07:二度目の別れ


 俊之たちとは少し離れた場所で、実里たち三人の親子が、一堂に会していた。
 ――もう二度とこんな機会は訪れまい、と思っていた矢先のこの状況。
 人生、何が起こるか分かったものではないなと、裕一郎は実里を腕に抱きながら妻を見上げていた。

「まさか、この世に幽霊が存在していたとはな」
『あら、どうせ裕一郎さんは信じてくれないと思っていたけれど』
「さすがに目の前に現れたら信じるさ。他でもない――久美子が現れたんだから」

 わずかに瞳を潤ませる裕一郎に、久美子は感極まったのか、彼に近づき――。

『今、私に実体がないことに感謝してほしいわ』
「……は?」
『そうじゃなかったら、あなた、今娘の前で妻にボコボコにされていたところよ?』
「…………」

 久美子は無表情のまま、首を傾げて見せた。

『あなたの実里に対する処遇、聞いてないとでも思って? いくら出張で忙しいからって、夜な夜な家に帰らない娘にも気づかない親がどこにいますか』
「――っ、実里、夜遊びしてたのか!」

 裕一郎は厳しい顔で娘を見やった。実里は気まずそうに顔をそらすが、二人の間に久美子が割って入る。

『人聞きの悪いこと言わないで。確かにこの子も悪いけど、それ以上に悪いのはどう考えてもあなた』

 強く言い切ると、久美子は小さく首を振った。

『私のせいで、あなたに苦労をかけてるってことは分かってる。膨大な治療費を重ねてしまって……。でも、それとこれとは別よ。実里のことはちゃんと側で見ていてあげて。私の分も』
「……ああ」

 視線を落とし、裕一郎は実里と目を合わせた。恥ずかしげに、彼女も父親を見返す。
 久美子は、そんな二人を腕を組んで眺めていた。

『それはそうとして、どうしてこんなに早く実里の危機に駆けつけられたの? 正直なところ、実里のことに気がつくのは、明日の朝かと思っていたわ』

 久美子の厳しい声に、裕一郎は気まずげに視線を落とす。

「強盗が、未だに捕まってないってニュースで見たんだ。心配になって電話しても実里が出ないから、出張を切り上げて戻ってきてみれば……実里の姿はどこにもないし。その後、すぐに学校から連絡が入って、俊之君もいないってことが分かったから、一緒に探すことになって」
『一応、実里のことは忘れたわけじゃなかったのね』
「正直、な。仕事に没頭するのが一番楽だったんだ。すまない、実里。これからは、仕事をもっとセーブする」
「いいよ……。気にしてない。お父さんの方こそ、お腹大丈夫? たくさん殴られてたでしょ?」
「ああ、これくらいたいしたことはない。実里が無事で良かった」
『正直、インドアのあなたがああも身体を張ってくれるとは思わなかったわ』
「俺も驚きだ。普段なら一発殴られただけですぐに卒倒しそうなものだが」

 本気で言っているのか、冗談なのか。
 真面目な顔でそう言う父に、実里は泣き笑いのような表情になった。そうして父の胸に顔を埋める。

「ありがとう……」

 一瞬固まって、そして再び、裕一郎は強く娘を抱きしめた。


*****


 パトカーの近くで、俊之は両親と共に待機していた。犯人護送のためのパトカーの到着をしばらく待たないといけないらしく、暇を持て余しているのだ。
 しかし、そんな俊之の目に、弘樹が映った。彼が手招きしているのを見て、俊之は両親に断りを入れ、そちらに向かった。すっかり忘れていたが、自分たちは、この廃墟の幽霊たちに、多大な恩があった。きちんと礼を述べなければ!
「あの、弘樹さん」

 ついてそうそう、俊之はパッと頭を下げる。

「ありがとうございました、本当に。俺が捕まったときも、みんなで助けてくれて」
『ああ、いいっていいって。それよりも、さ』

 俊之の誠心誠意の礼をサラッと受け流すと、弘樹はどんどん先へ行った。
 彼の後をついて行く際、時折他の幽霊たちともすれ違ったが、皆嬉しそうに手を振るのみで、二人がどこへ行くのか聞くことも、一緒に行こうと言い出すこともなかった。
 重い扉を押し開き、俊之たちは中庭にたどり着いた。周囲を病棟に囲まれているが、ぽっかり開いたその真上からは、丁度月の光がこうこうと差していた。

「ここは?」
『覚えてるか? 昔、よく一緒に遊んだな』
「うん」

 思い描くは、かつての記憶。病院内で鬼ごっこなんてしてはいけません! と看護師に怒られ、渋々中庭で鬼ごっこをするようになったあの頃。

『俊坊も分かっているだろうが』

 俊之にはベンチに座るように腰掛け、しかし自分は俊之の目の前に静かに降り立った。

『もう俺たちは一緒にいられない。こんな事件が起こった今、まだ小さいお前たちはもうここに来ちゃいけないんだ』
「……うん」

 両親に多大な迷惑をかけた。それだけでなく、警察や学校にだって、もしかしたら友人にだって、心配をかけさせてしまった。
 自分たちが悪いことは分かっている。でも、ちゃんと両親にここへ行く旨を説明してから、遊びに行くのは駄目なのだろうか?
 俊之のもの言いたげな視線でそのことを悟ったのか、弘樹は難しい顔になった。

