06:最後の足掻き
先に正気に戻ったのは俊之の方だった。咄嗟の判断や俊敏な動きは苦手だが、味方が来たとならば、話は別だ。
「実里、行こう!」
「――う、うん!」
俊之は喜々として男二人の間を掻い潜った。といっても、彼らは幽霊の相手をするのに精一杯で、こちらに構っている暇はないようだが。
そうしてエントランスを走り抜け、ガラス扉までやってくる。
始めは恐怖のあまり自分の意思でくぐれなかったこの扉。だが今は違う。たくさんの幽霊に驚かされ、走り回り、男たちから逃げまどい。
たったひとときのことであったが、俊之はずいぶんな自信をつけていた。もう誰にもチキン野郎とは言わせない!
扉の前で一旦立ち止まると、俊之は顔を両手でかばいながら、そーっとそーっとくぐり始めた。――いくらあの男たちから逃げ惑っている最中だとは言え、さすがに走りながらでのくぐり抜けはできないのである。
俊之がようやくガラス扉を抜け終えた丁度そのとき、二台のパトカーが山道からやってきたところだった。思わず彼は満面の笑みになる。
「来た! 俺たちの味方だよ、実里!」
叫びながら、俊之はパトカーに向かって駆け出した。当たり前ではあるが、突然暗闇の中目の前に現れた少年に、パトカーの運転手は度肝を抜かれ、慌ててブレーキを踏んだ。――せっかく男たちの魔の手から逃げ出したばかりだというのに、味方であるはずのパトカーに危うくひかれるところであったとは、このときの脳内お花畑の俊之には知るよしもないことであった。
「お父さん、お母さん!」
「俊之!?」
車の前に飛び出したら駄目でしょう! と怒る気力も忘れ、ただただ息子のことを抱きしめる俊之の両親も、血の繋がった親子と言われれば納得ものだ。
「もう、どうしてこんな所に……!」
「なんでここが分かったの!?」
母の言葉を遮り、俊之は真っ先に聞きたいことを尋ねた。母親はちょっと面食らった顔になったが、すぐに目を細める。
「いつまで経っても俊之が帰ってこないから、学校に問い合わせたら、各家庭に連絡を回してくれてね。それで、俊之だけでなく、実里ちゃんもまだ帰ってないことが分かったの。もしかして二人は一緒にいるんじゃないかって思った矢先、クラスメイトの一人が、実里ちゃんはよくここに来てるって話を聞かせてくれたから、それでここに」
妻の言葉の続きを請け負うかのように、父も俊之の肩に手を乗せた。
「実里ちゃんは? それで、実里ちゃんはどうしたの?」
「……? 実里ならすぐ後ろに――」
何の気なしに俊之は後ろを振り返る。先ほどまで、すぐ後ろにいたはずだ。実里は運動神経がいいから、とっくにここに来ているはず――。
「実里!」
しかし、そこに彼女の姿はなかった。二台目のパトカーから、慌てたように姿を現す実里の父――裕一郎を視界に入れ、初めて俊之は理解した。
『――実里っ!』
久美子もまた、切なげに娘の名を呼んだ。たった一人の娘は、一人の男に羽交い締めにされていた。
「実里ちゃん!?」
「な、なんだ、あの人たちは!?」
混乱したように俊之の両親は口々に叫ぶ。ついで、この大人たちの中で、一番頼りがいのありそうな警察官に、俊之は縋るような目を向ける。
「あの人たち、たぶん悪い人たちだよ! お金たくさん持ってて! 警察が来たら、俺たちを盾にするって言ってて!」
お金を盗んできたか……は、定かではないが、自分たちを手ひどい目に遭わせたのだから、悪い人なのは確かだろう。言動もそれ相応だった。疑う余地もない。
二人の警察官は、厳しい表情で顔を見合わせた。
「お金……? もしかして、あの車は今指名手配されている強盗犯のものでしょうか!?」
「まさかこんな所に潜伏していたとは……。急いで本部に連絡を!」
「はい!」
慌てたように、一人の警官が内線で連絡を取る。壮年の警官は、険しい目つきで男たちを見やった。
「今ならまだ間に合う! その娘を放すんだ!」
「実里ちゃん……実里ちゃん!」
「黙りやがれ!」
ざわめく大人たちを、男は一括した。
「いいからその場から動くなよ! 一歩でもこっちに近づいたが、最後、このガキの身体に穴が開くぜ」
タバコの男はメスを右手に持ち、笑って実里の頬近くでちらつかせて見せた。実里は顔色を失って、ギュッと目をつむっている。
「おい、そこにいる幽霊どもも決して動くなよ! 散々俺たちをこけにしたこと、後悔させてやる……!」
男の瞳は復讐に燃えている。どうしようもできないもどかしさに、弘樹は青年幽霊に当たり散らした。
『馬鹿野郎! お前が危ないもん投げるから、そのせいで実里が窮地に立たされてんじゃねえか!』
『わ、悪かったよ……まさかこんなことになるとは』
『謝って済む問題か!』
弘樹は頭をかきむしりながら、怒りにまかせて青年を追いかけ回す。青年の方は青年で、彼から逃げ惑う。
そんな光景を、恐怖にまみれて見上げるのはひげ面の男で、唖然として見つめているのが警察官と俊之の両親、そして実里の父親だ。
「ゆう、れい……?」
「まさか、いや、でも……」
混乱する両親のすぐ側で、裕一郎は小さく呟いた。
