03:愉快な廃墟


 いいか、これは真剣勝負の隠れ鬼だぞ!
 そう言い残して、弘樹は嬉しそうに空気に溶けて消えた。初めて幽霊が消えてなくなったのを見て俊之は焦ったが、すぐにまた、彼が遠くの方で姿を現したのを見て、ホッと胸をなで下ろした。が、やはりハッとして顔を上げる。

 ……というか、幽霊はちょっと狡いんじゃないか?
 幽霊は消えることも出来るし、自由に壁や天井を行き来することも出来る。なら、隠れ鬼においては最強の存在だと言うことになる。真剣勝負と口にしていたが、その当人が、真剣勝負とはほど遠いズルをしていることになるのだ。ずるい、そんなのずるい!

「あの、弘樹さん!」

 一言もの申そうと、俊之はその場で叫んでみる。今もまた周囲に溶け込んでいるのか、彼の姿はない。が、俊之はお構いなしに叫んだ。

「弘樹さん! お話しがあるんですけど、弘樹さん!」
『っせーな! んだよ、さっきから! 実里にバレちまうだろうが!』

 弘樹は、突然俊之の隣に姿を現した。俊之は例によって肝を冷やしたが、動揺を顔に出すわけにはいかない。ギュッと唇を噛みしめた。

「あの、幽霊の弘樹さんたちと、人間の僕たちじゃ、平等じゃないと思うんですけど。何かハンデでもあるんですか?」

 先ほどまで幽霊に怯えていたばかりだったというのに、この俊之、すっかりやる気満々である。弘樹は拍子抜けたようにしばらく彼を見つめていたが、やがて、ニヤリと口元に笑みを浮かべた。

『心配すんなって。隠れ鬼の間中は消えたり、壁をすり抜けたりしないってルールだから。そうしないとフェアじゃないだろ?』
「……分かりました」

 俊之は疑いの目はそのままに、渋々頷いた。弘樹は安堵の吐息を漏らすと、そのまま軽く手を振って俊之の側から離れた。

『じゃあな。お互い頑張ろうぜ。……といっても、お前はこの辺りでリタイアになりそうだけどな』
「え?」
「俊之君、みーっけた」

 肩に温かい手が触れる。俊之はきょとんとそちらの方を見やった。ニコニコと笑う実里と目が合った。

「二人の声、病院中に響いてたよ? 簡単に見つけられちゃった」
「なっ……!」

 なりふり構わずに始めに騒いでいたのは確かに自分である。それは分かっているのだが、自分の情けない失態があまりにも恥ずかしくて、俊之は無駄に何度も口を開け閉めした。

『俊坊、残念だったな。とにかくもう俺は行くぜ』
 俊之の神経を逆なでするかのように、弘樹はゆっくりウインクをし、そのまま飛び去っていった。自分が鬼になってしまったのだから、今度はすぐ側にいた彼を狙おうと思っていた俊之は、それを見て呆気にとられる。

「はや……ずるいっ!」

 俊之は思わずその場で地団駄を踏んだ。消えたり壁をすり抜けることを無しにしても、幽霊は風の抵抗など全く受けないのだから、人間よりも早いのは当然だ!

「あの人たちを相手にするには、まずは気配を消すことを覚えないと」

 やけに達観した目で実里は言う。

「幽霊とは言っても、完璧じゃないの。後ろからそっと近づけば、まずバレることはない。追いかけっこになったらこっちが圧倒的に不利になるから、逃げにくい場所に隠れてる人たちを探せばいいよ」
「……はあ」
「じゃ、私はもう行くね。……あ、私を狙い撃ちしようとしても無駄だからね? 私、この場所のことはよく知ってるし、逃げるのも得意だから」
「……分かってる」

 こう見えて、幼い頃何度も実里と遊んだ身である。
 俊之は、彼女が運動神経抜群で、それでいて相手の思考を掻い潜るのも得意だということを十分理解していた。
 実里の姿が十分見えなくなったところで、ようやく俊之は行動を開始した。現在いる場所は二階。やはり、ここはそのまま二階を重点的に探すべきか。

 俊之はゆったりとした足取りで、周辺の部屋を虱潰しに当たった。実里の助言の影響もあるのだが、一番は、何より自分自身が怖いからである。大きな物音を立てたら、すぐにどこからともなく幽霊がやってきて、自分を脅かすのではないか。

 ここにいる全ての幽霊が、久美子や弘樹のようにフレンドリーな幽霊とは限らない。もしかしたら人間に悪意があって、それでのんきに隠れ鬼なんかして遊んでいる子供を恐怖に陥れに来るのかもしれない……!

