10:築く防波堤


 身体を軽く揺すられ、ハリエットは目を覚ました。ぼんやりと頭を上げれば、すぐ目の前にマティアスの顔があった。

「ハリエット様、もうそろそろ自分の部屋に戻っては?」
「…………」

 ハリエットはノロノロとした動作で起き上がる。マティアスの身体に跨がったまま、自分の様相をじっくりと見る。寝る前と同様、ハリエットはきちんと服を着ていた。ボタンの一つも外れてはいない。
 ホッとしたような、納得がいかないような、そんな矛盾した思いを抱えながら、ハリエットはマティアスの上から立ち上がった。そして彼もまた、ソファの上で半身を起こす。

「……マティアス様、何もしなかったのですね」
「失礼な! 寝ている女性に無体を働くようなことはしません!」
「起きていても、何もしなかったではありませんか」
「それは……っ!」

 何かを言いかけて、マティアスは大きく口を開いた。が、結局そこから彼の思いが飛び出してくることはなく、彼はその動揺を隠すようにして頭をくしゃくしゃ掻いた。

「とにかく、こんなことはもうしてはいけませんよ。あなただって、昼に僕に忠告したばかりではありませんか」
「私とあなたの関係性では、問題ないと思ったのです」
「問題あるでしょう!」

 急にマティアスが大きな声を出したので、ハリエットは驚いて身体を硬直させた。マティアスと目が合うと、彼はすぐに頭を下げた。

「すみません、大声を出して。……でも、もうそんなことをして欲しくなくて。今日のあなたは、どこかおかしいように見えましたから」

 ハリエットは片眉を上げる。妙なところで勘の鋭い人だと思った。
 マティアスは、
「それに、僕には……あなたが本当に僕のことを好いていてくれているのか分からなくて、もしかして冗談なんじゃないかともすら思って……」
「酷い人ですね」

 ハリエットの口から、思いのほか固い声が飛び出した。自分でも、何をそんなに怒っているのか分からなかった。ただ、眉を寄せ、組んだ両手に力を込める。

「私の言葉を信じてくださらないのですか? 必死の覚悟だったのに」
「いえ、そういうわけでは――」
「今夜はこれで失礼しますね。お休みなさい」

 マティアスの言い訳を聞かずに、ハリエットはさっさと彼の部屋から出て行った。もうこれ以上彼と話しても仕方がないのだ。計画に、彼の意志は関係なく、全てはグレンダが主導しているのだから。
 でもなぜだが、去り際マティアスに言われた一言がハリエットの胸をチクリと刺し続けていた。
 ――もしかして冗談なんじゃないかともすら思って。
 ハリエットにすらなにが何だか分からなかった。本当は分かるような気がしたが、ハリエットはすぐその答えに蓋を閉める。
 その言葉だけは、信じて欲しかったのに。
 そんな声を残して、ハリエットの心は閉ざされた。


*****


 翌朝、いつも通り朝食を食べに食堂へ行けば、珍しくグレンダの姿があった。彼女は、朝起きるのが苦手で、いつも遅い時間に朝食を食べるか、自室でとるかのどちらかなのだが。

「おはようございます」
「おはようございます、ハリエット様」

 メイリーとティルダに挨拶をした後、ハリエットはチラリとテーブルを見回す。マティアスの姿はまだなかった。寝坊だろうかと思いながらも、ハリエットはどこかホッとしていた。昨日の今日で、合わせる顔がなかったからだ。
 朝食を食べている間、ハリエットは己を睨み付ける鋭い視線に気がついていた。言わずもがな、義妹のグレンダである。彼女のその燃えるような瞳を見たとき、焚き付けは完了したとハリエットは確信した。これでもう、ハリエットが何をせずとも、彼女が事をうまく運んでくれるだろう。
 やがてマティアスも起きだしてきて、今日は何をしようかという話になった。とはいえ、田舎であるメイリー家の領地には、買い物できるような場所も娯楽施設も全くないのだが。

「私、湖に行きたいわ!」

 グレンダが一番に声を上げた。マティアスは困ったように眉を下げる。

「でも、季節が季節ですから……」
「昨日は行こうって話になっていたのに、どうして今日は駄目なんですか?」
「誤って湖に落ちて、風邪でも引いたら大変ですから」
「あら、でもそれはお姉様が悪かったんじゃない。私はそんなことにはならないから、大丈夫ですわ」
「でも、万が一のことを考えて」

 マティアスの言葉に、バーナードやカミラまでもが加勢する。グレンダは小鼻を膨らませた。

「誰かさんのせいで湖行きがなくなっちゃったわ」

 そうしてハリエットにだけ聞こえる声でそんなことを言った。ハリエットとしては、どこ吹く風という姿勢だったが。

「では、代わりに村に行きませんか? 特産品として、この辺りで取れる鉱物を加工しているんですけど、その製造過程が面白いので、ぜひ見学してみませんか?」
「鉱物……?」

