
「そ、うなんですか?」
シンディが聞き返すと、老人は本当に嬉しそうに頷いた。
「孫が遠くの街に嫁いでしまってね、滅多に会えないんだけど、その代わり時々手紙のやりとりをしてるんだ。ここ数年で腰を痛めてから、配達局にまで行くのが辛くてならなかったけど、彼が孫の手紙を家にまで届けてくれるから、いつも助かってるんだ。最近では、買い物まで手伝ってくれてね、デリック君には頭が上がらないよ」
よどみなく話す老人に、いつしかシンディは顔をほころばせていた。彼が話すことは、聞いていて心地よかった。
「最初はぶっきらぼうな子だと思ったけどね、話してみると、案外素直な子でね。よく気が利くし、話も聞いてくれるし。まるで一人孫が増えたみたいな気分だよ」
「私も、デリックさんは良い方だと思います。今回のことも、私はただの届け先というだけなのに、わざわざ夜中にここまで連れて行ってくださいましたし」
「君も届け先の子だったんだね」
「はい」
ウサギとは全く関係ないところで、二人の話は弾んだ。そのことにようやく気づいたのか、老人は照れくさそうに笑った。
「話しすぎてしまったね。とにかく、一週間後にまたシロちゃんを連れて来てくれるかい? 調子が悪かったら、夜でも気にせずに来るといいよ。扉を叩いてくれたら起きるから」
「はい、本当にお心遣いありがとうございます。また来ます」
ケージを胸に抱え、シンディは再び頭を下げた。病院を出たときには、もうすっかり気分も明るくなっていた。シロもすっかり良くなったようで、ケージの中で、興味深そうに外の景色を眺めている。
「シロ、ちょっと遠回りしようか」
そんな声をかけて、シンディは歩き出した。
メリトン通りは、シンディの家からも、ヘレナの家からも遠かったため、今まで一度も来たことがなかった。目にするもの全てが、シロと同様物珍しいシンディである。
大通りを歩いたり、裏道を歩いたり、公園を突っ切ったときもある。ちょっとだけ方向感覚があやふやになりかけたとき、シンディは行列ができた店に目をとめた。赤い屋根が特徴の、レンガ造りの小さな店である。並んでいるのは女性客ばかりで、その店からは、甘い匂いが漂っていた。
近寄ってみると、ケーキやタルト、クッキー、ワッフルなどが売られているのが分かった。どれも輝かんばかりにショーケースに飾られている。
「おいしそう……」
思わずシンディは喉を鳴らした。と同時に、彼女は今日、朝ご飯しか食べていないことを思い出した。時刻はとうに昼を過ぎており、今から急いで帰ってもまだまだご飯にはありつけないだろう。
……いや、でも、外で食べるのははしたないし、それにいつまでも外にいたらシロがまたストレスを感じるかもしれないし。
悩みに悩んだ末、シンディは買うだけ買ってみることにした。外で食べることはしないが、お土産として買って帰るくらいならいいだろう。折角遠出をしたのだから、ヘレナやカリーナにも買っていきたい。
しばらく並んで、シンディの番がやってきた。あらかじめ買うものは決めておいたものの、いざ自分の番になると、その考えに迷いが生じた。
「えっと……」
指でショーケースをなぞりながら、シンディは口を開く。
「ワッフルを三つと、あと……この箱詰めのクッキーを一つ、お願いします」
気づけば、シンディはそんなことを口走っていた。ワッフルは自分とヘレナ、カリーナ用に、そしてクッキーは――デリックのために。
代金を払い、品物を受け取ると、シンディはどことなく気恥ずかしい思いで足早に家に戻った。
*****
もしかしたら、今日は来ないかもしれない。
そんな思いを抱えつつも、シンディは粘り強くシロの近くでデリックのことを待っていた。彼が、シンディと話すためにわざわざここへ来ているわけではないと言うことは分かっていた。しかし、それでも今のシンディと彼を繋ぐものは、皮肉なことに、シンディが嫌悪していた依頼人からの手紙だけである。
もう送ってこないでと伝言をたたきつけたくせに、今は緊張するほどほどその手紙を待ち望んでいる。身勝手なことだとシンディは自己嫌悪に陥りながらも、切望することを止められなかった。
デリックが現れたのは、いつもより随分遅い時間帯だった。いつもなら遠くで賑わっている歓楽街ですらも、すっかり眠りにつくほどの時間。周りを窺うように大木の下に現れたデリックに、シンディはすぐに窓を大きく開けた。
「こんばんは!」
「――えっ!?」
あからさまに動揺した様子でデリックはシンディの方を見上げた。上と下とで見つめ合うこの構図がなんだかおかしくて、シンディはクスッと笑い声を立てた。
「待ってたんです。今日も上ってきますよね?」
「え、あ、まあ……」
デリックはわずかに躊躇っていたようだが、やがて諦めたように上り始めた。シンディは窓からその様子を眺める。
「あの、昨日は本当にありがとうございました」
デリックが所定位置についたのを見計らって、シンディは頭を下げた。
「この通り、シロも今は元気です。何回か通院は必要らしいですけど、別状はないということで。デリックさんのおかげです」
「いや……そんなことは」
