10:シロの異変


 困り果てたように、デリックはその小さな屋敷を見上げていた。
 迷惑です、ときっぱり断られたことを承知の上での、依頼主からの新たな頼みごと。

 デリックにとっては、依頼主の神経が分からなかった。そして同時に、その頼みごとを引き受けた上司の神経も。

 届け人という、今のこの国の郵便制度の欠点を補填したような事業を立ち上げたことは尊敬に値する。同時に、うまく女性客の深層心理を突き、様々なオプションをつけることで、一躍人気になったことも。だが、彼は時折、無性に人の心というものが分からないことがあった。シンディの件については、まさにそうだろう。行き過ぎた執着すら感じられる依頼主のことを、初恋をこじらせた男性だと応援し、シンディに対しては、ただウブなだけだと誤解をしている。いくらデリックがこの依頼主の危険性を説いても、自分の考えを改めようとはしないのだ。

 デリックは深く思いため息をつき、そうっと大木を登り始めた。いつもとは違い、今回はシンディに気づかれてはいけないのだ。それが依頼主との頼みごとの一つでもある。
 いつもより神経を使いながら、デリックは木に登った。大きな丸い月が夜空に昇っているため、シンディがひとたび窓に近寄れば、デリックにすぐに気づいてしまうだろう。
 決してそうならないよう祈りながら、デリックはいつもの所定の位置よりも一段低めの枝を進んだ。そこからでは部屋の中が見えづらかったが、それでも目一杯背筋を伸ばせば見えないこともない。

 シンディは、この前と同じように部屋にへたり込んでいた。そして彼女のすぐ前にはウサギがいて、シンディはその小さな身体に手を当てていた。

 ――なんだ、やっぱりもう撫でられるようになったのか。
 呆気にとられたようにデリックはそう思ったが、しかし異変にはすぐに気がついた。ウサギが、小さくくしゃみを繰り返していたのだ。てっきり嬉しそうに撫でているのだと思ったシンディも、泣きそうな顔でウサギを宥めるのと、手元にある本を見るのとを交互に繰り返していた。

「どうしよう……」

 思わずと言った風に漏れた言葉に、デリックは咄嗟に窓に手を当てた。鍵がかかっているかもとの予測すら立てられずに、彼は思いっきり引いた。窓は驚くほどすんなり開いた。

「どうかしたの?」
「あ……」

 堪えきれなかったのか、振り向いた拍子に、シンディの頬に一粒の涙が流れた。

「し、シロの調子が悪いみたいで、私……。お医者様、ウサギを見てくれそうなお医者様って、ご存じですか?」
「一つ心当たりはあるけど」

 許可も取らずに、デリックは窓から身を滑り込ませた。一緒になってしゃがみ込んでウサギを見下ろす。――くしゃみは未だ止まないままだ。

「知り合いに動物を看られる医者を知ってる。そこに頼めばなんとか看てくれるかも」
「どこですか? 私、急いで連れて行かないと……」
「いや、俺が行くよ」

 ウサギを抱き上げて、デリックはキョロキョロと部屋を見回した後、ケージの中にウサギを入れた。多少荷物にはなるが、逃げられても困る。一番の難関は窓の外の木を降りることだが、仕事柄、重い荷物を持ったまま建物を上り下りするのは手慣れたものなので、大丈夫だろう。

「私も行きます」

 デリックが窓をくぐろうとした矢先、シンディが彼の服をくいっと引っ張って引き留めた。デリックは少しだけ彼女に顔を向けた。

「こんな時間に外に出たら危ないよ。それに、君の身に何かあったら、責任を問われるの俺の方だし」
「あ……」

 返す言葉も思い浮かばず、シンディは諦めて裾を離した。その様に、ちょっと言い過ぎたかとデリックはわずかに笑みを浮かべた。

「大丈夫。俺が責任を持って連れて行くから」
「……お願いします」

 シンディに見守られながら、デリックは難なく木を降りた。地面に降り立ったところで、普通に玄関から外に出させてもらえば簡単だったんじゃないかと思い至ったが、今となってはもう後の祭りだ。デリックはそのまま闇夜に姿を消した。彼の姿が見えなくなるまで、シンディはずっと祈るように両手を組み合わせていた。


*****


 朝日が昇り始めた頃、デリックはようやくシンディの家にたどり着いた。といっても、今の今までウサギにかかりきりだったというわけではなく、ウサギを病院に預けた後、他の荷物を届けに行ったり、事務所に一度報告に行ったりと、忙しい夜を過ごしていたのだ。

 さすがにもう寝ているだろうと、デリックは静かに木に登り始めた。敏感な人だと、木の葉のこすれる音にも起きてしまう人がいるので、仕事柄、その辺りは慎重に行かなければならないのだ。
 だが、いつもの所定位置に到達したところで、デリックは柄にもなく盛大に身体をびくつかせた。薄暗い部屋の中、窓の近くに、まるで亡霊のようにシンディが立っていたのだ。

「デリックさん!」
「起きてたの?」

 鬼気迫ったような彼女の表情に、デリックはわずかながらに罪悪感を抱いた。てっきりもう寝ていると思って、ここへ来るのは後回しにしてしまったのだ。彼女の性格を思えば、ウサギを放っておいて悠長に寝ていることなんてあり得ないのに。

「はい。心配で眠れなくて……。あの、シロはどうでしたか!?」
「大丈夫だよ。ただの……何だっけな、風邪か何かって言ってた。しばらくすれば治るって。その後も定期的な診察は必要らしいけど」
「良かったあ……!」

 胸に手を当て、シンディは心底嬉しそうな顔をした。デリックも釣られてちょっと笑うと、ポケットからしわくちゃになった紙を取り出した。そして小さく開いていた窓からそれを差し出す。

「ちょっと遠いけど、メリトン通り四丁目二番地、サフリエって名前の動物病院。明日……あ、もう今日か、行ってみるといいよ」
「はい。本当にありがとうございました」

 紙を受け取ると、シンディは深々と頭を下げた。大事そうに紙を見つめ、そして机の上に置く。

「じゃあもう行く」
「あっ、はい、お気をつけて! 今日は本当にありがとうございました!」

 再びぺこっと頭を下げたシンディに、デリックは軽く頷き、するすると木を降りていった。一晩中起きて、しかも街をまるまる駆け回っていたので、これでもかというくらい疲れが溜まっていた。家に帰ったら早く寝ようと、デリックはこっそり欠伸を漏らした。