「久美子……」
その声が聞こえたわけではないだろうが、久美子が、一人集団の中から出てきた。すぐ後ろにいる彼女は、幸い男たちには気づかれていなかった。彼女は何かもの言いたげに、こちらを見つめている。俊之には、そのメッセージが分からない。
「おい、勢いはこっちにある。早く片をつけるぞ。廃墟の中からアタッシュケースを持ってこい。車にガキもろとも詰め込んで、ここからずらかるぞ」
「あ、ああ……」
おどおどしながらも、ひげ面の男は病院内へ入っていく。その道中、動くに動けない血気盛んな幽霊たちの側を通らなければならなかったので、その顔色は非常に悪かったが。
ひげ面が病院内へ姿を消したことで、その場はしんと静まりかえる。
このまま膠着状態が続くかと思われたそのとき、俊之の隣で、おもむろに動く人影があった。
「おい、動くな!」
当然慌てて男が叫ぶ。だが、その人物はおぼつかない足取りで、聞き入れようとしない。
「俺が代わりに人質になる。だからその子は放してくれないか?」
「なにを……!? いいから離れろ!」
厳しい顔つきで男が下がる。それと共に、裕一郎もまた近づく。
「実里、実里ー!」
「なんだこいつ! いかれてやがる!」
焦った様子で男はメスを振り回した。
「おい! さっさとこいつをなんとかしろ!」
「ああ!」
丁度アタッシュケースを車に詰め込もうとしていたひげ面は、慌てて駆け戻ってきた。
「こいつめ……! 大人しくしろ!」
ひげ面は裕一郎を後ろから羽交い締めにする。裕一郎はもがくが、その屈強な腕からは逃れられない。
「殴って大人しくさせておけ。目障りなんだよ」
男の声に従って、ひげ面は裕一郎の腹を殴りつけた。くぐもった声が彼の口から漏れ出す。
「娘の前でいたぶられる気分はどうだ? 父親面しやがって。所詮はお前も無力なんだよ!」
ニヤニヤ笑ってひげ面は叫ぶ。実里を抱えながら、タバコの男も口元を歪める。
完全に油断しきっていた。
その二人の間に、突如突風が吹き荒れた。それと共に現れるのは、幽霊たちの十八番、シーツ地獄である。
「なっ!?」
突然どこからともなく現れたシーツの山に、タバコの男は混乱して両手を振り回した。さすがは実里と言ったところか、彼女はその隙を逃がさず、速やかに彼の腕から逃げ出す。
「――っの、ガキ!」
男は怒り狂って魔の手を伸ばすが、その腕、顔、身体に立て続けに小さな石ころがぶつかった。大きな威力こそないものの、勢いをそぐには充分だった。
「――っ!?」
怒りのあまり、声もなく石が飛んできた方を見ると、そこにいたのは俊之だ。縛られていたときはただの怯えていた少年だったくせに、この変わり様はいったい。
ひげ面と裕一郎の方にも、シーツの攻撃は向かっていた。二度目のシーツではあるが、ひげ面はまたも焦って無我夢中にもがく。裕一郎の方は、幽霊たちが考慮していたおかげで、難なくシーツの山を抜け出す
「畜生! 待ちやがれ!」
ひげ面が唾を飛ばして叫ぶ中、裕一郎はさっと駆け出して、実里と俊之、二人を回収して抱えて走り出した。短距離走者さながらの速さである。
「くそっ、逃げられた!」
真っ赤な顔でどなる男たち。しかし、タバコの男の方が立ち直りは早かった。
「もうガキはいい! さっさと行くぞ!」
してやられたのは癪だが、この情勢はまずい。
そう判断して、男たちは素早く車に乗り込んだ。もうすでにトランクには金を積んである。人質には逃げられたとしても、金さえあれば、どうとでもなるのだ。
助手席にひげ面が乗り込むと同時に、車が急発進した。どんどん速度を上昇させて、山道へと突っ走る。
裕一郎たちが、慌てて山道への道を開けようと走るが、そのとき、パンッと乾いた音が響き渡った。ついで、その後も何発か闇夜に響き渡る。突然の銃声に、俊之は固まった。
誰か撃たれたのだろうか。
パクパクと心臓が鳴り止まぬ中、男たちの乗っていた車は、急に体勢を崩し、制御できなくなってそのまま目の前の大木に激突した。フロントガラスが割れ、同時にエアバッグが飛び出す。
何が何だか分からなかった。事態はあまりに早く動き、そして最後は、あまりにも遅く感じられた。まるで、スローモーションで見ているかのように。
「午後十時二十一分、逮捕!」
カシャリと手錠をかける音が響く。男たちは気を失っているようで、その腕はだらんとしていた。
「実里ー!」
裕一郎が大きく叫び、実里にがっしり抱きついていた。実里は苦笑しながらも、されがままになっている。
『格好良かったぞ、俊坊!』
いつの間にか、弘樹が近くに来ていて、爽やかに歯を見せて笑っていた。
「そ、そうかな……」
『さすが俺の一番弟子だな! やるときはやる!』
「えへ……」
いつ一番弟子になったのかは分からないが、俊之は高揚感で胸が一杯だった。
「俊之!」
『ああ、親御さんが来たのか。じゃあ俺はもうおいとましないとな』
そう言って、弘樹はスーッと闇夜に溶けていった。俊之は両親の声の方へ顔を向ける。
父、母が心配そうな顔でこちらに近寄ってきて初めて、俊之は事態が無事収拾したのだと実感することが出来た。