02:賑やかな幽霊


 恐怖のあまり、俊之は実里にしがみついて、目と耳を塞いでいた。願わくば、早く人ならざるものがどこかへ行ってくれないかと思いながら。
 そんな彼の肩に、ポンと置かれる手があった。

「俊之君、一体どうしたの? なんでここに?」
「ゆ、幽霊が……」
「幽霊?」

 実里はきょとんと首を傾げた。戸惑ったような彼女の声に、俊之もまた震えが止まる。
 やはり、先ほどはただの聞き間違いだったのだろうか。この廃墟の雰囲気にのまれて、幻聴を聞いただけなのか。

『俊之君、大丈夫? 突然走り出して。やっぱり私にびっくりしちゃったのかしら』
「ああ、お母さん」

 実里は、なんてことない口調でそう言った。

「俊之君は会うの久しぶりだったよね。私のお母さん」
「おか、あさん……」

 その響きは、至って穏やかである。怖くもなんともない。俊之にだって母親はいるのだから、それも当然だ。口うるさいと思うことは多々あれど、それでも時々優しく褒めてくれるのだから。だが、おかしい。実里の母親――久美子は、半年前に亡くなったのではなかったか。
 頭の奥で警鐘が鳴っていたが、それでも俊之は頭を上げないわけにはいられなかった。いつまでもこうしてはいられない。対面するなら、早いほうがいいのだ。

『こんにちは、俊之君。会うのは随分久しぶりよねえ』
「……そう、ですね」

 目を細めて笑う久美子の顔は、生前よく見たそれと同じものだ。柔らかで、温かい。だが、そんな彼女は、うっすらと透けていた。紛れもなく、『人ならざるもの』の証であった。

「…………」
「どうしたの、気分悪い?」
『あ、あら? 俊之君、大丈夫!?』

 実里とその母親、二人が慌てて声をかける中、俊之はそっとその意識を手放した。


*****


 一体どれだけの時間気を失っていたのかは分からない。ただ、俊之が気がついたときには、もうそこに実里の姿はなかった。代わりに、うっすらと姿が透けている実里の母――久美子が、心配そうに俊之のことを覗き込んでいた。

『大丈夫? 気分悪くない?』
「あ……はい」
『ごめんなさいね、突然後ろから声をかけちゃって。驚いたでしょう』
「あ……はあ。でも、始めは確かに驚きましたけど、今はもうそれほど」

 俊之は若干目をそらしながら言った。完全に嘘である。しかし、この話の流れ的に、誰が「今も怖いです」などと言えようか。

『なら良かった」

 久美子は安心したような表情を浮かべ、長い息を吐き出した。俊之は、実里の母親と――しかも幽霊である――と二人っきりであるというこの特殊な状況に戸惑い、黙り込んだ。先に口火を切ったのは久美子だった。

『ねえ、少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな?』
「は、はあ……」

 断る理由もなく、ただただ俊之は頷く。

『俊之君、今日はどうしてここに来たの? また……実里と仲良くしてくれてるの?』
「あ……えっと」
『ごめんね、急にこんな質問。でも、どうしても気になっちゃって。……実里、学校でもちゃんとうまくやれてる?』
「…………」

 どう答えるべきか迷ってしまって、俊之は言葉に窮した。それだけで久美子は全てを察したのか、苦々しい顔つきで目を閉じた。

『そう、よね。なんとなく分かってたの。あの子、学校が終わったらすぐにこっちに来て。いつも楽しそうに話をしてるけど、あの子の口から学校についての話が出たことなんかないわ。今までは友達の話とか、授業の話とかいろいろ話してくれたのに』
「あ、の……」

 ここは久美子を傷つけないよう――母を悲しませたくないだろう実里の思いをくみ取って、たとえ嘘でも、何かフォローした方がいいのだろうか。俊之はそうは思うものの、適切な言葉がその口から出てくることはない。ただぐるぐると思考が空回りするばかりである。

「その、実里は――」
「俊之君、目を覚ましたんだ。良かった」

 俊之の小さな声を遮って、実里の明るい声が響く。彼女は手にレジ袋を提げていた。先ほどコンビニで購入したものだ。

「体調は大丈夫? 喉渇いてない? いろいろあるんだけど」

 言いながら、実里はレジ袋からアップルジュースとポテトチップスを取り出し、俊之に差し出した。俊之は有り難くそれらを頂戴する。

『全く、実里ったらまたそんなもの買ってきて。ちゃんとご飯を食べなさい』

 母親らしく、久美子は腰に手を当てて実里を厳しい目で見る。実里は実里で、年相応にふくれっ面をしてみせた。

「だって、コンビニのお弁当おいしくないんだもん。私の嫌いなものばっかりあるし」
『でも、お菓子ばかり食べてちゃ栄養がつかないでしょう。お父さんに頼んで、作り置きできるものを冷凍しておいてもらいなさい』
「ええ……」