 そんな思いに捕らわれながら、俊之は浴室にやってきた。個室の浴室なのか、部屋自体はこぢんまりしている。だが、浴室への引き戸を開いたとき、彼は固まった。――不自然に、浴槽の蓋が閉まっている。

 普通、あの蓋はお風呂を沸かす時に閉じるものだ。ここは今は使われていない浴室なのだから、今蓋が閉まっているのはおかしい。

「…………」

 俊之は悩んだ。ゆうに五分は悩んだ。そして決心した。あの蓋を開けるしかない、と。
 ここでみすみす、あの不自然な浴槽を見逃したら、この先ずっと鬼のままかもしれない。俊之のプライドにかけて、そんなことは許されない!
 恐怖のあまり、俊之は表情を無くしながら、一歩一歩浴槽に近づいた。そして蓋に手をかける。

「――っ!」

 一瞬呼吸をおいた後、俊之は勢いよく蓋を押しのけた!
 本末転倒ではあるが、俊之は咄嗟に目をつむっていた。浴槽に這いつくばるようにして、こちらを見上げているかもしれない、血みどろの幽霊を想定して、である。

「……あれ?」

 何も起こらないことを不思議に思って、俊之はすぐに目を開けた。そこには、誰もいなかった。俊之は思わず脱力した。

「な、なんだよ……」

 すごく勇気を振り絞ったのに、頑張って蓋を開けたのに、浴槽はもぬけの殻――。

『私はここよ』
「ぎゃああっ!」

 声と共に、冷たい吐息が耳に触れ、俊之は盛大に叫んでその場でひっくり返った。耳をかばいながら、今まさに声が聞こえた方を見やる。

『やっぱりトシちゃんは脅かしがいがあるわあ』
「な……は……?」

 そこにいたのは、絵里子と呼ばれていた女性幽霊だった。二十代の女性と見られるが、長い髪で、顔はよく見えない。

『私、ずっとそのカーテンの陰に隠れてたのよ? でも、トシちゃん、浴槽にばっかり注意とられてて。面白いったらなかったわ!』
「う……」

 まさか、あのいかにも怪しい浴槽以外に隠れているなんて、誰が思うだろうか!
 しかし、注意を怠ったのは紛れもない自分ではあるので、俊之は言い返すことか出来ない。
 その場で悔しそうに彼女を見つめていると、絵里子はうふふと笑いながら部屋から出て行った。

「あっ、まっ……!」

 一瞬面食らった後、俊之も慌てて浴室を飛び出した。
 これは単なる隠れん坊ではない。隠れ鬼だ。彼女を捕まえられさえすれば、どうとでも逆転できるのだ。

『ねえ〜、みんなも出てきなさいよ。あのトシちゃんが相手だと、いつまでも隠れてたって仕方がないわよ〜』

 あからさまに挑発している。
 絵里子との距離がどんどん開く中、彼女の挑戦的な台詞に同意したのか、数人の幽霊がわらわらとやってくる。

『それもそうだの』
『追いかけっこの方が楽しいかもー』
『俊之君、早く捕まえてくれよ』

 四人の幽霊が、俊之を見ながら笑っている。
 なめている。あの態度は、完璧になめている。

「うわああっ!」

 俊之はがむしゃらに走り出した。幽霊のあの速度に勝てるとは思わないが、何事もやってみないことには分かるまい。
 余裕ぶっているのか、俊之が到達するまで呑気に待っていた四人。俊之が輪の中に突撃した途端、彼らはちりぢりになって逃げ出した。俊之はいたって本気であった。本気で、彼らの中の一人を捕まえるつもりであった。が、幽霊たちはそんなつもりはなかったらしい。

