06:見方が変わる


 曇り空が続いていたある日、晴れ間が見えたので、バーナードとマティアスは、以前から約束していた狩猟を行うこととなった。場所はもちろんバーナード家が所有する狩猟地だ。この狩猟地は、山も谷も川もあり、動物が暮らすには充分の場だ。そのため、野鳥や狐、野ウサギ、鹿などがのびのびと暮らしており、狩猟地としては最適な場所なのだ。王侯貴族達にも人気で、狩猟シーズンがやってくると、候補地の一つとして挙げられることもままあった。
 男性陣が狩猟を楽しむ間、バーナード家の女性陣は、庭でお茶の時間を楽しんでいた。季節柄、少し肌寒くはあるが、日も昇った晴天の中行われるちょっとした茶会は、気分を盛り上げるのに充分だった。
 お茶を二回ほどおかわりしたところで、男達が帰ってきた。馬を乗りこなし、パディ含む猟犬を携えてテーブルの数歩手前で立ち止まった。

「お疲れ様でした。どうでした? 狩りの方は」

 カミラが穏やかに尋ねれば、バーナードは興奮したように頷いた。

「やはりマティアス殿は狩りの腕が素晴らしいな。感服したよ」

 満足そうに彼がマティアスの方を叩く。マティアスはというと、照れたように頭を下げる。

「いえ、私なんてまだまだですよ。今回の手柄だって、パディのものといっても過言ではありませんから」
「まあ、パディが役立ったの?」

 グレンダが嬉しそうに立ち上がった。

「はい。パディの鼻はすごいですね。すぐに獲物を見つけ出しますし、足も速い。よくここまで育てましたね」
「でしょう? 飼い主の私のおかげかしら」

 グレンダは胸を反らした。バーナードは呆れたように苦笑を漏らす。

「よく言う……。世話などほとんどせず、使用人に任せきりのくせに」
「あっ、お父様! それを言ったら駄目でしょう!」

 和やかな笑い声が響き渡る。
 グレンダはツンとし、パディに向かって膝をついた。

「パディー、偉かったわねえ」

 彼女は相好を崩すと、パディの首回りをよしよしと撫でる。パディは気持ちよさそうに目を瞑った。

「パディ、こっちにいらっしゃい」

 カミラが声をかければ、パディは素直に彼女の元へ駆けていった。撫でて撫でてと言わんばかり、首を伸ばす。

「よしよし。可愛いわねえ、パディ」

 パディが可愛がられているのを、ハリエットはそこから少し離れた場所から見つめていた。呼べば己の元にもパディは来るのだろうが、何の意地か、彼女はそれをしない。やがてパディは、再びグレンダの元へ戻っていった。元気がありあまるようで、彼女のドレスにじゃれつく。

「パディったら、もしかしてお腹空いてるんじゃない?」

 グレンダがスコーンを手に持っているので、それを餌だと勘違いしたらしい。グレンダはそのままスコーンを何の気なしにかじったが、パディは勢い余って彼女に飛び乗る。

「きゃっ」

 短い叫び声を上げて、体勢を崩したグレンダは、テーブルに寄りかかった。咄嗟に掴んだテーブルクロスがズルズルと下にずれ、上に置いてあったポッドやらティーカップやらが倒れ、大惨事になった。

「あーもう、パディったら!」

 駄目でしょう、とグレンダがパディを小突いた。パディは何が何やら分からず、きょとんと彼女を見上げる。
 その間にも、テーブルクロスには茶色いシミがじわじわと広がっていた。

「しみ抜きをしないと!」

 居てもたってもいられず、マティアスは立ち上がった。

「急がないと、シミになってしまいますよ!」

 テーブルの上のものを片付けると、彼はテーブルクロスを引き抜いた。それを持ったまま、手洗い場はどこだとキョロキョロ見回す。
 そんな彼に、グレンダは思わず笑い声を漏らした。

