03:腹を割る


 戸惑うマティアスを余所に、ハリエットは部屋の中を進んだ。そしてソファを手で指し示す。

「どうぞおかけください」
「は、はあ」

 ぎこちない動作で、マティアスは腰を下ろした。ハリエットはその前の椅子に座る。

「単刀直入に言います。腹を割って話しませんか?」
「はい?」
「もういい加減疲れました。腹の探り合いに。いっそのこと、お互い楽になりましょうよ」
「ちょっと僕には意味が分からないのですが」

 困惑しているのが容易に見て取れた。しかしハリエットは構わず続ける。

「あなたは私とどうしても結婚したい。違いますか?」
「えっ?」

 一瞬、動揺にマティアスは視線を泳がせた。しかしそれもほんの僅かな時間で、すぐに持ち直す。

「確かに、ハリエット様は他にない魅力のある方です。ですから、私が――」
「愛想は結構ですよ。本心を教えてください。結婚したいのでしょう?」
「……随分な自信ですね」

 長い間をおいて、マティアスはようやくそれだけ言った。ハリエットは笑みを深くする。

「化けの皮が剥がれてきました?」

 からかうようにハリエットがそう言えば、マティアスはムッとした表情を浮かべた。

「手のひらで転がされるのは趣味じゃありません。何が言いたいのですか?」
「では、話を元に戻しましょう」

 コホン、とハリエットは咳払いをした。

「あなたは私と結婚したい。それは、あなたがバーナード家の財産が目当てだから。バーナード家には直系男児の跡取りがいませんから、婿を迎えるしかない。ですから、あなたの目的が長女である私との結婚ということになるのも自然な流れでしょう」
「失礼な話ですね。僕がいつ財産が欲しいと言ったのですか?」
「結婚する前からそんなことをあけすけに公言する人はいないでしょう? それに、あなたの家が没落しかけているという話は社交界でも有名ですから」
「少々お言葉が過ぎますよ」

 マティアスはムッとした表情を見せた。

「僕の家が没落? それこそ、根も葉もない噂です」
「ですが、経済的に困っていることは事実でしょう。現にその正装」

 ハリエットはマティアスの様相に目を向ける。一目見ただけでは、特に違和感はない。シャツもズボンも折り目はピシッとしているし、だらしのない着方をしているわけでもない。
 マティアスもそう思ったのか、眉を上げた。

「この格好が何かおかしいのですか?」
「おかしいというわけではありませんが。ジャケットとスラックスは、先日クレネル家で行われたパーティーでも着てらっしゃいましたね?」
「――っ」

 マティアスは息をのみ、言葉を失う。しかしすぐに反撃の姿勢を整えた。

「あなたと初めて会ったのは、今日この場だと思っていたのですが」
「父は、その時のパーティーに参加する前からあなたに目をつけていたようで、私にあなたの印象を聞いてきたのです。ですから、その時のことは良く覚えています」
「それは光栄なことですね」

 皮肉げにマティアスは笑って見せた。ハリエットは頷いただけでそれを受け流した。

「そしてあなたの服装についてですが。社交界でも時々噂になっていますよ。同じ服を何度も着回ししているようだ、と」
「…………」

 ここで初めて、まるで衝撃を受けたと言わんばかり、マティアスは呆然とした表情になる。そんな彼がなんだか気の毒で、ハリエットはすぐ付け加えた。

「私は、別に同じ服装を着回しするなと言いたいわけではありません。むしろ、一度着ただけで使用人に回してしまうような考え方は好きではありません。誤解なさらないよう」

 ハリエットは再び空咳をした。マティアスのせいで、何度も話が逸れてしまったようだ。ハリエットは居住まいを正す。

「何が言いたいかというと、着回ししているジャケット、スラックス、それに年季の入った靴やネクタイを見るからに、経済事情が芳しくないのは分かります。噂だけを信じたわけではありません。ですから――」
「そっ……」

