14:視界が晴れる


 ハリエット達は、屋敷の中には入らずに、その周囲の生け垣を歩いていた。
 両者共々、カミラの意図は理解していたのだ。おそらく、ハリエット達のぎこちなさに向こうも気づいており、とりあえず話し合ってこいというのだろう。それが良い結果を生むことはなくとも、話し合うことで気が晴れるかもしれないというのだろう。
 いつもならば、周囲の景色を楽しむように散歩をするはずが、ハリエットは落ち着かなかった。隣にマティアスがいるからだろう。今は隣の彼のことしか頭になかった。

「身体を見るなり大笑いとは、失礼なお人ですね」

 何を言おうか迷っているうちに、マティアスが先に話し始めた。ハリエットは目を丸くした後、笑みを零した。

「すみません、我慢しようと思ったのですが、つい」
「ついではありませんよ。僕のことを単純な男だとでも思っているんでしょう?」

 図星だった。あまりにも図星だったので、ハリエットはまた笑ってしまった。

「いいじゃありませんか。単純な男性って可愛いと思います」
「馬鹿にしてますか?」
「そんなことありませんよ。可愛いなとは思いますが」
「本当に失礼な人だ」

 わざとらしく鼻を鳴らした後、マティアスはそっぽを向く。

「お怪我は大丈夫ですか?」

 ハリエットは小さな声でそう尋ねた。一度、グレンダがそう質問して、マティアスが大丈夫だと答えたということは知っているが、自分の口で聞いて、直接返答が欲しかったのだ。
 マティアスも面倒な素振りを見せず、すぐに答えてくれた。

「はい。あれからすぐに治りましたよ。跡もほとんど残りませんでしたし」
「ありがとうございました。あの時は助けて頂いて」

 ようやくハリエットはそう言うことができた。お礼を言うには、遅すぎるほどだったが、それでもずっと心の中に堪っていた言葉を口にできたことで、どこかスッキリしたような面持ちだった。それに影響され、ハリエットは流れるように狩りのことについても口にした。

「あと、猪を仕留めたそうですね。おめでとうございます」
「ありがとうございます。因縁……は言い過ぎですが、決着はつけたかったので、僕もホッとしているところです」

 その話は、長くは続かなかった。ハリエット、マティアス共に、心ここにあらずだったからだ。あることについて話したいと、ずっとそのことばかり考えていたのだ。

「あれから、いろいろ考えたんです」

 マティアスは重苦しい口調で話し始めた。ハリエットはすぐにこの前のことだと思い至り、焦った。今冷静になって考えてみれば、あの時は完全に頭に血がのぼり、失礼なことしか言っていなかった。自分のことは差し置いて、理不尽なことしか言っていないのだ。今更ながら恥ずかしくなり、ハリエットは顔を上げた。

「あの、あの時はすみませんでした。私、本当に失礼なことを言ってしまって」
「あなたが謝る必要はありません。むしろ謝るのは僕の方です」

 困惑に、ハリエットは知らず知らず眉間に皺を寄せた。単なる優しさからそう言っているだけなのか、それとも本当にそう思い違いをしているのか。

「結婚の目的がお金だと……僕は最初にそう宣言してしまいましたね。軽率でした。妻となる人を大切にする自信は、今もなお変わりません。ですが、相手がどう思うかまでは考えが及びませんでした。そんなことを言われて結婚を受け入れてくださる人なんていませんよね。言外に、あなたは二番目だと宣言しているようなものなのに」

 チクリとハリエットの胸が痛む。やはりそうだったのだ。自分は二番目だったのだ――。

「本当に申し訳ありませんでした。自分の方が目的が不純なのに、まるで責めるような言い方をしてしまって。心からお詫びいたします」

 マティアスは深く頭を下げる。
 ――違う。こんなことをして欲しかったわけじゃないのに。

「散々振り回して申し訳なく思いますが――今回の結婚の話は、なかったことにして頂きましょう」

 えっとハリエットは口を開ける。そこから言葉が漏れることはなく、ただただ茫然とマティアスの顔を注視する。

「僕のことは忘れてください。あなたなら、きっともっと素敵な人と出会えます。僕のように、不純な目的を持っている人ではなく、あなた自身を見てくださる方が現れますよ」

 まるで諭すような言い方に、ハリエットの喉は詰まる。
 何が起きているのか、まだよく分からなかった。唯一言えることは、手を伸ばせば届くかもしれなかったものが、突然目の前から消えてしまったということだけだ。
 今までだって、無くなってから自分の欲に気づくことはままあった。グレンダが可哀想だからと、彼女の好きにさせていたら、いつの間にか全てを奪われていたのだ。当たり前のようにあったものたちは全て立ち消え、後に残ったのは、今更欲しいだなんて言い出せなくなった臆病な自分だけ。