「まあ、マティアス様ったら、そんなこと使用人がやりますわ。マティアス様のお手を煩わせることはありません」
「え? あ、はは……そうですね」

 方々から漏れる苦笑した笑いに、マティアスはようやく我に返ったようだ。引きつった笑いを返し、ようやくやってきたメイドに、おずおずテーブルクロスを引き渡す。

「マティアス殿はこの通りしっかりしているが、グレンダはといったらもう。お転婆も少しはほどほどにしてもらいたいものだな」
「お父様ったら……今のはパディが悪いんじゃないの」

 えいっとグレンダが再びパディを小突く。じゃれていると思ったのか、パディは嬉しそうに鳴き声を漏らした。
 ハリエットは、それらの光景を、一歩引いた場所で眩しそうに眺めていた。いつも賑やかそうなこの家族の団らんは、いつも入る機会を失ってしまうし、同時に気後れもする。今更という思いもある。それら全てが影響して、ハリエットは控えめに眺める立場にいつも甘んじてしまうのだ。

「――私、ちょっと庭園を散歩してきます」

 疲れを感じ、ハリエットはそう口にした。本当に小さな声だったのだが、マティアスは耳ざとくそれを聞きつけた。

「あっ、じゃあ僕も」

 早くに歩き始めたハリエットに対し、マティアスは軽く駆けると、彼女の隣に並んだ。ハリエットは戸惑いながらも、彼と歩幅を合わせた。
 ――どうしてわざわざ彼も来たのだろうと、ハリエットは思わないでもなかった。しかし、彼の普段からの気の配りようを見れば、ハリエットが一人で寂しそうにしているのか気になったのかもしれない。余計なお世話なのだが。
 ただ一人になりたかっただけなのに。
 しかし、不思議と彼の存在が煩わしくないのは、むやみやたらに話しかけてこず、沈黙を沈黙として楽しむ趣向の人だからだろうか。
 マティアスは、不思議な人だった。誰だって沈黙を嫌がり、相手の出方を窺うように、話しかけたりするものだが。しかし彼は、相手を見ながら、話しかけるべきか、黙っているべきか、それを意識的にか、無意識にか、どちらにせよ弁えているらしかった。
 しばらく歩いたところで、庭園を見て歩くことにも飽きてきたので、ハリエットはようやく口を開いた。

「狩り、本当にお上手なんですね。父があそこまで褒めるのは初めて聞きました」
「ありがとうございます。昔から、狩りや乗馬、魚釣りばかりして育ったので」

 マティアスは余裕綽綽と微笑む。

「そのせいか、すっかり性格にも影響して、何事にも追われるより追う方が好きになりました」
「はあ」

 ハリエットの返事が淡泊だったので、マティアスは彼女の方を見た。

「あれ、通じませんでしたか?」
「何がでしょう」
「恋愛に関してもそうだと言いたかったんです。僕は追われるより追う方が好きだ、と」

 茶目っ気たっぷりに、マティアスは片目を瞑った。ハリエットはわざとらしく愛想笑いを返す。

「そうですか」
「ハリエット様は、追うより追われる方が好きそうですね。僕たち、気が合うと思いませんか?」
「私は思いませんが」
「これは手厳しい」

 ちっともそう思っていない顔で、マティアスは肩をすくめた。彼に調子を崩されるのは一度や二度ではなかったため、ハリエットはさらりと躱した。
 中程まで庭園を歩いていたところで、いつかのように、茂みからパディが飛び出てきた。この辺りは、パディのお気に入りの散歩道なのだ。頭や身体に葉っぱを乗せながら、彼はぶるりと身震いをする。

「パディ!」

 マティアスがひとたびその名を呼べば、パディは嬉しそうに駆けてきた。マティアスは膝をついて彼を待ち受け、腕の中にパディが飛び込んでくると、わしゃわしゃとその頭を撫でた。

「本当に可愛い子ですね。人なつっこくて、皆に好かれているでしょう」
「誰にでも尻尾を振る子ですから」

 初めて会ったばかりのマティアスにすら、ここまで無防備にお腹をさらけだすパディに、ハリエットはいつの間にか、自身の口をも滑らせていた。

「元は私の犬だったんです、パディ」
「そうなんですか?」
「ええ。お父様が私のために買ってきてくださったんです。でも、グレンダが自分も欲しいと言い出したので、皆で飼うことになったんです。最初は一番私に懐いていたのに、いつの間にか皆に尻尾を振るようになって」

