15:真っ向勝負
三日後にマティアスがやってきた。彼が醸し出す重い空気に、申し訳なさそうな表情、そしてぎこちない態度。そんなことも相まって、バーナード夫婦はなんとなく彼の話というものを察したようだった。速やかに彼は応接間に通され、ソファに腰を下ろした。来客の知らせに、ハリエットとグレンダも応接間に集まる。
入室して早々、グレンダもこの空気の重たさを察知した。ハリエットは、元々マティアスの話に見当はついていたが、グレンダはマティアスがそもそも何の用でやってきたのかは知らない。しかし、三人で黙りこくっている姿を見ると、嫌なものを想像しないわけがない。まだ席にも座らない状態で、グレンダは素早く話の口火を切った。
「マティアス様、ご機嫌よう。私も話があるんですけれど、よろしいかしら?」
「グレンダ。まずはマティアス殿の話を」
「私も話があります」
ハリエットまで会話に割って入った。普段はこういうことをする性格ではないので、バーナードは困惑の表情を見せる。
「ハリエットまで……。一体何事だ」
一旦落ち着いてくれとバーナードは手で制する。その後で、二人の娘に早く座るよう促したが、両者共々、彼の話は聞かなかった。
特にグレンダは、マティアスに歩み寄り、まるで敵を見るかのように、彼を睨み付けた。
「私、マティアス様のことが好きなんです!」
「私も好きです」
シラッとした顔でハリエットも小さな声で付け足す。応接間にいる面々の耳に届くには充分な声量だったようで、ハッとしたように皆がハリエットを見る。
その中でも、人一倍視線が鋭いのはグレンダだ。マティアスの目の前にグイッと身体を割り込ませ、彼に迫る。
「お姉様と私、どっちが好きなんですか!」
「えっ……? いや、え?」
明らかに動揺しているマティアス。そんな彼を見ていると、ハリエットはだんだん楽しくなってきた。
不思議な気持ちだった。
思えば、グレンダと真っ向から勝負したことなど、今までに一度だってあっただろうか。今までは、いつも逃げてばかりだったような気がする。欲しいものがあったとしても、やっぱりあんなものいらないと、目を背けて願望に蓋をして。
ハリエットは、穏やかな心地でマティアスに近づいた。グレンダの隣に並び、彼を見つめる。
失礼なことに、マティアスは、まるで奇妙なものを見るかのようにポカンとしてハリエットを見返した。彼女は少々むくれた。少しばかり困らせてやりたいと、唇をとがらせ、軽く睨み付けてみた。
「何か言いたいことでも?」
「え? いえ!」
マティアスは面白いくらいに慌てた。そんな態度がおかしくて、ハリエットは笑いをかみ殺す。
なぜ自分はこんなにも余裕なのだろう。
ハリエットは不思議だった。でもそれにもすぐ合点がいく。――たとえ望みが叶わなくても、たった一度の挫折では諦めないと、そう決めているからだ。
「マティアス様!」
グレンダは悲壮な声を上げて彼の腕を掴む。
「早く決めてください! お姉様と私です!」
「えっ、でもそう言われても――」
マティアスは咄嗟に助けを求めるようにバーナードに顔を向けた。だが、マティアスの予想に反して彼はつれない。
「これは一体どういうことかね?」
「は……」
「私からしてみれば、娘二人を手玉にとられているようで、我慢ならないのだが」
バーナードは腕組みをしたまま、難しそうな顔をした。そんな彼の腕に、カミラはそっと手をかける。
「少し見守りましょう。ここは三人に任せて」
「だが」
「ハリエットもグレンダももう大人です。ここは親の出る幕ではありませんよ」
「あ、ああ……」
いつも以上に真面目な表情で諭され、バーナードもそれ以上言葉が出てこない。彼らは、二人並んでソファに座り直し、じっとハリエット達を眺めた。マティアスとしては、やりにくいことこの上ない。
「あ、の……」
「早くどちらか決めてください。優柔不断な態度は好きじゃないわ」
「もしくは、私たちと断絶する、という選択肢もありますが」
「何言ってるの!?」
グレンダに睨み付けられたが、ハリエットはどこ吹く風で肩をすくめた。
だってそうだろう。彼にだって選択肢はある。ハリエットか、グレンダか。その二つだけではなく、社交界には、もっとよりどりみどり素敵な女性がたくさんいるのだから。彼がその女性を選んだとして、非難できる権利はバーナード家にはない。
「では」
ようやくマティアスが口を開いた。皆の注目が彼に集まる。
「質問を……してもよろしいですか?」
「質問?」
グレンダは訝しげに眉を寄せたが、すぐに気を取り直し、頷いた。
「ええ、どうぞ。誠心誠意お答えするわ」
「ハリエット様も?」
「お願いします」
姿勢を正し、マティアスは手に軽く力を入れた。
「欲しいものがあったとして、お二人はどうしますか?」
「随分抽象的ね」
反射的にそう答えたグレンダだったが、つい数日前の、ハリエットとの口論を思い出したようで、すぐに彼女は眉根を寄せた。不快な思いになったが、頭を振ってそれを追い出す。
「どんなもの? どの程度欲しいの?」
「どの程度欲しいか、どんなものが欲しいかはお二人にお任せします」
ハリエットとグレンダは視線を交わし、どちらが答えたものかとしばし探り合う。パッとグレンダが視線を外すと、マティアスに向き直った。
「わ、私は……我慢するかしら。人間、時には我慢が必要だものね」
おほほ、とグレンダは愛想笑いをした。この場の誰も――マティアスですら――そんなわけないだろうと思ったが、口にできるわけもなく、うやむやになった。素直なところがある意味彼女の魅力でもあるので、生暖かい目で見逃されたのだ。実際、彼女自身猫を被ったことに気づかれていないはずだと思っていることだろう。
