01:憑かれた幼馴染み


 実里みのりは、クラス中からまるで腫れ物を触るかのように扱われているらしい。
 彼女の幼馴染みである俊之としゆきは、そのことを自身の友人から聞き及んだ。
 休み時間に実里に話しかける者はおらず、帰りに一緒に遊ぼうと声をかける者もいないらしい、と。
 しかし、そんな接し方になるのも仕方がなかった。なにせ、彼女は半年前に母親を亡くしたばかりなのだから。たった一人の家族である父親も、出張ばかりの毎日で、家にはいつも彼女一人だという。たかだか十年あまり生きただけの自分たちが、目に見えて落ち込んでいる彼女をどうフォローできるというのだろうか。
 だが、実里が遠巻きにされている理由はそれだけではなかったらしい。大半が、彼女の外見や行動によるものだろうとは、俊之の友達の了見である。

 実里は最近、ほこりっぽい臭いをさせることが多いらしいのだ。服や身体に土や葉っぱをつけていることもあり、きちんとお風呂に入っているのかと、彼女の清潔感に対し、嫌悪感を抱く者も多い。そして何より、彼女はこの頃、好んでよく廃墟に行っているという噂までたっていた。

 廃墟とは、山奥にひっそりと佇む、ほんの数ヶ月前まで病院だった場所のことだ。実里の母親は、かつてそこに入院しており、実里は学校が終わると急いでそちらに見舞いに行っていた。
 だが、半年前、母親の病状が悪化し、彼女は他界。そう時をおかずに、すでに寂れていたその病院は、経営難で潰れ、廃墟と化した。それからは、その場所は、幽霊が出るとか呪われるとかで、誰も訪れる者はいない――はずだったのだが。
 クラスで一人浮いている実里が、そこを訪れているという。そして、彼女は日に日にやつれていったと。ただでさえ不気味な廃墟に行っているということで、実里に話しかける者は少なくなっている上、彼女の人相はどんどん気味悪くなっていくばかり。そんな彼女のことが噂になり、俊之の友達にも伝わり、そして俊之の耳にも入ったというわけだ。

 一連の実里に纏わる事情に、幼馴染みたる俊之は見過ごすことなどできなかった。

 そもそも、彼には罪悪感というものがあった。小学五年生という身分は、丁度男子と女子が意識し、対立し始める微妙なお年頃。そんな中、異性での幼馴染みは、なかなかに目立ち、そしてからかわれた。それまで家族ぐるみで遊ぶ仲だった実里と俊之は、悪目立ちしたくないがために、そのまま疎遠になっていった。きっと、五年生になってクラスが分かれたというのも大きな要因の一つなのだろうが、今となってはそれもただの言い訳にしかならない。

 実里が母親を亡くし、一番辛かった時期を、一人で過ごさせてしまった。

 実里に関する噂を耳にしたとき、俊之はこっそり実里のクラスの様子を窺った。特に何をしようなどということは考えていなかった。ただ、ひと目遠くから彼女の姿を確認できればと思ってのことだった。だが、俊之は驚愕した。かつての実里の面影は、ほとんどなかったのである。頬はこけ、瞳はうつろに揺らぎ、目の下には、くっきりとクマができていた。全体的にひどく痩せたようで、服から覗く手足は棒のように細い。

 俊之は確信した。

 呪われている。実里は、確実に幽霊に呪われているのだ、廃墟になんか行ったせいで。
 もしかして、取り憑かれているのかもしれない。幽霊に取り憑かれて、生気を吸い取られているのかもしれない。

 俺が助けないと。

 両親からも言われていたのだ、学校で何かあったら、実里を助けるようにと。
 俊之は一つ決心すると、慌てて自分の教室に戻った。ランドセルを背負い、教室を飛び出す。後ろから、サッカーをやろうとの呑気な友人の声が聞こえたが、返事をするまもなく、俊之は走り去った。


*****


 実里の姿は正面玄関で見つかった。慌てて陰に身を潜めると、そっと彼女の様子を窺う。
 ――実里は、その様相に反して、どことなく嬉しそうに見えた。洗濯もしていないのか、薄汚れた洋服に、あちこち土のついた靴。髪も伸び放題で、見ていて胸が痛んだ。だが、どうしてその瞳には未だ光を宿しているのか。
 靴を履き替えた実里は、そのまま元気よく外へ走って行った。ハッとして俊之も慌てて靴を履き替える。ああ見えて、実里は足が速いのだ。同時に、こう見えて俊之は足が遅い。モタモタしていると、おいて行かれてしまう。

 もうすでに少々息を切らしながら、俊之は実里の後を追った。
 しかし、思いのほか早く彼女の姿は見つかった。下校途中にあるコンビニへ入っていったのである。
 登下校中の寄り道や買い食いは禁止されているというのに、一体彼女は何用があってコンビニなんかに寄ったのか。
 コンビニの一角に備え付けられているゴミ箱に身を寄せながら、俊之は中を覗き込んだ。高い陳列台によって、実里がどこにいるのか、何を買っているのかまでは分からない。実里を探す途中、雑誌を立ち読みしていた青年と目が合い、俊之は少々気まずい思いをした。が、成人向けの雑誌を立ち読みしていた青年の方が、よっぽど恥ずかしい思いをしただろうことは、今の俊之には知るよしもなかった。