「マティアス様ー?」

 突然辺りに響いた声に、ハリエットは身を固くした。

「一体どこにいるのよ! 部屋にもいなかったし!」

 グレンダの声だった。もう既に屋敷の中は探したのか、今度は屋敷周りを捜索するつもりなのだろう。
 自分を呼ぶ声に、マティアスは反射的に生け垣から出て行こうとした。そんな彼の裾を、ハリエットは思わず掴む。

「行かないでください」
「え?」
「行って欲しくない……」

 ハリエットの声は震えていた。ずるいとは分かっていても、そう言わずにはいられない。今はとにかく、ここにいて欲しかった。グレンダの所には行って欲しくなかった。
 しばらくして、グレンダの声は遠くなっていった。そのことが分かっていても、ハリエットはマティアスの裾を掴んだまま動かない。彼もまた微動だにしなかった。
 待っていてくれるのだとハリエットは感じた。だが、なかなか言葉が整理できない。それでも、いざハリエットが口を開こうとして、手に力を込めたとき。
 ワンッと軽快な鳴き声が響いた。鳴き声と共に、足下に感じる衝撃。
 ハリエットは、驚いて裾から手を離してしまった。

「ぱ、パディ?」
「どうしてこんな所に?」

 茶会の方で、皆に可愛がられていた筈ではなかったか。
 目を白黒とさせて、ハリエットとマティアスはパディに向き直った。パディは、ハリエットの足下にじゃれついていた。

「すっかりパディと仲良しですね」
「ええ」

 ハリエットは困惑しつつも、微かに微笑んだ。

「あれから、私を見かける度、飛びついてくるようになったんです。私も驚いていて」
「そんなに嬉しいですか?」
「え?」

 唐突に言われ、ハリエットは何の意味か分からず、困惑の表情を浮かべた。顔を上げればすぐにマティアスと視線が絡む。

「いえ、すみません。すごく嬉しそうに見えたので」
「…………」

 ハリエットはパディを見下ろした。しゃがみ込んで、彼の腹を撫でる。狩猟犬でもあるというのに、こんなに無防備でいいのだろうか。

「私……」

 パディの温かい体温に、ハリエットは知らず知らず口角を上げていた。

「もう意地になるのは止めにします」

 マティアスを見上げた顔は、非常に晴れやかだった。彼女の心の内も同じように。

「パディを連れてきて正解だったわ」

 穏やかな空気の間に割り込んできたのはグレンダだった。肩で息をしている。おそらく、駆けだしたパディを見失わないよう全速力で走ってきたのだろう。

「マティアス様、お父様が呼んでらしたわ」
「そうなんですか?」
「ええ。すぐに庭へ来て、と。茶会をしていたあそこよ」
「それは……ありがとうございます」

 マティアスに声をかけながらも、グレンダはハリエットから目をそらす様子はない。この場に二人を置いていいものか、とマティアスは戸惑ったようにその場に立ち尽くしていたが、そんな彼にハリエットは声だけかける。

「行ってらしてください。私もすぐに行きます」
「ええ。私も後で行くわ」
「…………」

 この異様な空間に、マティアスは愛想笑いとも苦笑いとも言える複雑な表情を浮かべた。

「で、では、失礼します」

 この空間に、己の居場所はないと悟ったのか、マティアスはおずおずと頭を下げ、きびすを返した。ハリエットは、ギュッと拳を握った。


*****


 マティアスの姿が完全に見えなくなっても、しばらくハリエットとグレンダは動かなかった。ハリエットの視線は穏やかだが、グレンダは今にも射殺しそうな鋭い視線だった。先に口を開いたのはグレンダの方だった。