 パリパリ。
 母娘の会話を聞きながら、俊之はできるだけ静かに――ポテトチップスを食べていた。俊之とて、母娘の真面目な会話の中、咀嚼する音を響かせたくはない。だが、何しろお腹が空いたのだ。小学五年生という食べ盛りの時分、夕食まで何も食べずにいるというのはまさに苦行そのもの――。

『お前ほんっとポテチ好きだよな。いい加減飽きねえの?』
「――っ!」

 またしても、耳元で声が響く。

「ううっ、ごほっ……」

 驚きのあまり、俊之はポテトチップスを喉に詰まらせてしまった。何度も咳を繰り返す。

「大丈夫?」

 そんな彼の背中をさするのは実里だ。

「はい、これ飲んで」
「あ、ありが……」

 甲斐甲斐しく、実里はペットボトルの蓋を開けて俊之に渡した。俊之は礼もそこそこに、ごくごくと遠慮なくアップルジュースを飲んだ。

『悪い悪い。びっくりさせたか?』
「え……あ」

 再び声がした。紛れもなく男性のものだ。
 俊之はペットボトルの蓋を閉じようとした体勢のまま固まった。隣に気配を感じる。しかし、『どんなもの』がいるかも分からないこの状況で、おいそれとそちらを見るわけに行かなかった。
 助けを求める視線に気がついたのか、実里は呆れたような顔で俊之の隣を見上げた。

「いきなり声をかけたら俊之君もびっくりするじゃない。……俊之君、覚えてる? 昔よく病院で遊んでもらった弘樹こうきさん」
「弘樹、さん……?」

 そんな人、いただろうか。
 俊之は疑り顔で記憶をたどる。弘樹、弘樹さん……。

『なんだ、俺のこと覚えてないのか? 俊坊、よく久美子さんの病室間違えてこっちに来てたじゃないか』
「ああ……!」

 途端に合点がいき、俊之は笑顔で隣を見た。

『久しぶりだな、俊坊』

 そう、こんな風に、俊坊、俊坊と可愛がってくれたのだ。子供のように無邪気な瞳、笑ったときに出来るえくぼまであの頃のままだ。だが、その身体は久美子と同じく、少し透けている。俊之はそのことにハッとして口を閉じると、恐る恐る彼を見上げた。

「あの……いつ……」

 死んでしまったのか。
 しかし開けっぴろげにそう聞くことは躊躇われて、俊之の声は尻すぼみに消えていった。が、弘樹の方は、そう聞かれることは想定していたのか、吹っ切れたような顔で笑って見せた。

『俊坊、いつからかめっきり来なくなった時期があっただろ? その数ヶ月後くらいかなあ。急に体調が悪くなってな。ああ、まあもともと余命はわかりきってたから、心の準備はある程度してたんだけど。余命よりも短く死ぬこともなく、長く生きることもなく死んじまった』
「…………」
『俊坊にお別れが言えなかったのは心残りだったかなあ。せめて挨拶くらいしたかったのに、実里に聞いても最近話してない、ってだけ返ってくるし』

 俊之はあまりの不甲斐なさに、悲壮感を漂わせながらがっくりと肩を落とした。聞けば聞くほど、情けない。クラスメイトにからかわれたくないがために、弘樹とのお別れもできず、母と死に別れた実里まで放ってしまったのか。

『そ、そんな顔すんなって。別に責めてるわけじゃねえし。ただ寂しかったんだぜーっ、なんで急に会いに来なくなったんだよーってだけ言いたかっただけであって……』

 俊之が落ち込んだのが自分のせいだとでも思ったのか、弘樹は慌てたように俊之の肩を叩いた。もちろん身体は透けているので、その手はすり抜けるばかりだが。

「俊之君、気にしないでいいよ。弘樹さんはただ拗ねてるだけだし。あんなに可愛がってたのに、俺のこと忘れやがってーって」
『ああ? そんなこと一言も――』
「そう言ってるようなもんじゃない」
『言ってない!』

