09:嘘か真か


 服もだいたい乾ききったところで、二人は小屋を出た。辺りは随分薄暗くなっており、太陽が出ていた頃よりも肌寒かった。

「これをどうぞ。上から羽織ってください」

 着込んだばかりのジャケットを、マティアスは差し出した。ハリエットはすぐに首を振る。

「このくらい大丈夫です」
「でも、まだドレスは乾いていないのでは? 僕のは全て乾いたので、着心地も良いですよ」
「私が着たらまた濡れてしまいますから」
「気にしませんよ」

 半ば強引にマティアスはハリエットにジャケットを羽織らせた。つい先ほどまで着ていた彼のジャケットに包まれ、心地よいその適度なぬくもりに、ハリエットはほっと頬を緩める。

「じゃあ、急いで帰りましょうか」
「はい」

 暗くなってから山を下りるのは危ないし、何より、帰りが遅ければ皆も心配するだろう。
 しかし、屋敷に帰るには、再び湖を越えなければならない。湖を迂回することもできるが、どう見たって小舟で漕いで渡った方が早い。

「帰りも小舟ですか?」
「もう懲り懲りですか?」

 からかうようにマティアスが笑った。それに応える元気もなく、ハリエットは苦い顔だ。

「……せめて気をつけて乗り降りします」
「大丈夫ですよ。今度こそきちんと補助しますから」

 マティアスが腰に手を当てる。それでもハリエットの顔は浮かばれない。

「でも、小舟には子供も乗るんでしょう? それじゃあ面目丸つぶれじゃありませんか」
「上から豪快に落ちましたもんね」
「ドレスの裾が長かったことを失念していたんです。仕方ありませんよ」

 舟から落ちた当初は、マティアスに迷惑をかけてしまったと自己嫌悪に陥っていたが、服が乾いた今となっては、初心者だったのだから仕方ないと、すっかり開き直っていた。
 帰りの舟は、行きよりも随分早く進んだ。マティアスが漕いでいたのもあったし、ハリエットも大人しくしていたので、別段何事もなく向こう岸にたどり着いた。
 桟橋に上がるとき、ようやくこれで舟遊びとはおさらばだと、ハリエットが内心胸をなで下ろしたのは内緒である。
 馬をつなぎ止めておいたロープを外し、二人は再び馬に乗った。行きと同じ体勢のはずなのに、何故だかハリエットは居住まいが悪く、身体を強ばらせた。そのことに気づいたのか、マティアスが上から笑い声を落とした。

「疲れたでしょう? もたれても大丈夫ですよ」
「結構です」
「でも、行きの時だって体勢が辛かったでしょう? 身体をひねらせて、窮屈そうでしたし。ほら、遠慮しないで」

 ハリエットの肩に手を乗せ、マティアスは自分にもたれさせた。不安定だった身体がそれだけで楽になったし、何なら、少々冷たかった身体が彼の体温で暖められたくらいだ。
 そう、思いのほかマティアスの腕の中は居心地がよかった。久しく誰かの腕に包まれたことなどあっただろうか。ハリエットの記憶にそんな光景はなかった。あるのは、グレンダが母に抱き締められているのを、影からこっそり見つめているような、そんな光景だけ。
 早く帰らなければならないのに、ハリエットに配慮してか、マティアスはゆっくり馬を進めていた。その安定した速度に落ち着いたたのか、はたまたマティアスに対して気を許したのか。そのどちらから分からないが、とにかくハリエットはしばし夢の中をたゆたった。
 川を越え、山を下り、村を通り。
 ようやく屋敷に帰ってきたときには、もう辺りは真っ暗になっていた。屋敷から漏れる明かりと、玄関照明とが仄かに辺りを照らす。マティアス達の帰宅に、皆が総出で出迎えた。

「遅くなりました」
「本当よ。何かあったのかと心配したわ」
「ご心配をおかけして申し訳ありません」

 詳しい詮索から逃れようと、マティアスはハリエットの背を軽く押した。彼の思惑を察したハリエットは、反抗することなく両親の間をすり抜けようとする。が、すんでのところでカミラに肩に手を置かれる。

「あら、ハリエット。どうして髪が濡れてるの? それに、よく見たらドレスまで……? 何かあったの?」
「え? あっ、その……舟から落ちてしまって」
「舟から!? 大丈夫だったの?」
「はい。すぐマティアス様に助けて頂いたので」

 自分の失態を、こんな場で発表しなくてはならないなんて。
 思わずハリエットが苦い顔をすれば、カミラの向こう側で、笑いをかみ殺しているマティアスと目が合った。ジトッと睨み付ければ、マティアスはへらっと表情を緩める。