「まさかお姉様がこんなにしぶといなんて、思いもしなかったわ。引き際が分からなかったの?」
「どうして私が引かないといけないの?」

 さも不思議そうにハリエットは尋ねた。

「むしろ、どうして私が引くと思ったの? 私がいつも欲しいものを諦めていたから、今回もそうだと思った?」

 苛立たしげにグレンダは片眉を跳ね上げた。口調もイライラしたものに変わる。

「私を責めてるの? 自分から諦めたくせに」
「責めてはいないわ」

 ハリエットは静かにそう言った。責めてるのは自分自身だ。
 だが、グレンダはそう思わなかったのか、一層いきり立つ。

「そういう冷めた物言いが昔からずっと気に入らなかった。物欲しそうな顔でこっちを見つめてくるだけで、何にも言ってこなかったくせに。あの殊勝な態度はどこにいったの?」
「棘のある言い方をするのね。でも、確かにそうだわ。私もあの態度は良くなかったって思う。あなたのことがちょっと羨ましく思うくらい」

 これはハリエットの本心だった。自覚した後で、それを一番に伝えるのがグレンダだというのは何の因果だろうか。
 しかし、グレンダはやはりこれを曲解。己の胸元を掴み、叫ぶようにして言った。

「馬鹿にしてるの!? 私は! 欲しいものがあったら自分から盗りに行く! それが私よ!」
「ええ、そうね。私からしてみれば、その生き方はすごく羨ましい。……でも、社会では通用しないと思う」

 ハリエットは視線を落とした。

「いつまでもそんなことをしていても、皆から愛されることはないわよ。きっと疎まれて、忌避される。表面上は仲良くしてくれる人がいたとしても、内心では何を考えているか分からないわ。だってそうでしょう。あなただって本心を見せないんだから」
「――っ、あんたと一緒にしないでよ! 私にはお父様とお母様がいるもの! でもあんたの周りには誰もいないじゃない!」
「そうね。私はずっと意地を張っていたから」

 なおも何か言いたそうなグレンダだったが、ハリエットの小さな声に気圧され、彼女は押し黙った。

「素直になれば良いのに、あなたのやり方を真似したら負けたような気がして。自分からいかなくても、いつか愛されると思ってた。……でもそれは違ったみたい」
「何が言いたいの?」
「これからはあなたを見習うようにするってこと。いつまでも大人ぶって受動的な態度を貫いたら、本当に欲しいものは手に入らないもの」

 突然の態度の変わりように、グレンダは呆気にとられたように口を開ける。ハリエットは構わず続けた。

「でもね、あなたも私を見習った方が良い。欲しいものがあったとしても、周囲の人を蹴散らしてまで盗りに行っていたら、いつかあなたの側には誰もいなくなるわよ」
「あんたと一緒にしないで!」

 ハリエットは悲しそうに微笑む。幼い頃は、自分に妹ができることを喜んでいたのに。何がどう間違ってしまったのだろうか。

「一緒にいると疲れるけど、あなたの素直な態度、そんなに嫌いじゃないの。そのことが最近になってようやく分かったの」

 そう、嫌いではないのだ。嫉妬はしたし、妬んだりもしたが、嫌いではない。嫌いだったのは、他でもない自分のうじうじとした態度だったのだ。それが分かっただけでも、大した進歩だ。

「マティアス様が好きよ」

 そして、自分の気持ちを素直に言葉にできることも。

「初めてあなたに渡したくないって思ったの。だから覚悟しておいてね」

 静かにそう言うと、ハリエットはその場を後にした。グレンダがどんな顔をしていたかは覚えていない。
 驚くべき立場の逆転だった。今まではただ一方的にグレンダに文句や悪態をつかれるだけだったのに。
 ハリエットは、晴れやかな気分でその場を後にした。


*****


 茶会の後は盛大な晩餐会だった。主役はもちろんマティアスで、彼の元にはひっきりなしに人が訪れていた。盛況のうちに幕を閉じるかと思いきや、食事が終わった後はボードゲームを楽しんだり、お喋りを続けたりと賑わいはなかなか終わりを見せない。
 近隣の者たちが帰り支度を始める中、遠くから来た者は、バーナード家に泊まっていく予定だったために、夜遅くまで晩酌していた。マティアスはというと、客室は満室だったし、家がそれほど遠いということはなかったので、バーナード家の馬車で帰っていった。周りにはいつも人で溢れていて、彼とバーナード姉妹が話す機会はなかった。時折、何かもの言いたげに視線を交わすことはあっても、近づけば必ず誰かがその道のりを阻む。それだけ狩猟の主役は人気者だった。
 だが、帰り際、マティアスはバーナードと約束していた。三日後に、折り入って話があるので、また来てもいいか、と。バーナードは不思議そうな顔でこれを了承、そして姉妹は、互いに言葉を交わすことなく、三日後を迎えることになった。