02:探り合い
庭を散歩するとは言いつつも、エントランスに到着したところで、ハリエットは立ち止まった。マティアスは不思議そうな視線を彼女に向ける。
「どうしたんですか?」
「いえ、どこに行こうかと思って。バラ園か、温室か、外の庭園か。どれがお好みですか?」
「そうですね……。ハリエット様がお好きなのは?」
「庭園、ですが」
「ではそこへ行きましょう」
執事が開けてくれた扉から外へ出る。しかし、ハリエットは未だ釈然としない顔をした。
「庭園は広いですから、かなり歩きますよ。大丈夫ですか?」
「ええ、もちろん。僕は歩くのが好きなんです」
丁寧な応答だ。これが本当に彼の本心なのか、ハリエットは考えあぐねたが、やがて面倒になって考えるのを止めた。どのみち、いずれ分かることだ。
しばらくは、二人は黙って歩いた。話さなくとも、庭園は歩く度に景色を変え、飽きることがなかったからだ。これまでに何度も歩いたことのあるハリエットですら、季節や時間によってその顔を変える庭園を見ると、穏やかな心地になれた。
なだらかな、どこまでも続きそうな丘に、小さな橋が架かっている池、端に目を向けてみれば、草原の隙間から季節の野花が覗いている。
別段手入れをしているわけではないが、種が種を呼び、いずれは野花の繁殖範囲も広がるのだろう。それはそれでさぞ見物だ。
庭園を中程まで歩いた頃。マティアスが少し身じろぎをした。途端にハリエットは庭園から彼へと注意を向ける。
「――僕のことが気に入りませんか?」
彼の口から飛び出してきたのは、あまりにあけすけな質問だった。
「随分単刀直入ですのね」
ハリエットはまずそう返答した。
どう答えるべきか。彼の真意は何なのか。
その間に、彼女の頭はめまぐるしく回転する。
「先走りして申し訳ありません。ですが、バーナード様からあなたとの婚約の話を伺ったとき、私にも機会があるのかと思い上がってしまいまして。ですが、あなたがお嫌なら、こうした場を設けられるのは苦痛なのでは?」
「いいえ、そんなことはありません」
ハリエットはゆっくり首を振った。
「私は……父の審美眼を信じておりますから。父が気に入ったというのなら、あなたは素敵な方なのでしょう。私は口下手ですから、こういった場を設けて頂き、とても嬉しく思います」
「そうですか。それなら僕も安心です」
「マティアス様こそ、ご迷惑ではありませんか? 私は人と話すのも苦手ですし。何かマティアス様のお気に障るようなことをしてしまったらと思うと、申し訳なくて」
「いいえ、そんなことは。一緒にいて心穏やかになれる人は初めてですので、とても新鮮な気持ちです」
「はあ」
今のは褒め言葉なのだろうか、とハリエットは少々首を傾げた。人当たりの良い彼は、言葉の言い換えがなんと巧みなものかとも思う。大人しい、静か、暗いとも称されるハリエットのことを、一緒にいて穏やかになれると言い換えるとは。
「あなたのこと、父も母も……義妹も気に入ったようで。初めて会ったばかりなのに、驚きました。あんなにも自然に家族に馴染めていて、人懐っこい――と言ったら、少々言葉は悪いですが、マティアス様の天性の才能なのでしょうね」
「お褒め頂き光栄です」
ハリエットの言葉に、マティアスは照れもせず微笑んで見せた。
「ですが、あなたに気に入って頂けなければ意味がありませんよ」
「本当に口がお上手ですのね」
ハリエットは、自然と己の口角が上がっていくのに気ついた。楽しいのではなく、おかしいのだ。あまりに完璧な返答ばかりするものだから、口下手なハリエットから見れば、底知れぬ思惑があるようにして見えない。今日のことも、もしかしたらずっと前から計画していたのではないか、と。
「あなたの噂にどうして尾ひれがついていくのか分かった気がします」
「これは手厳しいですね」
マティアスは明るい笑い声を立てた。
「僕の言動が助長させていると?」
「それも一端を担っているのではと思いました」
「肝に銘じておきます」
ちっともそう思っていない表情で、マティアスは締まりのない顔を続けた。
しばらくそのまま歩き続けていると、近くの茂みから、黒い犬が飛び出した。短い毛が特徴の犬で、ハリエットとマティアスを興味深げに見比べる。
相好を崩してマティアスが膝をつけば、犬は嬉しそうに彼に飛びつき、その鼻面を手に押しつけた。
「可愛い犬ですね。なんていう名前なんですか?」
「パディです。グレンダが猫可愛がりしてる子で」
「この子がパディですか。とても人懐っこいんですね。初めて会ったのに、全く警戒心がない」
「……そうですね。最初からそういう子でした」
ハリエットは心ここにあらずといった様子で答えた。
パディは、もともとハリエットの犬だった。父が旅先から帰ってきたとき、ハリエットには犬を、グレンダには人形を与えたのだ。もともとグレンダは人形が欲しいと言っていたのに、いざハリエットがパディと遊んでいる様を見て、パディが欲しいと駄々をこねたのだ。バーナードとカミラは悩んだ末、パディをハリエットとグレンダ、二人一緒に飼えば良いと提案したのだ。初めの頃は、交互に散歩していたはずが、やがてグレンダがパディを独占するようになり、餌も彼女が手ずから与えていたため、いつのまにかパディはグレンダによく懐くようになった。幼心に、ハリエットは釈然としない思いを抱いたのは確かだった。
