11:頑なな態度
日を置いて、マティアスは何度かバーナード家を訪れた。バーナード達――特にグレンダ――は彼を歓迎し、領地を案内したり、共に食事をしたりと、様々にもなした。
その間、マティアスは、ハリエットに対し、目もくれなかった。グレンダがすり寄ってくるのを今まで以上に愛想の良い態度で対応し、むしろ彼女に気があるのかと思うくらいには、甘い笑顔を浮かべていた。
ほら、やっぱりそっちが本性じゃないの。
そう思う一方で、ハリエットはイライラを止めることができなかった。自身の安寧のためにやったことなのに、どうしてこうも感情を乱されるのか。
ハリエットはそれ以上見ていられなくて、自室に閉じこもった。本を読んでいるだけで時間を忘れたし、その間だけでもマティアスとグレンダのことを頭の隅に追いやることができたから、尚のこと良かった。
しかし、彼女の母カミラはそのことを良くは思わなかったらしい。客人が来ているというのに、挨拶をして早々部屋に引きこもる娘に目くじらを立て、珍しくハリエットの部屋を訪れた。
「全く呆れたわ。気分でも悪いのかと思っていたら、本なんか読んで。お客様が来ているのになんて態度なの?」
本を取り上げられ、ハリエットはまごついた。その間に、カミラは彼女をベッドから追い立てる。
「行かないと駄目じゃないの。部屋に引きこもるなんて許しませんよ。行きなさい」
カミラは腰に手を当て、そう言い放った。ハリエットは悲壮な顔つきでだんまりを決め込む。
私の気持ちは聞いてくれないのね。
ぼんやりそう思った。なぜ本を読んでいるのか。なぜ最近マティアスとよそよそしいのか。なぜこの頃ハリエットの表情が芳しくないのか。
それら全てに、カミラが気づいているとは思わなかった。むしろ、一つでも気づいているかも怪しい。グレンダの機嫌が良ければ、それでこの家は通常運転なのだから。
「お母様――」
「何?」
自分でも、何を言いたいのかよく分からなかった。とりあえず小さく母に声をかけ、でもやっぱり何が言いたいのか分からなくて。
「いいえ、何でもありません」
ハリエットは立ち上がった。軽く様相を整え、部屋を出た。エントランスに向かえば、丁度出掛けようとしていたらしいグレンダ達と遭遇する。
「あら、お姉様」
わざとらしくグレンダは目をぱちくりさせた。
「ずっと引きこもっていたと思ったら、どんな気持ちの変化なの? たまには散歩でもしようって?」
「……そんなところよ。あなた達はどこへ行くの?」
「山に行くの。馬に乗ってね。エヴァリーズ地方では、誰かさんのせいで湖に行けなかったものだから」
「ハリエットも連れて行ってあげて」
後ろから、カミラがそんなお人好しな声をかけた。グレンダは驚いて目を剥く。
「嫌よ! 二人っきりで行くって約束したばかりだもの!」
「そんなこと言わずに……。ハリエットも連れて行ってあげて」
「大体、お姉様もそんな気分じゃないでしょう? 陰気なお姉様なんか連れて行ったら、こっちまで気分が盛り下がっちゃうわ」
「グレンダ」
窘めるようにカミラは言うが、グレンダは顔を背け、それ以上の話し合いを拒否した。気まずい沈黙が流れる。一人黙っていたマティアスがハリエットに目を向けた。
「ハリエット様はどうなさりたいのですか? ご自分で決めては?」
「…………」
冷静な瞳でマティアスに見つめられ、ハリエットは言葉に詰まった。
板挟みだった。
マティアスとグレンダの仲睦まじい様子は見ていたくなかったし、かといって、ここに残ってカミラの小言を聞くのも嫌だった。辛いから残っただけなのに、まるでそのことが悪のように責め立て、グレンダと比較される小言なんて。
「私も行ってよろしいですか」
「お姉様!」
グレンダが鼻息荒く睨み付けるが、そこはマティアスがいつもの調子で彼女を宥める。
「では、ハリエット様は乗馬はできますか? グレンダ様は僕がお乗せしますが、ハリエット様は……」
「自分で乗れます。ただ、お時間を頂いてもよろしいですか? 乗馬服に着替えてきます」
「どうぞ」
「全く、お姉様のせいでどんどん出発が遅れるじゃないの」
グレンダの不満たらたらな声により、ハリエットは足を速めた。妹の立場を思えば、確かにそうだと思ったからだ。
