08:心解きほぐす
――一体、昨夜グレンダとマティアスは何をしていたのか。
ハリエットが詮索する権利はないとは分かっている。しかし、気がついたらそのことばかり考えていて、眠れなくなってしまった。
計画通り、だとは思う。ハリエットがマティアスに気があると思ったのか、それとも単に自分が彼のことを気に入ったのか、とにかくグレンダはマティアスに夢中だ。昨日のハリエットに対する言葉も、本来の計画を思えば、まずまずの出来だ。
そう、これでいいはずなのに。
なんとなく釈然としないのだ。
結局何一つ頭を整理できないまま、ハリエットは外から屋敷へと戻ってきた。丁度ロビーの所で、グレンダと鉢合わせする。運が悪いなと、ハリエットは少々眉を寄せた。
「こんな時間に散歩をしていたの? お姉様も物好きねえ」
「気持ちよかったわよ。空気が冷たくて」
「あらそう。でも私は趣味じゃないの」
ふっと鼻で笑うと、グレンダは食堂へと歩き始めた。が、何を思ったのか、すぐに彼女は振り返る。ハリエットを上から下まで見て、微かに笑った。
「――彼、脱いだらすごいのね」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。グレンダが食堂へ姿を消してからようやく、ハリエットの心は時を刻み始める。だが、それでもハリエットはしばらく動けない。
脱いだらすごい?
マティアスは、誰とでもそんな関係を築くような人だったのだろうか。婚姻前の女性とでも?
ハリエットは静かにかぶりを振った。いくら彼の噂が酷いとはいえ、マティアスもそこまで愚かではないだろう。何より実家の命運がかかっているときに、女遊びにうつつを抜かせるわけがない。それに、あのマティアスだ。ハリエットに対し、恥はかかせないと言い切ったマティアス――。
そこまで考えたとき、ハリエットは自分の思い上がりに気づき、恥ずかしくなってしまった。
そもそも、マティアスが本当にそんなことをしないと言い切れるのか? いくら真面目とはいえ、彼も男だ。豊満なグレンダに言い寄られて、その気にならない男はいない。
そう、これでよかったのだ。
ハリエットはそう自分を納得させた。
これでグレンダはマティアスと結婚し、晴れてハリエットは自由の身。身を固めたグレンダに、婚約者にちょっかいをかけられることもなくなるし、なんなら嫁いだ先の実家に引きこもることだってできる。家族の言動に、一致一有することもなくなるのだ。それでいい。
朝食は各自バラバラにとった。が、朝食を食べたものが応接間に集まり、皆が揃うと、湖に出掛けようという話になった。魚釣りや舟遊びを楽しむためだ。
しかし、その直前で、カミラとティルダが家に残ってお喋りをするということになったので、結局湖に行くのは当主二人と若者三人だけだ。
乗馬服は持ってきていなかったため、ハリエットとグレンダは、馬に横座りになった。当たり前のようにマティアスも同じ馬に乗ってきたので、ハリエットは慌てた。
「お父様は?」
「お父上は、グレンダ様を乗せていますよ」
「なぜあなたが?」
「お父上は二人もいないでしょう?」
言いくるめられ、言葉に詰まっている間に、マティアスは手綱を引いた。当主二人は馬を横付けにして歩き、グレンダはというと、父の肩越しに、ハリエット達をもの言いたげに睨み付けていた。
ハリエットは彼女から目をそらし、景色を楽しむことにした。だが、それでも、自分を包み込むマティアスの温かさが頭から離れることはない。
「もたれても大丈夫ですよ」
不意にマティアスが口を開いた。ハリエットが意識してもたれかからないようにしていることに気遣ってだろう。
「結構です」
「ですが、その体勢は少しきついのでは?」
「大丈夫です」
強めに言うと、もうマティアスは食い下がらなかった。代わりに。
「――もしかして何か怒ってます?」
ハリエットは眉根を寄せた。
「どうして?」
「いえ、そんな気がして」
「そんなことありません」
「そうですか」
淡泊に会話が終わる。ハリエットとしては、釈然としなかった。彼に機嫌を気取られたのも気にくわなかったし、手玉にとられているようで苛立ちが増す。こんなはずじゃなかったのに。
やがて、小川が見えた。この小川をもう少し超えた先が湖らしい。