 子供のように怒る弘樹。兄貴風を吹かせていた先ほどの彼とは別人のようだ。

「まあまあ、落ち着いてよ弘樹さん」

 どっちが年上か分かったものじゃない。
 実里は落ち着いた動作で周りを見渡した。

「みんなも集まってきたことだし、隠れ鬼しようよ。久しぶりに俊之君とも遊びたいでしょう?」
『まあ……それもそうだけど』

 弘樹はそっぽを向きながら小さく呟く。俊之も、その場の雰囲気で同意しかけて――固まった。みんな?
『待ってましたー』
『やろうやろう』
「――!?」

 どうして今まで気がつかなかったのか。
 焦って俊之が辺りを見渡したときには、もうすでに囲まれていた。大量の幽霊たちに。

「…………」

 俊之は、あまりの衝撃に再び意識を失いそうになった。そんな彼を支えるのは、この場において最も頼りになり、最も人間である実里だ。

「だ、大丈夫!?」
『あらあ、もしかしてこの子、あのトシちゃん?』

 突然目の前にふっと青白い顔が浮かんだので、俊之は仰天して実里の腕から転げ落ちた。冷たい廊下に頬が触れる。

『相変わらず肝っ玉の小さい子ねえ。ビクビクしちゃって、可愛い〜』
『おい絵里子、あんまりいじめてくれるなよ。可哀想じゃないか』
『だってー。反応が面白くってつい』
『そういって、あなたはいつもこの子を驚かしてましたよね? 子供は感受性が強いから、あんまり驚かしたら駄目だっていつも言っていたでしょう』
『まあ、いじりがいがあるって言う意味では、俺も賛成だけど』
『あ、やっぱり〜』

 わらわら幽霊が集まってきている。俊之はいよいよ終わりだと思った。驚かしたらいけないというのなら、せめてこの状況をなんとかしてほしいと思った。顔見知りの一人二人の幽霊ならまだ我慢は出来るが、ゆうに十人は超えているであろう幽霊たちに囲まれては、心臓が持たない。
 しかし、さすがのチキン野郎でも、慣れというものがある。確かによく知りもしない幽霊たちが十人近く集まっているこの状況は、なかなかに恐怖を感じるものだが、しかし、今のところ、彼らに害があるようには到底見えない。どうやら、幽霊にもいいものと悪いものがあるようで……。
 俊之は、短い時間ではあるものの、そのことをうっすらと理解し始めていた。

『いつだったか……あのときは傑作だったわ。売店で嬉しそうにポテチやらジュースやら買ってるから、エレベーターでちょっと驚かしたの。そしたらこの子、半泣きで尻餅ついちゃって……。結局ポテチもジュースも落っことしたまま走って行っちゃったのよー』
「…………」

 前言撤回だ。
 やっぱり、この幽霊たちは悪者だ。幼気な――お菓子を買ってご機嫌なだけの少年を驚かすなど。
 そういえば、この病院にあまりいい思い出がないのも、彼らのせいかもしれない。幼すぎたのもあるだろうが、何度もお見舞いに通ったのだから、普通はいくらかの記憶は残っていそうだ。にもかかわらず、俊之は弘樹の記憶すら薄れ駆けていた。――理由なんて明白。自分にだけ聞こえる変な声や、嫌な気配。そんなことが見舞いに行くたびに起これば、成長するにつれその記憶を消したくなったというのも頷ける。

「頭が痛くなってくる……」

 そう俊之が呟くのも、仕方がなかった。
 だが、そんな彼の心境など知るよしもなく、実里は元気よく手を挙げた。

「思い出話もいいけど、はやく隠れ鬼やろうよ! 最初は私が鬼ね!」
『はいはーい』
『実里が鬼か……。気を引き締めないとな』
『外に出るのはなしだっけ〜?』
『なしに決まってるじゃない』

 口々に幽霊たちが話し出す。声だけを聞いていれば、幽霊だなんて想像もつかない。
 しかし、みな楽しそうに移動をし出す中、一人浮かない顔をしているのは久美子だった。

『実里。もう暗いのよ。早く家に帰りなさい。何かあったら危ないでしょう』
「大丈夫だって。今日もここに泊まるから」
『実里! ちゃんと家に帰りなさい! 今日という今日は許しませんから!』

 珍しく、久美子は声を荒げた。俊之はビクッと肩を揺らしたが、実里は微動だにしない。ギュッと唇を噛みしめた後、何も言わないまま走り去ってしまった。

『実里!』

 再度久美子は厳しい声を投げかけるが、実里が振り返ることはなかった。彼女は深いため息をつく。

『弘樹さん』
『はいっ!?』

 突然矛先が自分に向いた弘樹は、さっと背筋を伸ばした。

『弘樹さんからも、何か言ってもらえませんか。情けないことですけど、私一人じゃ……』
『そ、そうですね……』

 曖昧に言葉を濁しながら、弘樹は頬をかいた。

『俺も分かってはいるんですけどね。寂しいけど、このままじゃいけないってことは。……後で、俺からも実里には言ってみます』

 寂しそうに笑うと、弘樹はスッと隣を見下ろした。その視線の先には、もちろん俊之が。

『でもまあ、とりあえず今は隠れ鬼をするか、俊坊もな!』
「お、俺も……?」
『もちろん!』
『弘樹さん……!』
『分かってます、分かってます! 実里にはちゃんと言っておきますから!』

 ニコニコ笑いながら追い詰めてくる弘樹にせき立てられ、俊之はジリジリとエントランスを後にした。いつまでもこちらを見つめている久美子の不安そうな瞳が、やけに記憶に残った。