準備を終えたハリエットは、マティアス達と共に厩舎小屋へ向かった。
グレンダはドレスのままだったが、マティアスによって横座りに乗せられていた。そんな光景を横目に、ハリエットは自ら馬に乗る。乗馬は小さい頃からやってきていたので、多少は自信があった。
山裾からどんどん登っていき、なだらかな山道を二列になって馬で歩いた。早く行くことよりも、道中お喋りすることが目的なので、その速度は至って緩やかだ。
しかし、ハリエットの心境としては複雑なものだった。すぐ側で展開されるマティアスとグレンダのお喋りを聞いていたくなくて、自然に馬の速度は落ちていく。
一列になり、間を開け、更に開け。
二人の話し声が完全に聞こえない距離で、ハリエットは周囲の景色を見て気を紛らわせていた。だが、そう時を置かずに、不意に声をかけられる。
「大丈夫ですか?」
ハッとして顔を上げれば、数メートル先で馬を止め、マティアスがこちらの方を振り向いていた。もの言いたげなグレンダの顔が目に入り、ハリエットは慌てて二人の元へ向かった。
「すみません。遅れてしまって」
「いえ」
「足手まといにはならないでよね」
また横並びになってしまった。ハリエットの表情は曇る。
ハリエットが一人蚊帳の外であることを気にしてか、今度はマティアスも彼女に話しかけた。
「ハリエット様は乗馬がお上手なのですね」
しかし、むしろハリエットはその方が胸が痛んだ。顔を俯けながら、小さく頷く。
「ありがとうございます。でも、グレンダの方が上手なんですよ」
「――っ、何言ってるのよ! お姉様には適わないわ!」
おほほ、とグレンダは空笑いを返した。その様子から見るに、おそらく、乗馬は下手だからマティアス様乗せて、とでも言っていたのだろう。
そんな光景が容易に浮かんだが、ハリエットは表情に出さなかった。他人の粗をつくような趣味はない。
「そろそろ休憩しましょうか。丁度近くに川がありますから」
マティアスが指した方向には、小さな川が流れていた。周囲には豊富な芝が茂っており、馬を休ませるためにも充分な環境だ。
ハリエットは川にたどり着くと、まず馬を労った。鞍はつけたままだが、馬を川まで案内すると、嬉しそうに水を飲み始める。
なんともおいしそうに水を飲むもので、それを見ていると、ハリエットは次第に喉の渇きを覚えてきて、彼女もまた、川に膝をつき、冷たい水に両手を浸した。刺すような冷たさに、ハリエットは少し怯んだが、そのまま水をすくい、口元に運ぶ。喉が渇いていたので、水分補給できることはありがたがったが、後から寒さがぶるりとやってくる。
ハリエットの後ろでは、マティアスがグレンダを下ろしていた。
「お気をつけて」
「はあい」
地面に降り立つと、グレンダはぐんと伸びをした。それを見てマティアスも両肩を回す。
「疲れましたね」
「肩でもお揉みしましょうか?」
「えっ、いえ、さすがにそんなことをして頂くわけには――」
「遠慮なさらずに!」
横目でチラリとのぞき見れば、なんともまあ微笑ましいというか、苛立たしいというか、とにかくそんな光景が広がっていた。
肩もみなんて、両親にすらしたことがないくせに、一生懸命マティアスの肩もみをしようと奮闘するグレンダに、地面に座り込みながら気持ちよさそうに目を瞑るマティアス。
何もこんな所で肩もみなんてしなくていいじゃないの、とハリエットは苛立たしくて仕方がなかった。
それに、すっかり自分は蚊帳の外だ。
こんな状況は、今までに何度も経験してきたとはいえ、今回は妙に癪に障るのはなぜだろうか。
ハリエットは、唐突に立ち上がると、そのまま闇雲に歩き始めた。行き先などなく、とにかく彼らの居ない場所へ行きたかった。しかし、その願いも空しく、ハリエットはすぐに呼び止められた。
「どこに行かれるんです?」
「……向こうの方へ行ってみようかと」
マティアスからの問いに、ハリエットは嫌々ながら答えた。二人だけの空間になるのなら、わざわざこちらに声をかけて欲しくなんかなかった。
「そうね、そうしたらいいわ。お姉様、散歩が好きじゃないの。好きなところに行ったら?」