「ねえ、まだ先なの? ここで休憩していきましょうよ。お尻が痛くて堪らないわ」
グレンダが唇を尖らせれば、父親達は苦笑し、それぞれ馬を止めた。バーナードの補助によって馬から下りると、グレンダは喜々としてマティアスの元に駆け寄った。
「お父様ったら、乗馬が下手なのよ。私マティアス様に乗せてもらいたいわ。ねえ、マティアス様ー!」
「そんなことはないでしょう。狩りの時は僕などよりもうまく馬を操っていましたし。そんなことより、湖まで行かないんですか?」
休憩という声が聞こえていなかったマティアスは、声を張り上げた。
「湖よりも川の方が魚は釣れるからな。私たちはここで釣りをしていく」
メイリーは笑って答えた。バーナードも続けて頷く。
「それに、いつまでもお目付役がいたんじゃ、若者も気を抜けないだろう?」
「バーナード様、それはおっしゃいますな」
「余計な一言でしたかね?」
何がおかしいのか、わははと笑い合う父親二人。馬鹿らしくなって、マティアスは馬を引いた。
「では、僕たちは湖へ行ってきます」
「おう、ごゆっくり」
茶化すような視線を背中にふつふつと感じながら、マティアスは馬を早足で移動させた。そんな彼らを見て、グレンダは慌てたように父親の袖を引っ張った。
「ねえ! 私も湖に行きたい!」
「我が儘を言うな。尻が痛いってぼやいてたじゃないか。ここで魚釣りをした方が楽しいだろ」
「そんなの嫌よ! 私も湖に行きたいの、ねえお父様ー!」
グレンダの叫び声を背に、ハリエット達は湖に向かった。ハリエットの方は、湖よりも一人になれる場所の方が魅力的に思っていたのだが、馬に二人乗りしている以上、そんな状況は望めないだろう。
やがて、湖畔にたどり着いた。辺り一面透き通るような水が張っているその光景に、ハリエットはしばし言葉を失う。地面に膝をつき、湖を覗き込めば、鏡のように自分の姿が映し出される。魚もちらほらいるようで、時折小さく水が跳ねる。
もう少し行った先には、桟橋があり、二つの小舟が置かれていた。桟橋につなぎ止めてあるロープを外せば、誰でも自由に使えるらしい。
「これに乗るんですか? 転覆したりしませんか?」
「心配性ですね。こう見えて、腕は良い方なので安心してください。三人も同時に乗せて漕いだこともあるし」
言いながら、マティアスは器用に小舟に飛び乗って見せた。ハリエットに対し、右手を差し出す。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
どことなくふて腐れたような顔でハリエットは彼の手を取った。そのちょっとした油断が隙を生んだのか、思いのほか揺れる小舟に対処できず、ハリエットは体勢を崩した。
「わっ」
「気をつけて」
もう片方の腕でマティアスはハリエットの腰を捕らえた。カーッとハリエットの頬に熱が集まり、彼女は反射的にその腕を掴んだ。振り払うこともできず、外すこともできず。
ハリエットが微動だにしないので、マティアスは訝しげに彼女を見た。
「どうしました?」
「えっ? あ、いえ……」
「もう大丈夫ですよ。ゆっくり座ってください」
腰と手を押さえられたまま、ハリエットは小舟に座った。ドレスがふんわり広がる。
「風が気持ちいいですね」
マティアスはゆっくり船をこぎ始めた。湖の上なので、寒いくらいなのだが、彼には何てことないらしい。
「良かったら漕いでみます?」
丁度中間地点に来たとき、マティアスはオールを止めて言った。景色に目を向けていたハリエットは、思わず彼の顔をまじまじと見る。
「私が?」
「ええ。どうぞ」
そう笑ってオールを手渡されれば、ハリエットとしてもひくわけにいかない。
薄らとだが、マティアスが漕いでいた姿を思い出し、オールを漕いでみる。思った以上に水の抵抗があり、ハリエットは四苦八苦した。
「腕だけじゃなくて、身体全体でオールをひくと良いですよ」
「は、い……」
マティアスの言うことは、頭では理解できるが、それを実践するとなると、また話は別だ。気がつけば再び腕の力だけでオールを漕いでいるし、そうでなければ、水面をただむなしくかいてしまうだけのときもあり、表情は険しくなるばかりだ。
「慣れるまでは難しいかもしれませんね」