 ハリエットの言葉に合わせるかのように、パディはぐるんとお腹の位置を変えた。
 マティアスは、不思議そうに顔を上げる。

「もしかして、拗ねてるんですか?」
「――はい!?」

 思いも寄らない言葉に、ハリエットは珍しく動揺した。まじまじとマティアスを見つめ、ハッとすると、慌てて首を振る。

「どうして私が」
「でも、そう聞こえたので。もしかして、独占欲が強いとか?」
「ありえません、私が?」

 ハリエットは激しくかぶりを振った。人よりも物欲がないことを自覚し始めたときにこの言葉。――あり得ない。

「パディが皆に懐くから、寂しかったんですか?」
「違います!」

 ハリエットはついに声を荒げた。会って間もない男に翻弄されている自分が嫌だったし、内心、図星を当てられたとも思った。そのことが、情けなくて恥ずかしい。
 ハリエットは、重々しくため息をついた。次第に馬鹿らしくなってきたのだ。

「……私、パディが私だけの犬じゃなくなるって聞いたとき、すごく悔しくて悲しくて」

 力なくハリエットはパディを見た。この場の妙な雰囲気を感じたのか、パディは起き上がると、ハリエットを見返した。

「何度か、パディを無視したことがあったんです。それからは、パディは私にあんまり寄りつかなくなって」

 ハリエット自身も、パディとどう接すれば良いのか分からなくなって、そのままジリジリと今に至る。
 パディのつぶらな瞳を見ていられなくて、ハリエットは目をそらした。

「パディはきっと、皆等しく大好きなんでしょう」

 そんなとき、まるで慰めるようにマティアスは笑った。

「誰が一番なんてありませんよ」
「…………」

 ハリエットは、再びパディに目を向けた。パディとはすぐに目が合った。彼は、ずっとハリエットから目をそらさなかったのだ。

「……パディ」

 ハリエットが小さく声をかければ、パディはよたよたと、やがて駆け足でハリエットの元にやってきた。ドレスにじゃれつくので、ハリエットは仕方なしにしゃがみ込む。興奮した様子でパディが顔やら腕やらをなめるので、くすぐったくなってハリエットは笑ってしまった。

「本当……馬鹿な子ね。私なんかに尻尾を振ったって何も出ないわよ」

 それでも、パディは無邪気に飛び跳ねるばかりだ。ハリエットが明るい笑い声を立てていると、向こう側から足音を立ててグレンダがやってきた。

「何してるの、私の犬よ!」

 彼女は、パディがハリエットに懐いていることが気にくわなかったようだ。――かつてのハリエットのように。

「パディ、こっちにいらっしゃい!」

 パディは、戸惑ったようにハリエットとグレンダとを見比べる。痺れを切らしたグレンダが、自らパディを抱き上げた。

「パディ!」

 無理矢理抱き上がられ、パディは苦しそうにもがく。しかしやがて彼は諦め、大人しくグレンダの腕に掴まった。

「お二人の時間邪魔してごめんなさいね? さあ、パディ、行きましょう」

 グレンダはきびすを返し、歩き始める。腕に抱かれながら、パディは顔だけを振り向かせた。
 ――その時、ハリエットがどんな顔をしていたかは分からない。しかし、パディから見れば、寂しそうに見えたのか、まるで、元気づけるかのように、パディはハリエットに向かって一際大きな声でワンと鳴いた。

「パディ……」

 ハリエットは小さく呟く。
『誰が一番だなんてありませんよ』
 マティアスの声が頭の中でこだました。
 ――誰かの一番になりたいと思うことが、そんなに悪いことだろうか。
 皆を等しく愛せる。そんな器用な人間がこの世にいるとは思えない。
 ――現に、私は二番目だから。
 ハリエットはチラリとマティアスを盗み見る。
 彼もきっと、そのうち一番を変えるのだろう。人は、移りゆくものだから。