「ええ、最初からそうするつもりよ」
すげなく応えると、ハリエットはさっさと歩き出した。上流に向かって歩き始め、どんどん上へと登っていく。
いつもならば、川のせせらぎが心地よく聞こえてくるはずのこの散歩の時間。しかし、ハリエットの内心は穏やかではなかった。心を落ち着けようとすればするほど、つい先ほどのグレンダ達の光景が頭の中をよぎり、落ち着かない。
もう自分には何も関係ないはずなのに、これで自由になれたはずなのに、胃がムカムカしてくる。なぜこうも胸が苦しく締め付けられるのだろうか。
ハリエットはその場に立ち止まった。どれだけ歩いたって、やりきれない思いは解消されることはなかった。
認めようと思った。この痛みが、マティアスによって引き起こされたものだと。
これだけ自分の心が叫んでいるのだ、自分くらい認めなければ、誰がこの痛みに共感してくれるというのか。
しかし、だとしても、ハリエットは釈然としなかった。一体自分は彼のどこに惹かれたというのか、と。
確かに、マティアスは美男子だ。しかし、ハリエットは顔の造作など評価対象に入れていない。では、彼の愛想の良い態度だろうか。その点は、ハリエットは非常に高く評価していた。自分自身が不器用で愛想がないと自覚している分、マティアスの誰に対しても平等で親切な態度は、ハリエットの理想でもあった。
とはいえ、尊敬しているから惹かれた、というのはおかしな話だろう。尊敬が愛情へと変わる例もあるだろうが、なんとなく自分のこれは当てはまらないのではないかと思った。
となると、答えは何か。
「…………」
不意に馬鹿らしくなって、ハリエットは重たい息を吐き出した。
答えが分かったからといって、何なのだろうか。自分のこの想いは結局報われることはなく、知られることもなく、霞となって消えてしまう運命なのに。
ハリエットは徐に歩き出した。マティアス達の場所へ帰ろうと思った。散歩は終わりだ。
川へ沿って歩いてきただけなので、帰り道は簡単に分かった。元の場所には、もしかしたらマティアス達の姿はないだろうが、その方が良いだろう。幼い頃から何度も来た領地内なので、帰り道は分かるし、一人の方が、気が楽だからだ。
行きよりも、幾分か軽い気分のまま、ハリエットは下流へ向かった。もうそろそろ元の場所だろうか、と思い始めたとき、ハリエットは違和感に気づいた。妙に辺りが静まりかえっているのだ。
茂みを抜けたとき、ハリエットはその理由を瞬時に理解した。緊迫した空気の中、マティアスとグレンダ、そして大人二人分はあるだろう猪が向かい合っていたのだ。
「ハリエット様!」
咄嗟にマティアスが叫ぶ。驚きに、ハリエットはその場で立ち尽くしていた。
猪は、未だマティアス達に注視しているようだった。手負いの獣で、足に怪我をしている。
「逃げてください!」
明らかにマティアス達の方が危険だ。にもかかわらず、彼はハリエットに声をかけてきた。叫びながらも、ジリジリと後退し、繋いでおいた馬にグレンダを乗せる。
その頃には、ハリエットもようやく正気に返っていた。幸いなことに、ハリエットの馬はすぐ近くにつなぎ止めていたので、すぐに駆け寄ることができた。焦りながらも、ロープを外す。
が、馬が興奮したのか、小さくいなないた。その鳴き声を聞きつけ、猪が振り返る。
「急いで!」
マティアスの声が聞こえたが、ハリエットの耳には届かなかった。猪と目が合った瞬間、怯えて足を竦ませてしまったのだ。縫い止められたように、その場から動けない。
猪が一歩足を動かす。
「――っ」
全てがいやにゆっくりに見えた。突進してくる猪に、遠くの方であっと口を押さえるグレンダの顔。そして突然目の前に映り込むマティアスの金髪。
「きゃあっ!」
自分の叫び声のはずなのに、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。なにが何だか分からないうちに、目の前のマティアスは苦痛に顔を歪める。猪は、彼の腕に噛みついたままだった。
「くっ!」
持っていた木の枝で、マティアスは猪の目をついた。苦しそうな声が猪の口から漏れる。ようやくマティアスの腕が自由になったかと思うと、すぐに傷口から赤い血が噴き出す。ハリエットは呆然とその様を見つめていた。