 ここでようやくマティアスが口を開く。

「そこまで言わなくたって良いじゃありませんか!」

 パッと顔を上げた彼は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。呆気にとられ、ハリエットは固まる。

「これは僕の一張羅です! 大切に大切に扱って、ここぞというときにしか着ないのに、何て言い草ですか! 着回しすることがそんなに悪いことですか!? そんなことが噂になってるだなんて、僕は今初めて知りましたよ! こっちだって同じ服を二度続けて着ないように気を遣ってるのに、なんて心ない噂をたてる人たちですか!」
「なっ……えっ」
「このシャツだって!」

 マティアスは自身のシャツをグッと掴んだ。

「この日のために、三日前から食事を抜いて、そのお金で新品を買ったんですよ! その苦労を察してとは言わないまでも、見なかった振りくらいしてくれたっていいのに、それをあなたは!」

 まるで毛を逆立てた猫のように、マティアスはハリエットに対して威嚇する。ハリエットは、頭の中で全く別のことを考えていた。
 ――だから、今日の昼食時、食べるのがあんなに速かったのか……。
 あらあら、最近の若者は食欲があるのねえというカミラの言葉に、マティアスは珍しく気の利いた返事を返せず、まごついた笑みを返していたが、その裏にはこんな事情があった訳か。

「確かに僕はお金が欲しいですよ、欲しい、欲しい!!」

 ――何もそんなに繰り返さなくても。
 ハリエットは冷静だった。

「だからって、誰かを騙したわけでも、お金にがめついわけでもないのに! 人よりもちょっとケチなだけなのに! なのに、人のそんな経済状況を馬鹿にするなんて酷い話です!」

 それについては同意するが。
 過去に馬鹿にされた経験があるのだろうか。

「貧乏を馬鹿にしないでください! 当人はいたって真剣なんです!」

 誰も馬鹿にはしていない。言葉は悪かったかもしれないが。

「だからっ……つまり、何が言いたいのかと言うと!」

 ハリエットがあまりに黙りこくっているので、マティアスはようやく頭が冷えてきたらしい。荒い息を繰り返し、少し間をおく。

「僕は貧乏ですが、やましいことは何もしていません。時々馬鹿にされることはあれど、それが何だと言うんですか。僕は自分が不幸だとは思いません」

 マティアスは、落ち着かない様子で髪をいじったり、様相を整えたりした。そして準備が終わると、ハリエットに向き直る。

「もしも、着回し事情が気に入らないというのなら……その、頑張って善処します。あなたに恥はかかせません」

 マティアスは、いつになく真剣な表情でハリエットを見つめた。ハリエットは、それでも疑り深い表情で彼を見返す。

「ですが、あなたはお金が目的なんでしょう? 妻となる人はおまけで、本来はお金が――」
「そんなことはありません」

 マティアスはすぐにキッパリと断言した。今度は視線を逸らすようなことはしない。

「信じられないのは分かります。ですが、僕は妻になる人は絶対に大切にします。一生その人だけを愛する自信はあります」

 あまりにも純粋に、無垢にそう言葉にするので、ハリエットは言葉を失ってしまった。彼の決心の粗ををつくことはできるが、あまりに純真な瞳だったので、むしろそれをすることが酷なように思えた。

「……お金が目的なのに?」

 ようやく彼女の口から出てきたのは、弱々しい繰り返しだ。

「目的が不純なのは分かっています。だからこそ、その分妻も心から愛します」

 マティアスも再び同じことを繰り返した。ハリエットは、内心動揺していた。なぜこの人はこんなに真っ直ぐなのか。一体何を支えにしているのか、さっぱり分からなかった。

「――おかしな人ですね」

 結局、ハリエットは彼から目を逸らした。考えても、その答えを突き詰めても、おそらくどうせ自分には縁のないものと思った。

「一生なんて言葉、私は信じていません。愛情は移りゆくもの。私はただのんびり過ごせればそれでいいんです」
「僕と結婚すればのんびり過ごせますよ」

 何を勘違いしたのか、マティアスは急に生き生きとし出した。

「メイリー家の領地は、田舎のエヴァリーズ地方にあります。渓谷沿いに大きな湖があって、舟遊びも、魚釣りもできます。馬に乗って湖の周囲をぐるりと一周するのも良いですね。おすすめです」
「そういうことを言っているのではありません」
「では、何をお望みで?」