『わあ、俊之が怒った〜』
『こわーい』

 明らかに馬鹿にした口調で、逃げ惑うばかり。しかも、その身はすばしっこく、なかなか捕まえることが出来ない。

『またな、俊之君』
『ははは、そんなスピードじゃあ、我々は捕まえられまい』

 彼らは高らかに笑いながら、廊下をどんどん駆け抜け、あまつさえその突き当たりの階段まで飛び降りていく。その姿が見えなくなるのは、思った以上に早かった。

「くっそ……」

 俊之がようやく階段にたどり着いた頃には、もう誰もいなかった。思わず苦い顔になりながら、彼はゆっくり階段を降りていった。どうやったらあの素早い幽霊たちを捕まえることが出来るのか。自分が鬼のまま、隠れ鬼が終了するなんてこと、絶対にあってはならない。きっと馬鹿にされるに決まっている。最低一回は、誰かにバトンタッチしなければ。

 そう決意しながら階段を降りる俊之であるが、その途中、話し声が耳に入った。足を止めてよくよくきいてみれば、それは、実里と弘樹の声だった。

 こっそり階段の下を覗き込んでみる。彼らは、すぐ下にいた。地下へ続く階段の最後――袋小路のような場所で、互いに向き合って立っていた。弘樹は、大量のシーツが入れてある大きいカートのようなものにもたれかかるようにして、実里は、その向かい側の壁に寄りかかって立っていた。コソコソしていたとはいえ、図らずも実里からよく見える場所から頭を出したせいで、俊之は彼女とバッチリ目が合ってしまった。

 しまった、と彼は思うものの、実里は、そのままニコニコ弘樹との会話を続けていた。頭に疑問符を浮かべながら、俊之は彼女を見つめる。――と、弘樹との会話が途切れたのを見計らって、実里は今度は俊之に向かって悪戯っぽくウインクし、弘樹がいる皿に奥のシーツの山を目で示して見せた。彼女の意図がようやく読めて、俊之はゴクリと生唾を飲み込んだ。

 ……確かに、飛べない高さではない。数メートルもない高さだ。
 俊之はチラリと階段の下を見やった。

 どんなに素早い動きで階段を降りたとしても、弘樹の前に姿を現したが最後、またすばしっこい動きで逃げられるだろう。それならば、賭けてみる価値はある。

 思い立ったが吉日。
 俊之はすぐに行動した。息を止めて階段から身を乗り出すと、シーツの山に向かって飛び降りた。二秒と立たずに、無事着陸し、それとともに、湿っぽい埃が宙に舞った。

『な、なんだ……?』
 突然の出来事に、弘樹は驚いているようだった。言葉少なに、シーツの山を呆然と見つめる。実里は賢いので、微笑みながら後ずさりをしている。

「捕まえたー!」

 そして弾丸のごとく、シーツから飛び出す。幽体なので、手応えはないものの、確かにその手は弘樹の身体をすり抜けた。

『と、俊坊!? やられたな……。まさか俊坊に捕まるなんて』
「俊之君、やるときにはやるもんね!」

 今となってはすっかり遠く離れた場所で、実里は大きく声を上げた。

「当たり前! 俺が鬼のままで終わるなんて、絶対嫌だったからね!」

 そして俊之もまた、実里を見習って素早く階段を駆け上っていた。

『俊坊、待ってろよ。すぐに捕まえてやる!』

 復讐に燃える弘樹から逃げ出すためだ。
 鬼になった人は、五分間その場で待機しなければならない。その五分が勝敗を分けるのだろう。
 俊之は息を切らしながら階段を上る。自分に体力がないことは重々承知している。ならば、逃げやすく、それでいてしばらく身を隠すことの出来る場所を探さなければ!