「乗ってください」
しかし、彼は平然とした顔でハリエットを馬に乗せた。ハリエットの後ろか自分も飛び乗り、片手で手綱を操る。
「グレンダ様、馬は操れますね?」
「で、できるけど――」
「では下山しましょう。猪もまだ興奮しています。今のうちに」
「マティアス様っ! 腕は大丈夫なんですか!?」
「大丈夫です。見た目ほど深くはないので」
マティアスの馬を先頭に、三人は速やかに下山した。時折、グレンダが心配そうにマティアスに声をかけ、対するマティアスも、大丈夫だと同じ返答をする。ハリエットはというと、未だ先ほどの光景が忘れられず、ずっと茫然として自失していた。
屋敷へ帰ると、いつものように執事が出迎えた。が、マティアスの怪我を見るなり、すっ飛んでバーナード夫妻を呼びに行った。
「下手をうちました」
マティアスは、脂汗の光る顔で、苦笑いをした。
「まあ、何て酷い」
カミラはすっかり血の気の失った顔で、オロオロしていた。
「早く医者を呼ばないと。誰か、街から医者を呼んできて!」
「一体何があったんだ?」
「手負いの猪がいたんです。やはり山へ行くのなら、武器は持って行った方が良かったですね」
「猪に遭遇したとき、お姉様がすぐに逃げなかったから悪いのよ。お姉様を庇って、マティアス様がこんな目に」
「まあ、そうなの? マティアス様、本当にありがとうございます。ハリエットを守ってくださって」
「いえ、そんなたいしたことはしていません。むしろ、危ない目に遭わせてこちらが申し訳ないです」
「そんなことおっしゃらないで。私たちの領地で、大切なご子息に怪我をさせただなんて、メイリーご夫妻に顔向けができないもの。本当にごめんなさいね。そして重ね重ねありがとうございます」
カミラは深く頭を下げた。それに合わせ、バーナードも頭を下げる。
「本当にありがとう。なんとお礼を言っていいものやら。君は娘の命の恩人だよ」
「そんな、大袈裟ですよ」
マティアスは慌てて両手を振った。その際に傷が痛んだのか、後半は泣き笑いのような表情になって、皆がワッと彼を心配した。
医者が来るまで、マティアスは客室に通された。ソファに座った彼を、皆が取り囲む。
「ハリエット、あなたはお礼を言ったの? マティアス様をこんな目に遭わせて」
「え?」
「え? じゃないわよ。お姉様ずっとこんな感じなのよ? マティアス様に対して失礼ったらないわ」
「先ほどの恐怖で驚いていらっしゃるのでしょう。僕はもう大丈夫ですから、安心してください」
ニコニコと笑うマティアスに、カミラは深々とため息をついた。
「本当にお気遣い頂いて……」
彼女の視線は、チラリとハリエットに向いたが、もう何も言うことはなかった。代わりに、パッと明るい笑みでマティアスに向き直った。
「そうだわ、今日は泊まっていってくださいな。そんなお身体でお帰り頂くわけに行かないわ」
「その通り」
追随してバーナードも仰々しく頷いた。
「それじゃ馬も操れないだろう? 今日はとにかくここで養生して行ってくれ」
戸惑ったようにマティアスはバーナード、カミラとを見比べたが、やがて観念したように苦笑を零した。
「では、お言葉に甘えさせて頂きます」
「やったわ!」
彼の返事に喜色の声を上げたのは、もちろんグレンダである。彼女の不謹慎な返事に、すぐにカミラが非難の声を挟む。
「グレンダったら。マティアス様はお怪我でここに滞在なさるのよ? 喜んだ顔をするんじゃありません」
「お母様だって、さっき嬉しそうに提案してたじゃない。ね、マティアス様、今日は私が看病してあげるわ」
「え? いえ、それは――」
「グレンダ、マティアス殿を困らせるんじゃない。それに、うるさいお前がいたら怪我に響くだろう?」
「まあ、酷いわね、お父様ったら。私、そんなにうるさくないもの」
「どの口が言うのか?」
「この口よ」
グレンダがイーッと口を開けば、バーナードとカミラは明るい笑い声を立てた。釣られたようにマティアスも笑い、医者の到着を告げに来たメイドも笑い。
ただ一人、ハリエットだけが、じっと地面を見つめていた。