12:自分が分からず
マティアスの治療が終わった後は、バーナードとカミラ、そしてハリエットで遅い夕食をとった。怪我に響いてもいけないので、マティアスはそのまま客室で食事をとることになった。一人じゃ寂しいだろうから、とグレンダが無理に彼の部屋に自身の食事を運ばせたのだ。バーナードは苦い顔だったが、カミラはというと、グレンダのおかげで怪我の痛みを忘れられるのなら、それでいいじゃないと彼女の肩を持った。そのまま、ハリエットにもマティアスの部屋で食事をとるよう提案をしたが、それを却下したのはハリエットの方だった。未だ、自分がうまく表情を作れるか自信はなかったし、自分の暗い顔のせいで、マティアスに気を遣わせることを思うと、それも申し訳なくて彼の部屋に行くことができなかった。
夕食の帰り、自失に向かう途中で、マティアスの部屋を通った。グレンダの話し声と、マティアスの明るい笑い声が、酷く耳に残った。
ハリエットは待った。本を読んだり、結局読むのを止めたり、意味もなく部屋の中を歩き回ったりと、ただ無為な時間を過ごしながらその時が来るのを待った。
もうそろそろいいだろうか、とハリエットは息を潜めて自室を抜け出した。まだ深夜には及ばないが、誰かの部屋を訪れるには少し遅い時間。
マティアスの部屋の前で、ハリエットははしたなくも聞き耳を立てた。中からは、何の音もしなかった。グレンダの声も、マティアスの生活音も。
もしかして、もう眠ってしまっただろうかと、ハリエットは半ば失望しながら、扉を小さくノックした。返事はなかった。焦れて、これで最後だともう一度ノックしようとしたとき、唐突に扉が開いた。
「……っ」
「ハリエット様?」
互いに何が起こったか分からず、しばし見つめ合った。先に我に返ったのはマティアスの方だ。
「こんな時間にどうなさいました?」
「え? あっ……話したいことがあって」
「このまま話しますか?」
「中に入れてもらってもよろしいですか?」
おずおずとハリエットはそう提案した。はしたないことは承知していたし、この前の今日で、こんな提案をすること自体恥ずかしくもあった。しかし、マティアスの部屋を訪れたことを、誰かに知られることも避けたい。一番避けたい事項だ。
自分のつま先をじいっと睨んでいると、マティアスが僅かに動く気配を感じ取った。
「じゃあどうぞ」
マティアスが大きく扉を開いた。安堵と共に、ハリエットは彼の部屋に入った。
マティアスは、簡素な格好をしていた。着替えは持っていなかったはずなので、おそらくバーナード家にあった服を借りたのだろう。腕の怪我は、長いシャツで隠れて見えない。しかし、おそらくそのシャツをまくれば、痛々しい包帯が覗くのだろうと、ハリエットは唇を噛みしめた。
「あの、昼はすみませんでした。私のせいで、マティアス様にお怪我をさせてしまって」
座りもせずに、ハリエットは沈痛な表情で謝った。お礼と謝罪、今日は一度もしていなかったことを、ずっと心残りに思っていたのだ。
「謝らないでください。あなたのせいじゃありませんから」
「でも――」
「不幸な事故だったんですよ。むしろ、ハリエット様のお身体に傷が残らなくて良かった」
「でもマティアス様は」
「僕は男だからいいんですよ。傷はいくらでも勲章になりますから」
「…………」
そう言われてしまえば、もうハリエットに言える言葉はない。
相変わらず、ずるいなと思った。こういうときくらいは、心からの謝罪をお礼を受け入れて欲しいと思った。――いや、お礼なら受け取ってくれるのだろう。
そう思って、ハリエットは顔を上げた。瞬間、マティアスと目が合って、驚いて下を向く。マティアスが苦笑を漏らしたのが気配で分かった。
「ハリエット様は」
「え?」
「気が強いのか弱いのか、よく分かりませんね」
「何の話ですか?」
調子を取り戻して、ハリエットは顔を上げた。しかし、思いのほか柔らかい表情をしていた彼に、毒気を抜かれる。
「初めて会ったときは、大人しい人なのかと思っていましたが、その後、部屋に連れて行かれて、思わぬ一面を見せられて。その後も、やけに自信満々に僕のことをからかうかと思えば、家族に対しては静かで、大人しい。一体どれが本当のあなたなのか、不思議でなりません」
「……あなたには関係ないでしょう」
このままいけば、自分の心を見透かされそうで、ハリエットは防波堤を築いた。しかし、マティアスはそれを容易に越えてくる。