 俊之は珍しくワクワクしていた。隠れ鬼など、低学年の時友達と何回もやって飽きていたはずなのに。高学年となった今、時代はサッカーやゲームであって、放課後はサッカー、休日はゲームというサイクルが日常化している。今となっては、鬼ごっこなんて子供がやるものだと思っていた。

 でも、それがこんなに楽しいなんて。
 廃墟という非日常的な場所が舞台ということが起因しているのだろうか。それとも、年齢関係なくたくさんの幽霊たちが、あまりにも楽しそうに隠れ鬼をやってくれるから、それに影響されてだろうか。

 先ほどの二階の廊下にたどり着いたところで、俊之は慌ててその場で立ち止まった。目の前に、突然女性が現れたからだ。

『俊之君、ちょっと話があるんだけど、いいかしら?』
「あ……」

 短く息をしながらも、俊之は気がつけば咄嗟に頷いていた。今にも消えてなくなってしまいそうに姿が揺らいでいる、久美子と目が合ったのだ。

『ごめんね。遊んでいる最中だっていうのは分かってるんだけど、どうしても今のうちに頼みたいことがあって』
「あの、じゃあこっちの方に……」

 俊之は、先ほど探索していたときに見つけた、小さな部屋に久美子を案内した。小部屋といっても、部屋の両極端にそれぞれ扉が設けられているので、逃げようと思えば反対側の扉から逃げられる。窓も設置されているので、開放感もあった。

 ――どんなときであっても警戒は怠らない。
 それが、小学生男児の行う『本気の隠れ鬼』である。

 俊之は椅子に腰を下ろしたが、久美子は立ったまま、顔をうつむけていた。

『俊之君も、分かっているとは思うんだけれど』
 重々しく紡がれたその声は、驚くほど人間味あふれていて、目の前の彼女が幽霊だとは到底思えないほどだった。

『あの子、臭いでしょう?』
 だが、その口から出てきた言葉は、思いも寄らないもので。

「……は?」

 沈痛な表情で何を言うかと思えば。
 俊之はなんとも言いがたく、その場で固まった。母親を前に、どう答えれば正解だというのか。

「あの」
『いえ、いいのよ、何も言わなくて。分かってるから。だってあの子、ここに泊まった翌朝は、お風呂にも入らずにそのまま学校に行くんだもの。そりゃ臭うわよ……。おまけに、ここは虫も多いし、埃っぽいし、そのくせ二日続けて同じ服を着ていったりするし。……全く、誰に似たのかしら』

 実里の母による愚痴は流れるように続く。

『あの子、学校が終わったらすぐにこっちに来て。いつも楽しそうに話をしてるけど、あの子の口から学校についての話が出たことなんかないわ。今までは友達の話とか、授業の話とかいろいろ話してくれたのに。今はそんなこと全くない』

 だが、愚痴はいつの間にか落ち着き、そこにいたのは、ただのはかなげな女性ただ一人だった。

『学校が終わったらすぐにこっちに来て。家には滅多に帰らずに、お菓子ばっかり食べて。実里、日に日にやつれていくのよ。側で見ていると辛いの。どうすることも出来ないのが一番辛い』

 久美子の手が俊之の肩に置かれる。その手は透けていて、俊之の肩をすり抜けた。

『あの子に直接言うのは酷だから、俊之君に頼みたいの』
 すがるような瞳で、久美子はまっすぐ俊之を見つめた。触れられないはずなのに、彼女の手から、温度を感じた気がした。

『あの子の父親――裕一郎さんに、このこと伝えてもらえないかしら。もちろん、あの人は幽霊なんて信じないでしょうから、私のことは伏せて。実里が、家で独りぼっちは辛いからって、毎日ここへ来てること。ご飯だって、碌なもの食べずにいること』

 小さく間を開けて、久美子は続ける。

『……あの人の仕事が忙しいってことは分かってるわ。私のせいで、随分お金も使わせてしまったから。でも、それでも実里の側にいてほしいの。あの子はこんな所に来ちゃだめ。もっと……ふさわしい場所で……』