ハリエットとグレンダは、本当の姉妹ではない。グレンダは遠縁の子で、幼くして両親を亡くしたため、バーナード家に養子として引き取られたのだ。
ハリエットは、昔から義妹グレンダに対して、嫉妬や妬みを抱くことが多かった。始めは、ハリエットもグレンダと仲良くしようと奮闘していた時期もあった。しかし、グレンダは甘え上手で、すぐに両親の興味を惹いていく。対するハリエットは不器用で、感情の表現も苦手だったため、グレンダと比較されることが多かった。グレンダは、実の両親を失った悲しみからか、いつでも自分に注意が向かなければ落ち着かなかった。義理の両親がハリエットを構っていると、わざと転んで泣き出したり、ハリエットの誕生日にドレスが贈られれば、私も欲しいと可愛らしく甘える。両親も、実子との差をつけて育てるのは良くないと考えたのだろう。二人は、グレンダに甘かった。特に母カミラは、ハリエットに必要以上に厳しく、グレンダは甘やかす。同じくらい二人を可愛がるという器用なことは、カミラにはできなかったのだろう。――彼女のその不器用さが、同じく娘にも受け継がれていたことに彼女が気づけば、何かが変わっていたのかもしれないが。
「それにしても、美しい庭ですね」
マティアスの声が、ハリエットを現実に引き戻した。いつの間にかパディはどこかへ消えており、マティアスはハリエットを見つめていた。
「広さといい、抜群の調和といい、驚きました。名のある庭師がついているのですか?」
「そうですね。二世代前からずっと専属で務めてくれている庭師はおります。父も庭園が趣味の一つですから、よく二人でああでもないこうでもないと話し合っています」
「さすがですね。僕の所なんか、手入れもしないので草が伸び放題――あっ、いえ」
マティアスは初めて動揺した顔を見せた。ちょっと頬を赤くし、咳払いをする。
「今のは聞かなかったことにしてください。失言でした」
「特に気にはなりませんでしたが」
「いえ、僕は気にするんです。失礼しました」
見栄を張りたいのか、だらしないところは見せたくないのか。
とにかく、マティアスはその後、自分の庭について言及することはなかった。ハリエットもすぐに興味が薄れていく。
「そんなにこの庭が気に入られたのなら、私の部屋に行きませんか? 私の部屋から庭全体が一望できるんです。もしよろしければ」
「……良いのですか?」
「ええ」
ハリエットは躊躇いもなく頷いた。
「この庭のこと、そんな風に言って頂けてとても嬉しいんです。ぜひ上から一望して頂きたくて」
「では、お言葉に甘えて」
庭の終わりまてさしかかっていた。二人は、すぐにまた邸宅へと足を向けた。
お早いお帰りですねと執事に迎えられたが、笑みを返し、階段を上る。その際、まだ家族がいるだろう食堂を通ったが、挨拶はしなかった。顔を見せたが最後、マティアスと話がしたいと呼ばれるだろうし、今から部屋に行くんですとそれを断れば、二人きりになるなんてはしたないと責められることは間違いない。
しかし、一般的に見ればそれはそうだろう。年若い未婚の女性が男と部屋で二人きりになるなんて。
この時には、もうすでにハリエットは決心していた。
何でもかんでも自分の元から奪っていく義妹から、己をこの渇望から救い出してくれない両親から、自分から変わろうとせず、達観した風を装って、その内実は、未だ何も諦め切れない弱い自分から――それら数々のものから逃げ出す決心だ。
ハリエットはもう疲れていた。周りに期待することにも、裏切られることにも。
だから、以前から思っていたのだ。早くどこかの家に嫁ぎたい、と。
ハリエットは長女だが、このまま行けば、家の相続権はグレンダにわたる可能性が高い。となると、ハリエットは晴れてこの家からおさらばできるのだ。しばらく家から離れられれば、自分の心の整理もできて、もっと大人な対応もできるだろうと彼女は期待していた。
そこに現れたこのマティアスという存在。
マティアスの家は、確かに魅力的だった。田舎にあるのだから、物理的にも精神的にも実家から距離を置くことができる。ただ、問題は、ハリエットがマティアスを信じられないということだ。長年裏切られてばかりで、ハリエットはマティアスに対しても半信半疑だった。グレンダに色目を使われたら、すぐにそちらになびくのでは、と。――現に、過去に似たようなことが何度かあった。ハリエットに気がある素振りを見せた男性が、いつの間にかグレンダにメロメロになっていることが。
それに、彼の家の経済状況を鑑みるに、この家を継ぐ可能性の高いグレンダの方が魅力的だろう。お金が目的なら、なおさら。
それならば、最初からマティアスをグレンダに盗られることを前提に計画を立てれば良いだけのこと。マティアスにグレンダを押しつければ、晴れてハリエットは自由の身。もうグレンダに執着されることもなくなり、ゆっくり嫁ぎ先を探せるのだ。
ハリエットは、躊躇うことなくマティアスを部屋に引き入れた。一方で、マティアスは、まさか二人きりになるわけではないだろうと思っていたため、侍女もいない部屋に通され、困惑した様子を見せた。
「侍女は……ああ、お茶を持ってきているのですか?」
「いえ、侍女は下の部屋です。連絡していませんから、おそらくここには来ないでしょう」
「な、なぜ?」
マティアスの笑みが僅かに引きつる。
「二人きりでお話ししたかったものですから」
ハリエットは、微笑を浮かべながら、後ろ手に鍵をかけた。