「確かにそうですね。でも、単純に興味があって。なぜいつもそんなに大人しいのかって。グレンダ様にだってはっきり言い返せば良いのに」
ハリエットは言葉を詰まらせた。誰かにそういうことを言われたのは初めてだった。グレンダの、自分に対するちょっとした嫌味は、誰もが可愛い我が儘と見て聞き流していたのに。自分だって、平然を装ってきたのに。
「言い返したからといって」
状況が変わるわけでもない。
「喧嘩になるだけです」
「それでいいじゃありませんか」
何てことない表情で、マティアスはそう言った。
「年相応に喧嘩すれば良いじゃないですか。鬱憤を溜めず、言いたいことを全てぶちまければ」
「そんな簡単なことじゃありません」
「簡単ですよ」
ハリエットは、いつの間にか拳を握っていた。一人っ子には、男には、マティアスには絶対に分からないだろうと思った。ハリエットにだって矜恃はあるのだ。本当は、グレンダに対して嫉妬心を覚えることすら、自分が恥ずかしくて仕方がないのに。
「あなたに何が分かるんですか」
「分かりませんよ」
折角言い返した言葉は、無碍もなく返ってきた。
「全く分かりません。あなたの心も」
訳が分からなくて、ハリエットは片眉を跳ねさせた。言われた意味を問い返すかのように、彼を見つめ返す。
「どうしてやってみもせずに諦めるんですか。お父様とお母様だって、よく話し合ってみれば良いじゃありませんか。話をしたら何か変わるかもしれないのに諦めてるんですか? それでグダグダ言っていても、言い訳にしかなりませんよ」
「グダグダなんて言っていません」
「言ってるじゃありませんか」
「あなたが言わせてるんです!」
「でも、そう思ってるんでしょう?」
咄嗟に言い返せずに、ハリエットは眉間に皺を寄せた。彼の虚を突くような言葉を発したいのに、頭がうまく回転しない。
丸裸にされた気分だった。無理矢理心を開かされて、グシャグシャにされて、思うようなものではなかったからと、ポイと捨てられた気分。いや、呆れられたのだ。
「僕のことにしてみたって」
再びマティアスが攻勢を続けた。
「グレンダ様に言い寄られたら、すぐなびくような、そんな男に僕は見えました? そうだとしたら、非常に心外です。僕はそんな不誠実な男ではありません」
「お金目的のくせに」
ハリエットは我慢ならずに、すぐに切り返した。してやったり、と今度こそハリエットはそう思った。マティアスが僅かに目を見開いたからだ。好機とばかり、ハリエットは矢継ぎ早に攻撃を続けた。
「あなたが結婚や私のことを道具と思っていたように、私だってあなたのことを道具と思っていただけのこと! あなたと同じことをしているだけなのに、どうして私を責めるんですか!」
酷い言葉だというのは分かっていた。これでは開き直ってるだけなのに。責任転嫁も甚だしい。
反論しようとマティアスが口を開いたのを見て取り、ハリエットはそれよりも早く叫ぶ。
「お金が目的である分、妻も愛すると、あなたはそうおっしゃいましたね? でもそこには本当に愛情はあるんでしょうか? 浮気などせず、愛人など作らず、妻だけを一生大切にすることが、本当に愛情なのですか? ……おそらくあなたは、偉そうで面倒な私のような人でも、ニコニコ愛想笑いを浮かべて結婚してくださるのでしょうね。あなたは優しいから」
ハリエットは吐き捨てるように言った。尊敬ではなく侮蔑だった。かつて尊敬していた優しさが、今ではこんなにも恨めしい。
「……失礼しました」
ハリエットは唐突にそう言った。このまま行けば、またどんなひどいことでも口走ってしまいそうで、退出することにしたのだ。マティアスの顔を見ることもできずに、ハリエットはそのまま後ろを向いて扉へ向かう。
全く酷い心境だった。
マティアスを攻撃したのは自分なのに、ひょっとしたら彼よりも傷ついてるかもしれないとすら思う。
マティアスを信じられないことが嫌だったし、自分に自信がないのも嫌。でも、これ以上自分が何をしたいのかも分からなかった。
マティアスはその後、数日間バーナード家に滞在した後、エヴァリーズ地方に帰って行った。グレンダはひどく寂しがり、いつでも遊びに来てねと縋っていた。マティアスはそれに対し、またすぐに伺いますと返していた。しかしそれは単なる社交辞令だったのか、もうバーナード家に見切りをつけたのか、それから彼が姿を現すことはなかった。