 グレンダが胡散臭そうな目でマティアスを見る。そのことに気づいているのか気づいていないのか、マティアスはいつもの笑みで大きく頷く。仕方がないと言わんばかり、グレンダは大きくため息をついた。

「じゃあ、そこで……」
「ハリエット様もぜひご一緒に。皆で行った方が楽しいですから」

 ごく自然な動作で、マティアスはハリエットを誘った。グレンダの顔が大きく歪んだことには気づかない。

「私は遠慮しておきます」

 ハリエットは平然とした態度で応えた。

「体調がよくないので」
「もしかして、昨日のあれで? 医者に診せた方が良いのでは?」
「心配はご無用ですわ。少し休めばよくなりますから」

 茶を飲み干すと、ハリエットは口元を拭いて立ち上がった。

「ぜひ二人で楽しんでいらして」

 メイリー達に挨拶をして、ハリエットはそのまま下がった。
 別段、調子が悪いというわけではない。むしろ、好調な方だ。
 しかし、グレンダが動き出した今、もうハリエットはお邪魔虫だ。離れた場所で、諦観する必要がある。
 メイリー家に滞在したのは、一週間ほどだった。その間中、ハリエットはマティアスを避け、グレンダが彼に甘える様を見ていた。そのたびに、マティアスは慌てたように誤解しないでくださいと弁解をするが、ハリエットは笑って受け流した。
 最終日近くになってくると、もうハリエットは自室から出るようなこともなかった。メイリーに案内された書斎で、時折好きな本を借りては、部屋に戻っていく日々だ。

「こんな所にいらっしゃったんですか」

 しかし、その日は違った。いつものように、何の本を借りようかと軽く試し読みをしていたとき、書斎の入り口で、マティアスが立っていた。難しい顔つきで、どこか困っているようにも見えた。

「言ってくだされば、案内したんですけど」
「マティアス様にはグレンダがいるでしょう?」

 マティアスはすぐに何のことか合点がいき、矢継ぎ早に説明をする。

「やっぱり誤解してらっしゃいますか? 僕とグレンダ様は何の関係もありませんよ。今日だって、村を案内していただけですし」
「でも、グレンダの方はそう思っていないのでは?」
「――っ、でも、やましいことは何もしていません」
「本当に?」

 ハリエットはようやく本を閉じ、マティアスの方を向いた。マティアスも、ハリエットに詰め寄る。

「僕のことが信じられませんか?」
「ええ」

 ハリエットはすぐに頷いた。

「私は、いつも裏切られてばかりでしたから、自分しか信用していません。あなたがいい人でも、悪い人でも関係ありません。グレンダを引き取ってくれるなら、それで満足なんです」
「おっしゃっている意味がよく分かりません」
「グレンダは、私のことが嫌いなんです」

 ため息と共に、ハリエットは話し始めた。

「いえ、それでは少し語弊がありますね。自分以外のものに注目が行くのが許せない、とでも言いましょうか」

 こんなこと、出来れば誰にも話さず、自身の胸にだけ留めておきたかったが、マティアスは一応当事者だ。話すことが、せめてもの義理だろうと思った。

「グレンダは、幼い頃に両親を亡くし、バーナード家に引き取られました。妹は甘え上手で、私は不器用。そんなことに言い訳するつもりはありませんが、正直疲れたんです。あなたも、ここ数日私たちの様子を見てお分かりでしょう? 私はいつもグレンダの二番目なんです。だから……もう嫌なんです。あの子の存在に怯えるのは」

 欲に理由をつけて合理化するのも嫌だったし、何より弱い自分自身が嫌いだった。

「私は、家族が誰もいないところに嫁ぎたい。でも、おそらく私が思いを寄せる相手には、必ずグレンダがやってくる」

 ハリエットは僅かに顔を上げた。マティアスの顔は見られなかった。

「だから、一度あなたを囮にしたんです。私があなたを気に入っているように見せかけて、グレンダをけしかけて。予想以上にあの子、面白いくらいにあなたに夢中になってくれましたね。これで私の計画は終わったんです。こうなることを望んでいたんです」
「こうなることって」
「あなたとグレンダが結婚すること」

 長い沈黙だった。マティアスが動く音に、ハリエットは反射的に彼を見た。思った以上に彼との距離が近く、ハリエットは一歩退いた。羞恥よりも恐怖が勝った。この人は、こんなに大きい人だっただろうか?
 マティアスは退くハリエットの肩を掴んだ。

