16:ありのままで


 ハリエットがマティアスを連れてきたのは庭園だった。私室に連れて行くわけにも行かなかったし、かといって、これからする話は、顔を見ながらすると少々恥ずかしい。だからこそ、肩を並べながら歩ける庭園を選んだのだ。
 日中で一番暖かい時間とはいえ、季節が季節なだけに、空気が冷たい。しかし、火照った身体にはむしろそれが丁度よく、歩きながらも、ハリエットはチラリとマティアスに視線を向けた。

「以前私は言いましたね。あなたの家は――その、あまり経済状況がよくないと噂になっている、と。社交界で噂になるくらいですから、父や母も当然そのことは知っていました」

 グレンダは知らなかったようだが、そのことについては言及しないでおく。

「それでもあなたを私の婚約者にと望んだのは、ひとえにあなたの人柄あってのものです。社交界であなたを見かける度、両親は目を光らせて観察していたそうですが、誰にでも平等な態度や、難癖をつけてくる方の対応、物腰、話し方、気配りも含めて、両親はあなたのことに惹かれたんです。ですから……私がこんなことを言うのも変ですが、自信を持ってください。あなたがお金目当てであっても、私を大切にしてくれるだろうと思ったからこそ、両親は結婚について話をしたんです。どうかそこは誤解しないでください」
「そう言って頂けて光栄です」

 二人の足はいつの間にか止まっていた。大して歩いてもおらず、屋敷はすぐ目の前にあった。

「ですが、やはり目的が不純であったことは否めません。あなたには幸せになって欲しくて――」
「あなたは本当にお金目当てなのですか?」

 マティアスがきょとんとした表情になる。彼が口を開くよりも早く、ハリエットは続けた。

「お金目的なら、私かグレンダか、どちらか選んでいたはずですよね?」
「それは……申し訳なく思って」
「では、もうその時点でお金目的ではなくなりましたよね。マティアス様のことですから、愛情がないのに結婚するなんてことはもう絶対に言わないはず。だったら、次にマティアスが結婚したいとおっしゃって頂いた瞬間――その時が、本当に私を好きになってくださった時ということですよね?」
「なっ――でも、それは」
「今度は私に時間をください」

 ハリエットはマティアスの目を見つめていった。

「構いませんよね? マティアス様が私を落とす期間は四ヶ月ほど……でしょうか。だったら、私にも同じ時間をくださいますよね?」

 ある意味脅しである。しかし、マティアスに拒否権はない。
 ようやく欲しいものが見つかったのに、どうして諦めなければならないのか。

「ですが、どうして僕のような男を……。あなたなら、もっと素敵な男性と」
「分かったようなことをおっしゃらないでください」

 ハリエットは腹を立てて言い返した。好きな人が自分を卑下していて、それを見過ごすことなどできなかった。

「最初はお金に釣られてきた不誠実な方だと思ったければ、根は純粋で子供みたいな方。どんどんあなたの魅力に引き込まれていった。グレンダに盗られたくないと思ったんです。こんなに私を振り回しておいて、今更逃げるだなんて少し卑怯です」
「す、すみません……」

 怒ってはいないのだが、わざと刺々しい声で話したので、マティアスはしょんぼりした。そんな彼が、すごく愛おしい。

「私、狩りは初めてですけど」

 ハリエットは笑いをかみ殺した。彼女の言葉に、マティアスは首を傾げる。

「今はやる気に満ちているんです。必ずあなたを射止めて見せます」
「は、あ……」
「覚悟しておいてくださいね」

 ハリエットは自信満々に微笑んだ。今なら、何でもできる気がするから不思議だ。
 ハリエットは、覗き込むようにマティアスに顔を近づけた。

「マティアス様、顔が赤いですよ?」
「仕方ないじゃないですか。そんなこと言われたの生まれて初めてだったし……」

 ハリエットは目を丸くし、首を傾げた。

「そうなんですか? マティアス様なら、数多の女性に似たようなこと言われてるのかと思っていました」
「そんな訳ありませんよ。そもそも、そういう女性達は、大抵僕の反応待ちですから」
「では、今まで女性から積極的に口説かれたことはないと?」
「まあ……はい」

 渋々マティアスが頷く。ハリエットはパッと喜色を露わにした。

「だったら、私にも勝ち目はありますね。心しておいてください。たくさん口説いてみせます」
「……そういうことは男がするものじゃありませんか?」
「そうでしょうか? でも、大人しく待っていてもマティアス様は振り向いてくれないでしょう?」
「そういうわけでは」
「そういうわけありますか?」