「だからこんなに遅くなったのね。どこかで服を乾かしていたの?」
「服? 裸で?」

 グレンダが恥じらいも何もない横やりを入れた。聞き捨てならない言葉に、その場の空気が重たくなる。

「マティアス……」
「いやっ、誤解しないでください!」

 マティアスはちょっと視線を逸らした。その僅かな時間で、言うべきことを頭の中で整理する。

「二人で火に当たっていたんです。湖の畔に、狩猟小屋があったでしょう? そこで火をたいて」

 服を脱いで、なんて余計なことは口にしない。妙なことを詮索されても面倒だからだ。

「マティアスの舟の漕ぎ方が下手だったんじゃないの? ハリエット様を危ない目に遭わせて」
「あっ、いえ。本当に私が勝手に落ちただけです。マティアス様にはむしろご迷惑をおかけしました」
「まあ」

 ティルダは嬉しそうに笑みを深くする。心なしか、皆の自分たちを見る視線が生暖かいように感じられて仕方がない。今まで、自分がこのように注目を浴びることは久しくなかったため、ハリエットは居心地が悪くて仕方がなかった。

「では、部屋で着替えてきますね」

 ようやくそう言うと、ハリエットは皆の間をすり抜け、客室に向かった。もうすぐ夕食だろうし、こんな格好で行くわけには行かない。

「ハリエット様」

 マティアスに声をかけられ、ハリエットはゆっくり振り返った。

「何でしょう?」
「湯を用意しますから、すぐに身体を温めてください。風邪を引くといけませんからね。寝るときも着込んだ方が良いですよ。この辺りは、深夜から早朝にかけて冷え込みますから」
「私は子供じゃありませんよ」

 そんなことを言うために呼び止めたのかと、ハリエットは少々立腹する。マティアスは軽く受け流すように笑った。

「分かっていますよ。でも心配で」
「……分かりました。そうさせて頂きます」

 渋々了承すると、マティアスは破顔し、彼の後ろでは、和やかに顔を見合わせるバーナード達の姿が目に入った。それが面映ゆく感じられ、ハリエットはいそいそと部屋に向かった。


*****


 夕食が終わると、しばらく談笑をして、ハリエットは早々に引き上げることにした。まだ昼の疲れが残っていたし、今日はもう休んだ方が良いとマティアスにも口を酸っぱくなるほど言われたからだ。
 僕ももう失礼しますと彼に先立って立ち上がられては、ハリエットもその後に続かないわけにはいかない。まるで駄々をこねる幼子をあやすかのように、彼に良いように操られているような気がして、ハリエットはいまいち釈然としない。
 部屋に戻ろうとハリエットは廊下を歩いていた。食堂からどんどん遠ざかっていくので、次第に話し声が小さくなっていく。

「ねえ」

 誰もいないと思っていた廊下で、急に声をかけられたので、ハリエットは小さく肩を揺らした。振り返れば、腕を組んだグレンダが立っていた。

「今日、本当にマティアス様とは何もなかったんでしょうね?」

 グレンダの鋭い視線がハリエットを射貫く。ハリエットは、余裕綽々と微笑んで見せた。

「何かあったとして、それがどうしたの? グレンダには何の関係もないでしょう?」
「マティアス様のことが好きなの?」
「――ええ」

 一瞬の間をおいて、ハリエットは頷いた。ゆっくり振り返る。

「彼、私の心を射止めて見せますって言ってくれたの。今までそんなこと言われたことがなかったから、少し嬉しくて」

 いつも自分は二番目だったから。自分だけを見て言ってくれた彼の言葉が嬉しくて、たった一瞬でも、夢を見ることができた。

「グレンダは、そんな経験おあり?」
「――っ」

 グレンダの表情が歪む。

「喧嘩売ってるの?」
「いいえ、そんなつもりは。怒らせてしまったのなら謝るわ」

 ハリエットは素直に頭を下げた。負けを認めたわけではなく、非を認めるためだ。ここで喧嘩をしないために。

「今日はこれで失礼するわね。私、マティアス様と約束があるから」

 艶やかに微笑み、ハリエットは颯爽とグレンダの前から姿を消した。向かうは、マティアスの私室である。

「マティアス様」

 数回ノックをし、小さく声をかければ、ドアはすぐに開いた。

「ハリエット様? どうして……」
「中に入ってもよろしいですか?」

 押し切るようにして、ハリエットは部屋の中に入った。後ろ手にドアを閉める。

「あの……昼に忠告されたばかりでは? 女性を部屋に入れるなと」
「私に関しては話が別だと思いますが。そう思いません?」
「……そう、思っていいのですか?」
「もちろん」