『もし両親から許可を得られても、もうここには来るな。生者と死者が一緒にいてはいけないんだよ』
「どういう、こと?」
『死者が生気を吸い取るって言うのかな……。実里のあのやつれようは、尋常じゃない。たとえ野宿してもお菓子しか食べてなくても、さすがにあんなに簡単にやつれたりはしない。俺たちのせいじゃないかと思ってる』
「そんな……」

 そんなのはあんまりだ。
 好きで一緒にいるだけなのに、その相手の生きる力を奪ってしまっていたなんて。
 しかし、彼の言うことは、所詮は憶測であって、何も根拠はない。もしかしたら、違うことが原因かもしれないのだ。
 そう俊之は思うものの、それを口には出来なかった。あまりにも、弘樹が寂しそうな瞳をしていたから。

『実里を支えてやってくれな』
「俺じゃ、力不足だよ……」

 思わず俊之は呟いた。
 実里が一番辛い時期に、自分は何も出来なかった。しなかった。父親に会える日は数少なく、クラスメイトからも距離を置かれ。
 そんな、孤独だった実里を元気づけたのは、他でもない彼らの方なのに。

「弘樹さんたちは、どうするの……?」

 知らず知らず流れ出していた涙を拭い、俊之は顔を上げた。

「実里がここに来なくなって、俺も来なくなって。……それで、いいの? ずっとここにいるの? ちゃんと成仏できるの?」
『分からない』

 きっぱりと弘樹は言い切った。悲しい断言だった。

『せめて、自由に好きなところにいけたらいいのに、それもできない。俺たちはずっとここに縛り付けられたままなんだ。生きる喜びも、いろんな人と話す楽しさも、今はこれっぽっちも感じられない。これから自分はどうなるのか、漠然と不安になる夜もある。でも仕方がない。それが幽霊なんだ。だからこそ、早く成仏することが正しいし、それが一番楽なはず。でも、その方法が分からない』

 間をおいて、弘樹は頭を掻きむしった。

『どうすれば楽になれるのかが、分からないんだ』

 独り言のような疑問に、今の俊之はどう答えればいいのか分からなかった。


*****


 どれくらいそうしていたかは分からない。
 ギイッと重い扉が開く音で、俊之は顔を上げた。驚いたような顔の実里と目が合った。

「み、実里……」
「俊之君? どうしてここに」
『実里、これでお別れよ』

 久美子は、パッと実里の隣から移動した。身を翻して、彼女と対面する。

「お母さ――」
『裕一郎さん、実里のこと、お願いします』
「……ああ」
「お母さん!」

 信じられないといった風に実里は叫ぶ。彼女がそれに応えることはない。
 久美子の隣に、ポツポツと白いものが舞い降りてきた。他の幽霊たちだ。

『じゃあな、実里、俊坊!』
『短い間だったが、随分楽しませてもらったの』
『そうですね。いい運動にもなりましたし』
『幽霊って、運動不足関係あるの?』
『でも、隠れ鬼のおかげで、幽霊ってこういうこともできるんだーって分かりましたし』
『でもそれ運動不足とは何の関係もないよね?』

 ちょっとした口論が起こりかけたが、暗い面持ちで青年幽霊が前に進み出たので、自然に会話は止まった。

『あの、調子に乗って医療器具持ち出して悪かった。実里ちゃんと俊之君には多大な迷惑をかけてしまった』

 彼は申し訳なさそうに身を縮こめている。さすがに気の毒に思ったのか、弘樹はその肩をしっかり叩いた。

『まあ全部終わったことだ。お前の射撃の腕は確かだって記憶には残しておいてやるよ』

 しかし、珍しい弘樹の褒め言葉に、青年幽霊はパッと気色をあらわにする。

『でしょう!? 学生の時、お祭りの射的が一番得意で――』
『っだああ! もうそんな話はいいから!』

 うんざりしたように弘樹が耳を塞ぐ。笑いが起こったが、ひときわ目立つ泣き声にそれはかき消された。

『ううっ、実里〜、トシちゃん! 私たちがいなくなっても泣くんじゃないわよっ!』

 そういう自分がもう泣いている。

『もうトシちゃんの怖がる顔が見られないなんて、こんな悲しいことってないわ!』

 こんな嬉しいことってない!
 絵里子の言葉を借りるなら、俊之の心情としてはこんなところか。

『結局、最後に鬼だったのは弘樹だったわね』

 感慨深げに、女性の幽霊がそう呟く。

『ということで、弘樹が敗者ということでオッケー?』
『ええっ、そんなのありかよ! ゴタゴタしてて忘れてたんだから、仕方ないだろ!』

 弘樹の素っ頓狂な声に、俊之は笑みを浮かべた。だが、弘樹の視線は突然俊之に向いた。

『あ、いや、でもさっき俺、俊坊に触ったぜ? ほら、中庭に出たとき。いや、触ったというか、すり抜けたというか、そんな感じだけど。でもとにかくそれで鬼は交代だよな?』
『じゃあ俊之君が敗者?』
「そ、そんなのってないよ! ていうかまだ続いてたの!?」