 嗚咽にかき消されるように、久美子の言葉は聞こえなくなっていった。
 俊之には、どうすることもできなかった。ただただ、彼女の側でオロオロしているしかない。

『お願い』
 しばらくして落ち着いたのか、先ほどよりは気丈な様子を見せ、久美子は顔を上げた。

『私は、あの子に普通の人生を歩ませてあげたいのよ。こんなところで時間を潰しては駄目なの。周りからも、きっと浮いてしまう。もしかしたらいじめられるかも』

 ハッとして俊之は息をのんだ。今だって、いじめこそないものの、それに似たような状況だ。……いや、それは周りがそう思うからこそであって、当人からすれば、ひどく辛い状況だろう。周囲が判断する『いじめじゃない』こそ、当てにならないものはない。

『お願い俊之君。裕一郎さんに、実里のこと伝えてくれる?』
「おばさん……。わ、分かった。俺、伝えるから……。おじさんに言ってみるから」

 覚悟なんてさらさらない。裕一郎に全てを伝えることで、実里にはきっと恨まれるだろう。だが、そうだとしても、目の前で押しつぶされそうになっている実里の母を、放っておくことなどできなかった。

「大丈夫、ですか……?」
『ええ、ありがとう』

 しばらくして、俊之はようやくそう声をかけることができた。久美子があまりにも暗い瞳で沈んでいるので、なかなか勇気が出なかったのだ。

『ごめんね、遊んでいる最中だったのに。もう私は大丈夫だから、行ってきて』
「え、で、でも……」
『本当に大丈夫』

 何度も頷くので、俊之もそれ以上強く言うことが出来なかった。そもそも、ここに残ったとして、彼に出来ることはそう多くない。何か適切な言葉を言えればいいのだが、まだ十あまりしか生きていない俊之では、人生経験などたかが知れていた。

 俊之が小部屋を出ようとしたところで、窓から一陣の風が吹いた。すっかり冷たくなった風だ。まだ晩夏だというのに。山の気候が影響しているせいか。
 窓から見える外は、もうすっかり夜のとばりが降りていて、半月がこうこうと光っていた。

「もうこんな時間か……」
『そうよ。俊之君も早く帰らないと。親御さんが心配してるわ。……できれば、実里も一緒に連れて帰ってほしいんだけど』
「実里を説得する自信はないんですけど……」
『ああ、いえ。実里と一緒に山を下りてくれるだけでいいのよ。説得はこっちでするから』
「はあ」

 久美子の言葉に、俊之は一気に嫌なことを思い出した。浮かない表情で、窓に近寄る。

「またこの山道を降りるのかあ。……お母さん、迎えに来てくれないかな」

 正直なところ、俊之は、行きの登山と隠れ鬼で、体力を使い果たしていた。廃墟探索の際、いつ幽霊に脅かされるかという精神的な消耗もある。

 俊之は窓枠に寄りかかり、思わず思いため息をついた。
 あの山道から、お母さんが車で迎えに来てくれれば。
 ……そんなこと、あるわけないのに。

『あら、何かしら、この音。……車の音?』
 久美子は俊之の隣から身を乗り出した。そんなことをせずとも、彼女はゆうに壁をすり抜けることが出来るのだが、それでもそうしないわけは、生前での癖が染みついている成果。

「あ、車だ!」

 ようやく俊之の耳にも聞こえた。車が山道を走り抜ける音が。
 俊之は目をキラキラさせて身を起こした。

「お母さん、迎えに来てくれたのかな」
『ここへ来ること、お母さんに言ってきたの?』
「いえ、誰にも言わずに来ましたけど……」

 エンジンの音はどんどん近づいてくる。二人が固唾をのんで見守っていると、やがて木の合間から車が姿を現した。月明かりに浮かぶその車は、闇に溶け込む漆黒の色だ。

「お母さんのじゃない」
『…………』

 その車から降りてきたのは、二人組の男だった。一人はガタイのいい男で、タバコを口にくわえている。そしてもう一人は、ひげ面の細身の男だ。

「ここに何の用だろう」

 俊之はきょとんとしてそう呟いた。久美子は、それに応えないまま、険しい表情で彼らを見つめていた。