マティアスにそんな言葉をかけられたが、ハリエットはムキになった。いくら初心者とはいえ、舟遊びは子供でもできるというのに、ここで引き下がるわけにはいかない。
しかし、一向にハリエットの腕は上達せず、岩にぶつかったり、方向転換ができなかったりと、散々な結果である。疲れて動きも緩慢になっていたとき、気を紛らわそうとマティアスが明るい声を上げた。
「あっ、後ろの岩の所に亀がいますよ。川からやってきたんでしょうかね」
「亀? どこですか?」
「そこからではちょっと見えないかもしれませんね。右に回ったら見えると思いますよ」
言われたとおり、ハリエットは右のオールを操る。が、僅かも行かないところでマティアスが待ったをかける。
「そっちのオールではなくて、左のオールで右回りを……」
「…………」
だんだん、ハリエットは面倒になってきた。右回りも左回りもややこしくて、何もかもがどうでもよくなってくる。
ハリエットは、無言で立ち上がろうとした。方向転換ができないのなら、自ら体勢を変えれば良いだけのこと。
しかし、立ち上がりきる前に、長いスカートの裾を踏んでしまって、彼女は体勢を崩してしまった。あっとマティアスも腕を伸ばし、ハリエットの手を掴むが、その頃にはもう彼女は身体が小舟の外に投げ出されていて、抵抗する間もなく、二人一緒に冷たい水の中に落ちていく。
ハリエットは、なにが何だか分からなかった。立ち上がろうと思った瞬間、視界が回転し、気がついたら水中にいたのだから。
水の中で大きく広がるドレスのおかげで、何とか溺れずにはすむ。マティアスに助けられ、ひとまずは小舟の縁に寄りかかった。
「す、すみません……」
「いえ、こちらこそ」
まずはマティアスが小舟に上がった。そうして上からハリエットを引き上げる。あまりの恥ずかしさと申し訳なさに、ハリエットは顔を上げられない。
「まずは簡単に漕ぎ方を教えておくべきでしたね。すみません」
「いえ、私のせいです。本当にお恥ずかしい限りです」
大人しくマティアスに言われた通りやればいいだけの話だったのに、変に焦ってしまった。己の面倒くさがりが今では恨めしい。
「ひとまず、岸に戻りましょうか。向こう岸の方が近いですから、あそこへ行きましょう」
マティアスが指した方向には、行きと同じような桟橋と、その先には小さな小屋があった。
「あの小屋は? どなたか住んでいらっしゃるんですか?」
「いえ。あそこは狩猟小屋なので、誰も住んでいませんよ。今もおそらく誰もいないでしょう」
マティアスの慣れた扱いによって、小舟はすぐに対岸に到着した。二人して身体を震えさせながら小屋まで行く。
「人目がありますから、ここで乾かしてから帰りましょう」
小屋の中は、思っていた以上に綺麗だった。整然としているし、ものはそんなに多くはないが、必要最低限のものは揃っている。奥には暖炉があって、すぐ側に薪が山のように積み上げられている。しかし、衝立がないし、ここの他に部屋があるわけでもない。
「私はこのままでいいです」
ハリエットは表情を硬くした。こんな所で肌をさらす気はなかった。確かに寒いことは寒いが、我慢できないほどではない。
「でも、風邪を引きますよ。僕は外にいますから、中で乾かしてください。火をたきましょう」
マティアスは小屋の中へ入ると、早速火の準備を始めた。何をすれば良いのか分からなかったので、ハリエットはただそこに居住まい悪く佇む。
「ここは、狩りの前後によく使うんです。獲物を捌いたり、寝泊まりしたり。造りはしっかりしていますから、温かいですよ。あ、ほら、火もつきました」
ちょいちょいとマティアスに手招きされ、ハリエットは暖炉の前まで移動した。寄れば寄るほど熱気が伝わって、ともすれば寝てしまいそうにすらなってしまう。
「じゃあすみません。ちょっと失礼しますね」
何を思ったのか、マティアスは豪快に服を脱ぎ始めた。てっきり外で乾かすものだと思っていたハリエットは仰天してしまった。
「な、何をしているんです!」
「あ、お目汚し失礼します。でも、この天気だと、外で乾かすより火に当てた方が良いかと思って。あ、大丈夫ですよ。上だけ乾かしますし、脱いだら外に出ますから」
「そういう問題では――えっと」