「――この前の言葉は嘘だったんですか?」

 そうして押し出されたマティアスの声は掠れていた。

「僕を好きだと言ったあの言葉は」

 予想とは全く違う言葉に、ハリエットはしばし混乱した。てっきり、罵られるとばかり思っていたのに。
 やがて、ハリエットの鼓動も落ち着いていく。静かに目を閉じた。

「……ええ」

 どうせ信じていなかったくせに。
 ハリエットは薄く笑った。

「でも、あなただってそうでしょう? 私じゃなくてもよかった。この家を継げるのなら、グレンダでもよかった。安心してください。おそらくバーナード家はグレンダに相続権が渡りますから。私は家族から離れて、落ち着いた生活をすることになります」

 もうここに居る必要はないと、ハリエットはマティアスの手を外した。が、逆に彼に手を掴まれる。

「違います、僕はあなただったからこそ――」

 マティアスの声が途切れる。
 今更何を言うつもりだったのだろう。
 ハリエットは期待もしていなかった。

「さようなら。お分かりでしょうが、グレンダにこのことは内緒にしていてくださいね。癇癪を起こされても面倒ですから」

 それだけ言うと、ハリエットはさっさと書斎を後にした。
 廊下を歩きながら、ハリエットはどこかもやもやした気持ちを消火できずにいた。確かに後味は悪かったが、もうこれで自分が傷つくことはないと思うと、むしろ清清するくらいなのに。
 マティアスは色男だ。見目だけでなく、立ち居振る舞いも紳士然としているし、気を遣うことにも長けている。どこにいっても、おそらく彼は女性達に人気だろう。そんな彼が夫だなんて、考えるだけで気が重いし、それに、グレンダのこともある。いつも鷹のような妹が側にいては、気が休まる所なんてない。
 だから、これで良かったのだ。マティアスとグレンダがくっつけばそれで全て収まる。私は落ち着いた身の丈に合った結婚ができるし、家族とだって離れられる。
 なのに、この言葉にできないもやもやは何なのか。
 一体どうしたことだろうと悩みながら、ハリエットは客室までやってきた。そしてドアノブに手をかけたところではたと気づく。
 そう、ここに来るまでの間、ハリエットが悩み、言い訳をし、合理化した行為は、今までと何ら変わらない行動だった。むしろ、その繰り返しとも言える。
 グレンダに欲しいものを盗られても、どうせ欲しくなかったから、どうせ可愛くないからと言い訳をし、手に入れられなかったものへの欲と悔しさを合理化する行為。

「…………」

 もうそんなことはしたくなくて動いたのに。またこういうことになるのね。
 自分が情けなくて、ハリエットはそのままドアに頭をコテンとぶつけた。


*****


 バーナード家が帰る日がやってきた。見送りをしようと、メイリー家は総出で屋敷の前に集まる。
 当主は当主、その妻は妻で和やかに話す中、ハリエットは一人少し離れた場所で立っていた。彼女の視線の先には、グレンダとマティアスが。

「マティアス様、また会いに来てくださるわね?」
「――ええ、もちろんです」

 一瞬ハリエットとマティアスの視線が交錯する。が、次の瞬間には、何事もなかったかのようにそれぞれの視線は元通りに戻る。

「今度は、バーナード家の領地を案内して頂いてもよろしいですか?」
「もちろんです! でも、私たちの領地は広いから……馬に乗って移動することになるけれど、よろしいかしら? それに私、乗馬があまりうまくないから、マティアス様に乗せて頂きたいわ」
「光栄ですよ。僕でよろしければ、いつでもお乗せします」
「まあ、嬉しいわ、ありがとうございます!」

 二人は一緒に笑い合った。傍から見れば、恋人同士かと思うくらいには仲の良さが窺える。
 マティアスの両親もそう思ったのか、慌てたように二人の会話に口を挟んだ。

「マティアス、ハリエット様に挨拶をしなくてもいいのか?」
「……ええ」
「そんなに照れなくてもいいじゃない」
「照れてはいませんよ」

 両親にせっつかれ、マティアスは渋々ハリエットの元にやってきた。静かな瞳で、二人は対面する。

「お気をつけて」
「ありがとうございます」

 なんとも素っ気ない挨拶だった。ハリエットはそのまま馬車に乗り込み、グレンダは、マティアスに補助されながら馬車に乗り込んだ。

「では、マティアス様。ごきげんよう。またすぐに会いに来てくださいね」
「もちろんです。バーナード様、カミラ様、ハリエット様もお気をつけて」
「ありがとう。マティアス殿も、ぜひまた遊びにきてくれ」
「はい。また窺わせて頂きます」

 馬車は緩やかに出発した。グレンダは窓から顔を出し、マティアスに向かって大きく手を振る。
 やがてメイリー家が見えなくなると、グレンダは興奮したように話し始めた。マティアスのことや、メイリー家の領地のこと、ここ数日間で遊んだこと。
 その間、ハリエットはずっと窓から見える景色を見つめていた。