マティアスはハリエットを見た。ハリエットもまた、彼を見つめ返す。
「私は……努力をします。欲しいものが手に入れられるよう、精一杯あがきます」
「たとえちょっとしたものでも?」
「はい。今はただ努力してみたいんです」
「そうですか」
マティアスは笑みを深くした。僅かに身体を前のめりにし、なおも続ける。
「では、パディについて聞いても? 今でこそハリエット様はパディと仲良しでしたが、初めて会った頃は、いつも遠巻きに見ていましたね。あれはなぜですか?」
ハリエットは目を見開き、押し黙った。急に彼は何を言い出したのだろうか。しかし、マティアス越しに両親の姿が目に入り、目を瞬かせた。今なら、素直になれる気がした。
「どう、接すれば良いのか分からなくなって。パディと仲良くするグレンダが、羨ましくもあったし、妬ましくもありました。本当は私の犬なのにって。パディを憎く思う心もありました。誰にでも尻尾を振って、と腹が立っていました」
誰の顔も見れず、ハリエットは視線を下に下げた。両手を前で組み、それをじっと見つめる。
「お召し物についてお聞きしてもよろしいですか? ずっと気になっていたんです。以前、お洒落が嫌いなわけではない、と言っていましたよね? あれはどういう意味だったのですか?」
「それは……」
言いよどみ、ハリエットは下を向いた。これでは、ただの告げ口のようだと思ってしまったのだ。しかし、すぐに考え方を変えようと思った。これは、私が素直になれるよう、マティアスが用意してくれたたった一度の機会なのだ、と。
「意地を張っていたんです。いつもグレンダがお父様にねだってドレスを買ってもらっていて、決まってその後に、私のドレスも買おうかという話になるんです。でも、それだと自分が二番目のような気がして。考えすぎだとは分かっていたんですけど、でも、それが悔しくて」
「自分からねだることはできなかったんですか?」
「……両親に甘えたら、まるでグレンダの真似をしているような気がして、自分のことが許せなかったんです。意地を張っていたんです。自分から欲しいって言わなくても、誰かが気づいてくれるんじゃないかって思っていました」
「ご両親のことは好きですか?」
マティアスの声は優しかった。ハリエットの声はどんどん暗くなる。
「好き、です。でも、自分に自信が無いので、それが引け目に感じて。今思えば、無自覚にグレンダみたいに素直になれたらって思うことは何度もありました」
「全部人のせいにしてるだけじゃない!」
堪らずにグレンダが声を上げた。ハリエットは動揺せずに、小さく頷いた。
「そうね。私もそう思うわ。だから変わりたいって思ったの、マティアス様にも影響を受けて。何より、私自身を見てくれたから……」
ずっとずっと、欲しいものなんてなかった。いや、そう思い込んでいたのだ。かつては全部グレンダにくれてやると思っていたのに――今では、彼だけは渡したくないと思うようになった。
「マティアス様、言ってくださいましたよね。いつか私自身を見てくれる方が現れるって。それがマティアス様ではいけないのですか?」
マティアスは目を見開き、微動だにしなかった。そうしてようやく待って返ってきた言葉は。
「僕では、あなたにふさわしくありません」
なんとも理解できない言葉だった。マティアスは、ソファに座っていたバーナード夫婦に向き直った。
「正直に申し上げます。僕はお金目当てでハリエット様と結婚を考えていました。僕の家は現在経済状態が芳しくなく、立て直すためには資金が必要なんです。ですから、バーナード様から婚約のお話しを頂いたとき、正直、好機だと思いました。このままいけば、家も領地も復興することができると」
「えっ……」
誰もが呆気にとられる中、グレンダは放心したように口を開けた。恋は盲目とはよく言ったもので、おそらくマティアスに熱を上げるうちに、彼を取り巻く様々な噂が耳に入らなくなってしまったのだろう。そして、彼の家が貧乏だということも知らなかったのか。
急速にグレンダの中のマティアスの好感度が下がっていっていた。完璧に見えたものに、たった一つだけ汚点がある。それが分かった瞬間、熱が冷めていくのと同じことだ。
「――見当違いなことをおっしゃいますね」
先の話は、マティアスがバーナードにしたものだったが、ハリエットが代わりに答えた。まるで返答を任せるかのように、バーナードがハリエットを見てきたからだ。
そして彼女は、バーナードと同じ真意を口にする。
「私たちはそんなこと気にしていません」
「……でも」
マティアスがバーナードとハリエットとを見比べる。もどかしい思いでハリエットは立ち上がった。
「席を外します」
ハリエットは短くそう言うと、マティアスの腕を掴み、無理矢理立ち上がらせる。
あなたのことは好きではないと言われたら、それを一旦は受け入れ、それでも努力はするつもりだった。しかし、先の返答は全く予測していないものだった。
私がマティアス様にふさわしくないのならまだしも、マティアス様が私にふさわしくないとは何事か。
それだけは、ハリエットは我慢ならなかった。彼が私にふさわしくないわけがないのに。
だが、それを説明するには、この場は少し人が多すぎる。何より、どうしてわざわざ両親の前で異性に想いを告げなくてはならないのか。ここ数日の心境の変化で多少は素直になれたかもしれないが、だからといって、親の前で盛大に女性らしくなるのは、いささか気まずい。
ハリエットは、戸惑うマティアスを余所に、彼を応接間から連れ出した。