 ハリエットは一歩マティアスに詰め寄り、彼のことを上から下までマジマジと見つめた。
 綺麗な人だとは思う。世の女性達がこぞって彼に媚びを売るのも分かる。しかし、ハリエットが欲しいのはその美貌ではない。
 自分の欲に忠実で、それでいて、何事にもぶれないちぐはぐな純真さがある。他人に合わせる狡猾さを持ち合わせていながら、そこには底知れぬ情がある。
 会って間もないが、不思議と彼のことは信じられる気がした。しかし、だからこそ彼は危うい。本来の目的を忘れてしまいそうになるから。簡単な計画よりも、もっと難しく、茨の道を進もうとしてしまうかもしれないから。
 頭がおかしくなってしまいそうだった。
 自分が自分でなくなっていくようなこの感覚に、ハリエットは恐怖を抱いていた。自分を見失ってしまったら、今度こそもう終わりだ。グレンダは、もうすぐそこまで来ているのだから。

「マティアス様……」

 もう数歩詰め寄り、ハリエットはマティアスの胸に身を寄せた。マティアスが小さく息をのむ音が聞こえた。

「なっ……えっ、どうしたんですか?」

 予想通り、マティアスは慌てふためいた。それはもう面白いぐらいに。

「どこか具合でも悪いんですか? 部屋まで送りましょうか?」
「具合が悪いわけではありません」

 ハリエットは小さく笑った。その声が漏れないよう、頬の内側を軽く噛む。
 完全に閉めなかったドアから、息を殺すようにしてこちらの様子を探っているグレンダのことには気づいていた。だからこそ。

「好きです。あなたのことが」

 マティアスの胸に顔を埋めながら、ハリエットは彼を押しやり、ソファまで誘う。

「待っ――ハリエット様!?」

 ソファの縁に躓き、マティアスはハリエットと共にソファに倒れ込んだ。グレンダのいるドアからは、ソファの背が邪魔になって見えない位置だろう。ソファから僅かにはみ出す二人の足が、密着具合を彷彿とさせる。

「いきなり、本当にどうして……?」
「これがお望みでは?」

 ハリエットは身体を持ち上げ、マティアスを正面から見つめた。
 ハリエットの結婚――いや、お金が目的な彼にしてみれば、願ってもない状況だろう。このままハリエットをものにすれば、晴れて彼の念願は叶うことになる。――一方で、令嬢であるハリエットにしてみれば、最悪の事態になるだろうことは想像に難くない。貴族令嬢にとって、純血であることは花嫁に求められる当然の条件。本来ならば、はしたなくも結婚前に男女の仲になってしまうのはあり得ない出来事なのだが。
 いや、むしろそうなって欲しいとすら、ハリエットは思っているかもしれなかった。「そういうこと」をする以外に、この罪悪感を完璧に消す術を知らないから。

「まっ……本当に!」

 しかし、マティアスはハリエットを押しとどめた。頬を赤くし、ハリエットを真正面から見ないで、
「う、嬉しいですけど、ただこの体勢はいろいろときついと言いますか……」

 マティアスは頬を赤くしながら、視線を逸らした。

「一旦、退いてくれませんか?」
「嫌です。私に恥をかかせるおつもりですか?」
「ええっ、いえ、そんなつもりはないのですが」

 体勢が辛くなってきて、ハリエットはゆっくりとマティアスの首元に顔を埋めた。彼の息づかいがすぐ耳元で感じられた。胸元に置いた手からは、彼の鼓動が伝わってきた。

「もう少し、このまま……」

 人の体温とは、こんなにも気持ちの良いものだったのだろうか。恋仲の男女が、意味もなく抱き合ったり手を繋いだり、そういったことをする意味が、ようやく分かったような気がした。
 もっと、もっとという意味の分からない欲望がハリエットの中を駆け抜け、彼女は居心地のよい場所、もしくはもっと密着できる場所を探してもぞもぞと動いた。そのたびに、マティアスもまた、ため息のようなものを漏らしては、居住まいが悪そうに身体をずらす。
 そんなことをやっているうちに、ハリエットはだんだん眠たくなってきた。夕方も馬上で寝てしまったというのに、どうして彼の胸はこんなにも居心地がよいのだろうと、ハリエットは抵抗しようともせず、睡魔に身を任せた。