 妙なところで勘の鈍いこの男に、ハリエットは頭を抱えた。
 今ここで全てを明かすにはまだ早い。いや、元々はそのつもりだったのだが、この彼、妙なところで一般の人とズレているようなので、ハリエットの申し出を受け入れてくれるかどうか分からなくなったのだ。話したところで、そんな計画には乗りたくないと言われてしまえば、この話はすべて水の泡になる。となると、そのような危ない橋には渡れない。
 一体どうしたものかとハリエットが考えあぐねていると、外で僅かに物音がしたことに気がついた。ひらめくものがあり、ハリエットはすぐにドアまで移動すると、勢いよく開いた。体勢を崩したグレンダがよろめきながら入ってくる。

「一体何の用?」

 ハリエットは純粋そうに首を傾げた。

「盗み聞きなんてはしたないわよ」
「あら、はしたないのはどっちかしら」

 グレンダは自分の行いを棚に上げ、腕を組んでふんぞり返った。部屋の中のマティアスとハリエットとを見比べる。

「男性を部屋に連れ込むなんて。このことをお父様達に伝えても良いの?」
「そうしたいならそうしたら? 困るのはあなたの方だと思うけど」
「なっ、どうしてよ!」
「さあ。自分で考えたら?」

 グレンダはハリエットを睨み付ける。もう一度マティアスを見ると、ハリエットの腕を掴み、部屋の外まで連れ出した。ついで、扉まで閉める。

「ハリエット」

 グレンダは小声でハリエットに詰め寄る。

「もしかして、あの人のことが気に入ったの?」
「だったら何?」
「別に。聞いてみただけよ」

 素っ気なく言うグレンダは、落ち着かない様子で髪を掻き上げた。その様に、ハリエットは少しだけ優越感を味わう。

「でも、マティアス様は素敵な方よね。あなたには分不相応だとは思うけど」
「そうかしら?」

 ハリエットが小さく笑えば、グレンダはスッと表情を強ばらせた。

「あなた、さっきからなんなの? 私にいちいち突っかかってきて」

 いちいち私の言動を気にしているのはあなたじゃない。
 すんでのところでハリエットはその言葉を押しとどめた。言うべき時は、今じゃない。

「とにかく、今から私のすることは黙って見ていなさいよ」

 それだけ言うと、グレンダはハリエットの部屋の扉を開けた。自分だけ身を滑り込ませると、そのままハリエットを閉め出そうとしたが、彼女はやんわりその手を押しとどめる。
 ハリエットの行動に、グレンダは眉を吊り上げたが、すぐに笑みを浮かべ、マティアスに駆け寄った。

「ねえ、マティアス様、明日お暇? もし良かったら、一緒に街に行きましょうよ。案内してあげるわ」
「それは非常に光栄なことですが。しかし、ハリエット様は?」

 グレンダは、横目でハリエットを見た。

「ああ、お姉様は具合が悪いそうだから、明日は止めておくそうよ」
「具合が? それなら――」
「あら、グレンダ。気を遣わせてしまったかしら」

 できるだけ無邪気に見えるよう、ハリエットは微笑んだ。

「でももう大丈夫よ。マティアス様と話しているうちにもう良くなったから」

 部屋の中央まで進み、ハリエットもマティアスの隣に並んだ。

「私もぜひご一緒させて頂きたいわ。街に行く用事もあったものだから」
「…………」

 鋭い眼光でグレンダか睨んでいることには気づいていたが、ハリエットは、マティアスに向かって微笑み続けた。