 俊之は慌てて非難の声を上げる。

『しかも、俺たちはここでお別れだから、リベンジしようったって、そうはいかないな』
「ええ……」

 やたらと嬉しそうな弘樹に、次第に俊之も馬鹿らしくなってくる。

「じゃあもうそれでいいよ。はいはい、俺が鬼です」
『……弘樹、トシちゃんよりも子供だったみたいね』
『うるさい!』

 またもや笑いが起こる。だが、実里は一人、微動だにしていなかった。ずっと幽霊たちの会話に入らず、涙が流れ出るのをそのままに、下を睨み付けていた。

「ず、ずるいよ、みんな』

 そして小さく呟く。

「……また私を置いてっちゃうなんて」

 シーンと場が静まりかえる。俊之はかける言葉が見つからず、ただ彼女を見つめる。
 違う。違うんだ、実里。置いて行かれるのは、みんなの方なんだ――。
 そう思うものの、口には出来ない。実里には内緒にする、というのが弘樹との約束だからだ。
 成仏できずに、ここで……こんな山奥の廃墟で、ずっと宙を漂ってるんだ。もう来ない実里を待ちわびて、ずっと、ここで――。

『実里、もうあなたは一人じゃないわ』

 無理矢理終わらせるつもりだ。
 久美子はたおやかに微笑んだ。

『お父さんも、これからは心を入れ替えてずっと実里の側にいてくれるだろうし、それに俊之君も』

 そうして俊之を見る。俊之は背筋を伸ばした。

『実里と仲良くしてあげてね』
「はい」
『実里、さようなら。元気でね』
「ま、って! まだ、まだ私――」

 実里の返答を待たずに、彼らはスッと後ろに下がった。そして、月の光に導かれるかのように、久美子や弘樹の身体が空へ向かっていく。他の幽霊たちも名残惜しそうな顔をしながらも、順々に上がっていく。
 皮肉なことに、それはとても美しい光景だった。月明かりに、彼らの顔がぼんやり見えたり見えなかったり。
 しかし、いつまでもそんな光景は続かなかった。やがて、彼らの姿は空気に溶けるように霧散した。辺りには、もう何も残らない。

「う、うあああっ!」

 実里は甲高い叫び声を上げて、その場に蹲った。裕一郎が、その肩を支えるが、振り払って彼女はただ乱暴に嗚咽を漏らす。

「う、うう……」
「実里……」

 彼女は泣き止まない。その場からも動かない。だが、誰も急かそうとはしなかった。せめて、彼女が落ち着くまで。


*****


 しばらくして、俊之の両親が呼びに来た。護送用のパトカーが来たから、ようやく家に帰れるのだと。
 裕一郎に肩を抱かれたまま、実里はぼんやりとした顔で歩いていた。時折思い出したかのように表情が崩れるが、もう嗚咽を漏らすことはなかった。

「俊之も行くわよ」

 ボーッと突っ立っていた息子に対し、母親がそう声をかける。俊之はゆっくり頷き、実感がないまま、一歩一歩歩みを進めた。扉を押しのけ、病院内の廊下を歩く。ひどく静かだった。
 本当に、自分には何もできないのか。
 締め付けられるように胸が痛かった。思わず胸元のシャツをギュッと掴むが、痛みが和らぐことはない。
 俊之は無言のまま立ち止まった。

「俊之?」
「ごめん、先に行ってて」
「でも――」
「……分かった」

 何か言おうと口を開いた母を、父はそっと押しとどめ、頷いた。そのことに感謝する暇もなく、俊之は身を翻して走り出す。向かうは、あの中庭。
 息を切らし、重い扉を押しのけた。ギイッと大きい音が鳴り響き、一斉に目が向けられる。

『俊坊……』

 久美子、弘樹、そのほかの幽霊たち。
 まるで、迷子のような視線ばかりだった。そろいもそろって、どこへ行こうか、どこへ行けばいいのか考えあぐねているかのような。
 彼らは、この廃墟に雁字搦めになっているはずなのに、なんと矛盾したことか。

「俺、絶対またここに戻ってきます!」

 俊之は無意識のうちにそう口走った。困惑したように弘樹が立ち上がる。

『な、何言って……』
「それで……それで、皆を楽に出来る人を連れてきます!」

 思いつくまま叫ぶ。自分でも何を言っているのか分からない。ただ、そんな目をして欲しくなかっただけだ。隠れ鬼で遊んでいた頃のように、楽しそうに、嬉しそうにキラキラと瞳を輝かせて欲しかっただけだ。

「だから、諦めないで待っててください!」

 返事も待たずに、俊之は病院の中へ駆け戻った。
 これは、宣言だった。絶対にこのまま忘れたりなんかはしないという、俊之なりの決意――。