 ニコニコとハリエットが聞けば、マティアスは更に苦い顔になった。

「以前から少しずつ片鱗は感じていましたが、ハリエット様は意地悪ですね。僕にだけかは分かりませんが、すごく意地悪です」
「私、そうなんですか?」

 ハリエットは目を瞬かせて聞き返した。しかし、すぐに思い当たる節があったので、クスクスと笑い声を立てた。

「確かにそうかもしれません。でも安心してください。たぶん、意地悪なのはマティアス様だけにですよ」
「全然嬉しくありません」

 仏頂面でマティアスはそっぽを向く。

「だって、マティアス様の反応が面白くて。からかいがあるんですもの」
「からかわれて嬉しい男なんていませんよ」
「でも、私は楽しいですよ。自分に素直になるべきだっておっしゃったのはマティアス様の方じゃありませんか」
「そんなこと言いましたか?」
「言いましたよ」

 ハリエットは胸を反らした。

「私、こんな自分がいること初めて知りました。楽しいですね。今なら何でもできそうな気がします。不屈の精神で」

 マティアスはマジマジとハリエットを見つめた。不思議なのだろう。つい前までは、うじうじと閉じこもっていた自分が、何をどうなって、ここまで心境の変化があったのか、と。

「ハリエット、マティアス様」

 自分たちを呼ぶ声に、二人は揃って振り返った。居住まい悪そうに佇んでいたのは、バーナードとカミラだ。大方、なかなか帰ってこない二人を心配してのことだろう。グレンダの姿はなかった。

「部屋で待つつもりだったんだけど、ごめんなさいね、どうしても気になってしまって。それで……あの」

 ぎこちなくカミラは二人を交互に見つめた。それ以上言葉が続くことはなかったので、ハリエットはゆっくり両親に身体を向けた。

「お父様、お母様。婚約の話は一旦流れました」

 ハリエットがそう静かに告げれば、バーナードは驚いた表情になり、カミラは顔を歪めた。
 私の気持ちを、慮ってくれたのだろう。たったそれれだけのことでも、ハリエットは胸が温かくなった。

「ですが、マティアス様に時間を頂きました。私がマティアス様のお心を射止める時間。四ヶ月の間に必ずマティアス様を振り向かせます」

 始め、言われた意味が分からないといった顔で、バーナードとカミラは顔を見合わせた。しかし、やがて観念したように頷くと、バーナードは渋々口を開いた。

「二人の間でそう決めたのなら、まあ……」

 それでも、彼の顔は苦い。父親としては複雑な心境だろう。マティアスは一層申し訳ない表情になる。そんな顔をして欲しくなくて、ハリエットは彼の腕をぐいと掴んだ。

「マティアス様、お時間に都合のつく日はありますか?」
「どうしてですか?」
「どこかへ出掛けましょう。今度は二人きりで」

 グレンダが行きたいと言ってきても、今度こそ断るつもりだ。それだけの度量も理由もあった。

「まだメイリー家の領地は十分に見て回っていませんから、エヴァリーズ地方を回るのもいいかもしれませんね。よろしいですか?」
「それは……構いませんが」
「楽しみですね。いつご都合がつきますか?」

 両親などすっかり蚊帳の外で、ハリエットとマティアスは二人だけの空気になっていた。
 カミラにしてみれば、呆気にとられる思いだった。
 娘は、あんなに楽しそうに笑う子だっただろうか。表情も柔らかで、笑い声が耳に心地よい。それに何より、先ほどから一度もマティアスがハリエットから目を離さない。このことからも、彼女がそれだけ人を引きつける魅力があることは窺える。――もとからそんな魅力を持っていたのか、それともこの瞬間に身につけたのか。

「行きましょうか」

 カミラは夫の腕に手をかけ、そっと後ずさりをした。この空気に自分たちが入る余地はない。空気を読むべきだ。今まで読めなかった分。
 娘の楽しそうな笑い声を背に、カミラは予感をしていた。
 マティアスの方から求婚したいと申し出てくるのは、そう遠い未来ではないのではないか、と。きっとそれは、親馬鹿などではなく、目の前の二人をきちんと見据えた末で自然と出てきた未来の光景だった。