ハリエットは混乱した。確かに脱がなくては服を乾かせられない。しかし、今の自分の言動だと、服を脱ぐのなら外に行ってこいと言っているようなもので、それもあまりに失礼だし、恩知らずだ。
じっと下を見つめながら、何かよい案がないかと頭を探る。
しかし、マティアスは早々に脱ぎ終わってしまった。
「じゃあ外に行ってきます。くれぐれも火には気をつけてくださいね」
「あっ、あの……」
こんな寒い中、彼一人外に行かせるわけには行かない。
意を決してハリエットは立ち上がった。そして上半身裸の彼を見据える――。
「……?」
ハリエットは首を傾げた。マティアスもきょとんとした表情になる。
「どうかしましたか?」
「…………」
ハリエットは、無言でマティアスの元まで歩み寄った。そして彼の腹を一撫でする。
「なっ、何するんですか!」
マティアスは顔を赤くして一歩退いた。だが、それだけでハリエットは諦めるようなことはせず、むしろどんどんマティアスに近寄り、その胸板に両手を置き、さわさわとなで始めた。
「ふ、ふふっ」
ハリエットは、堪えきれずに思わず笑い声を出す。
「ぜ、全然すごくない……」
「は?」
「全くすごくない……。全然すごくない」
「何がですか?」
マティアスはきょとんとして聞き返す。が、そのすぐ後に、彼女の言動の意味を理解し、今度は羞恥で顔を赤くした。
「貧相な身体で悪かったですね! 失礼ですよ、人の身体をそんな風に!」
「いえ、馬鹿にしているわけではないのですが。でも、やっぱりすごくないなって――」
やはり、グレンダのあの言葉は口から出任せだったのだ。
今日はずっと、彼女の言葉一つで狼狽えていたのが馬鹿みたいだ。
ハリエットの爽快さとは裏腹に、マティアスはすっかりへそを曲げたようだ。
「ご令嬢がはしたないですよ」
そう短く言うと、隠すようにして身体を背ける。
「どうせ身体なんて誰も見ないですから。身体を鍛えたからって、何の得にもなりません」
まるで拗ねたかのような物言いに、ハリエットは笑みをかみ殺した。ここで笑うのは頂けない。彼には義理もあるのだから。
「前にも言いましたでしょう? 外面を良くすることにお金をかけるよりも、お金をかけずに、中身を磨いていく方が格好良いと思いますよ」
「そうでしょうか?」
「そうですよ」
ハリエットは大きく頷いた。それでも、マティアスは納得いかないような顔だ。
「私も聞きたいことがあるのですが」
この際全てが知りたいと、ハリエットは彼に向き直った。
「なんでしょう?」
「昨夜、グレンダを部屋に引き入れていたでしょう? 何をしていたんですか?」
マティアスはしばし意味が分からないといった顔で瞬きをした。が、何のことか思い当たると、サッと顔を青くした。
「もしかして、誤解してるんですか!?」
「え? いえ――」
「違いますよ! あれは、グレンダ様が犬を見たいとおっしゃって……。あの時は、僕の部屋で放し飼いにしていたので、彼女を中に入れるしかなかったんです。それに、二人きりではありませんでした。使用人も二人いて、決してあなたが思っておられるようなことは何も――」
「大丈夫です。もう誤解していません」
あまりに必死なので、ハリエットは笑ってしまった。
「ですが、もう他の女性を部屋に入れては駄目ですよ?」
どんな噂がたつかも分からないのに。
そう思っての言葉だったが、マティアスは嬉しそうに笑った。
「はい、もちろんです。今回は僕が軽率でしたね。すみません」
マティアスは更に続ける。
「でも、そんな風に思って頂けて光栄です。今までちっとも僕とグレンダ様のことは気にかけてなかったのに」
「何か誤解してます? あんなことをするのは紳士としてあるまじき行為だと言ってるんです。あなたがそんなことを続けるのであれば、噂に尾ひれはつくばかりですよ」
「はい、肝に銘じます」
説教されているというのに、マティアスはニコニコと素直に聞き入るばかりだ。これでは、真面目に言っているのが馬鹿みたいだ。
だが、ハリエットももうこれ以上何か言うのは止めておいた。本当のところ、むやみに女性を部屋に入れるなとの助言も、純粋にマティアスを思っての言葉だったのかすら分からなくなっていたからだ。
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