視線を逸らすデリックに、シンディは一旦部屋の中に引っ込んで、また戻ってきた。手には、今日の昼に購入した箱詰めのクッキーが抱えられていた。
「あの……」
大きく開いた窓から、シンディはおずおずとそれを差し出した。
「これ、受け取ってくださいませんか? シロのことで、デリックさんには大変お世話になったと……」
「え……あ、やー……」
だが、デリックは箱を受け取ろうとせず、一層居住まいが悪そうに頭をかいた。
「一応届け人の規定で依頼人および送り先の人からは何ももらっちゃいけないっていうのがあって……」
「――っ、そうなんですか?」
シンディは固まって聞き返した。純粋な気持ちでお礼をと思ったのはもちろんだが、その中に、デリックに喜ばれたいという自己中心的な考えがないかと問われれば、全くないとも言い切れない。そんなあやふやな心境を見透かされたようで、シンディはひどく恥ずかしかった。
慌てて箱を引っ込めようとしたシンディだが、それよりも一瞬早く、デリックがガシッと掴んだ。
「まあ、ここで食べきったら気づかれることもないけど」
「……いいんですか?」
なんだか気を遣わせているようで、シンディは逆に申し訳なかった。おずおずと顔を見上げるものの、デリックの顔色に変化は見られない。
「うん」
なんとも簡素な返答に、シンディはやがてパーッと笑みを浮かべた。気を遣わせたのは事実だろうが、しかし後悔はなかった。
「すぐに紅茶をお持ちしますね!」
身を翻して扉に向かうシンディだが、ドアノブに手をかけたところで、彼女は振り返った。
「あ、寒いですから、中で待っていてください!」
大木の所定位置から動こうとしないデリックに、強めにそう言うと、シンディはそっと部屋を出た。暗い階段を降り、キッチンへと向かう。いくら耳が遠いとは言え、こんな夜中にヘレンを起こすわけには行かないと、彼女はできるだけ足音を忍ばせていた。
キッチンでも、動揺に物音を立てないよう紅茶を入れた。シンディも喉が渇いていたため、二人分の紅茶だ。お揃いのティーカップが、何故だか今は嬉しい。
トレーに乗せてシンディが部屋に戻ると、デリックは床に足を崩して座っていた。シンディは一旦迷ってトレーをサイドテーブルの上に置いた。
「ソファにどうぞ座ってください」
「いや、ここでいい」
「でも……」
「気にしないで」
短く言うデリックに、それ以上シンディも何も言わず、黙ってトレイを彼の前に置いた。そして自分も床に座る。
「ソファに座ればいいのに」
「私もここがいいです。紅茶をどうぞ」
「ありがとう」
冷えた身体に、紅茶はよく染みた。一気に半分ほど飲んだところで、デリックが包みを手に取った。
「開けていい?」
「どうぞ」
なぜかシンディの方がワクワクしながら、デリックが包装を解くのを見守っていた。男性の好みはよく分からないが、甘い物なら嫌いな人はいないだろうとの、安易とも言える考えからシンディはクッキーを選んでいた。もし甘い物が嫌いだとしても、この箱詰めには様々な風味のものが入っており、何か一つくらいは気に入るものもあるだろうとの希望もある。
果たして気に入ってもらえるだろうかと、シンディは少々の不安も抱えて彼を眺めた。
「甘い物好きなの?」
目の前に広がる数々のクッキーに、デリックは目を白黒させた。
「あ、私は好きですけど……。もしかして、お嫌いでしたか?」
「いや、そんなことはないけど。最近はあんまり食べてないから、久しぶりな感じはする」
デリックはその中の一つを手に取ると、個包装を開け、口の中に放り込んだ。もぐもぐと咀嚼しながら、デリックは自身を見つめるシンディを見返した。
「食べないの?」
「それはデリックさんの分ですから……」
「一人で食べるのもあれだし、一緒に食べよう」
「で、でも……その」
もごもごと口の中で反論するだけで、シンディのそれは言葉にはならない。静かに感じるデリックの圧力により、ついにシンディはクッキーに手をつけた。
「…………」
おいしい。
行列がつくだけあって、確かにおいしいが。
「夜中にこんなに食べたら太りそう」
三つ目に手をつけたデリックが、ポツリとそんなことを言った。シンディは頬を赤らめて、二つ目に伸ばした手を止めた。
「――酷い人ですね! 私だって我慢しようと思ってたのに……!」
一人で食べるのは寂しいかと、体重のことは頭の隅に追いやってクッキーを食べたというのに。
シンディが恨みがましい視線でデリックを見れば、彼は今初めて気づいたとばかり目を丸くした。
「そっか、女子ってそういうこと気にするもんね」
「……酷い人ですね」
「ごめんごめん。でも、君はむしろ太った方がいいくらいなんじゃないの?」
「なっ……!」
パッとシンディが顔を上げれば、きょとんとした顔のデリックと目が合った。からかっているようには感じられないが、しかしそれでも平然とした顔で聞き流すことはできない。
嬉しいような恥ずかしいような、シンディは複雑な気持ちだった。からかっているつもりはないのだろうが、男性に体重のことを言及されるなんて。
シンディは恨みがましい目でデリックを見たが、彼はさして気にした風もなく、パクパクとクッキーを食していた。