 しばらくして、実里がレジ付近に姿を現した。何やら飲み物とお菓子を買っているようだった。

 そういえば、そろそろおやつ時か……。

 実里がたくさんお菓子を買い込んでいるのを見て、俊之はゴクリと喉を鳴らした。しかし、ここは我慢である。俊之もこう見えて追跡者の身。そして小学五年生。堂々とコンビニに入って実里に見つかるのも、買い食いをして先生に怒られるのも避けたいお年頃である。
 レジ袋を下げ、実里がコンビニから出てきた。俊之は若干後ろ髪引かれる思いで、コンビニを去った。
 俊之は、ある程度実里との距離を開けながら、彼女の後を追った。そして十字路にさしかかると、実里は迷うことなく右に行った。家に帰るには、十字路をまっすぐ行かなければならない。右は――山へと続いている道だ。廃病院のある場所へと。
 俊之はわずかに躊躇ったが、やがて迷いを振り切るように、走って実里の後を追った。ここで引き返すわけにはいかない。もうあんな所へ行くなと、実里を説得しに今日はここまで来たのだから。

 廃病院までの道のりは、思った以上に厳しかった。もともと俊之も、実里と疎遠になるまでは、よく母親に連れられてお見舞いに行っていた。しかし、そのときはもっぱら車で直行するばかりで、歩いて山道を登ったことなど一度もない。
 そうこうする間にも、実里と俊之との距離は広がっていく。一方は運動神経もよく、もう何度も通い慣れた道で、もう一方は運動神経も悪く歩き慣れない道。差が開くのも当然だった。
 やがて、実里の姿は完全に見えなくなった。
 高くそびえ立つ木々のせいで、日の光も届かない湿った山道。今が何時かも分からない。本当に一人、この場に取り残されたかのようにすら思える。
 そもそも、わざわざ廃墟までついて行く必要があったのだろうか?
 いつしか、俊之の足はその場で止まった。
 休み時間にでも話を聞いたり、家に帰った後で、実里の自宅を訪ねたり、他にもいろいろやりようがあったはずだ。同級生の前で話しかけたらからかわれるとか、疎遠になっていた実里の家を今更訪ねるなんてとか、思うところは多々あるが、それでもこんな山奥にまで来るほどのことではないはずだ。
 そうだ、こんな苦労、する必要はない。
 俊之は言い訳のようにそう言い聞かせると、静かに身を翻した。後ろ髪引かれる思いではあるが、また明日、実里に話しかければいいだけのこと――。
 そう考えた矢先、うっすらと辺りに響き渡る笑い声。俊之は咄嗟に背筋を伸ばした。――実里の笑い声だ。もしかして、廃病院はもう近いのだろうか。

「…………」

 ごくりと喉を鳴らすと、俊之は誘われるかのように、一歩一歩廃病院への道のりを進んだ。
 なぜ笑っているのか。誰と笑っているのか。
 俊之には分からないことだらけではあるが、それでも前へ進むしかなかった。ここまでして彼が廃病院へ行こうとするのは、幼馴染みのことを思うあまりか、それとも、お化け屋敷にすら入れないチキン野郎と以前友人にからかわれた故か。
 どちらかは分からないが、とにかく、俊之が実里の笑い声に勇気をもらえたのは確かだった。こんな山奥にいるのは、何も自分一人ではないのだ、と。
 暗い坂道を登り切ると、一気に視界が開けた。夕闇に染まった空、眼前にひっそりと佇む廃墟と化した病院。
 数ヶ月は放置されていただろうに、廃病院は、思ったよりも廃れてはいなかった。あちこちに散らばる木の葉や、盛大に割られているエントランスの窓ガラスを除けば、至って普通の病院にも見える。そこがまた不気味なのだが。

 俊之は恐る恐る廃病院へと近づいた。やけに静かなそこからは、人の気配は全くしない。実里はどこにいるのだろうか。
 誰かが肝試しをしようとして侵入しようとしたのか、しっかりと閉じられていただろう正面玄関の窓ガラスは、大きく割られている。その主は、よほど豪快な性格だったらしく、大人一人分はゆうに通れそうなほど、その穴は大きかった。が、同時に鈍く光るガラスの切っ先。
 俊之は同年代の少年と比べても小柄な方なので、容易にこのガラス扉は超えられるだろう。しかし、万が一、躓いて倒れ込んだら? 鋭く尖ったガラスに心臓を一突きされて死んでしまうかもしれない。そんなの嫌すぎる。
 どこか他から入れる場所は、と俊之が辺りを見渡すと、遠くから近づいてくる足音が耳に入ってきた。俊之が身構えるまもなく、その足音の主はガラス扉の向こう――長い廊下の奥から姿を現した。

「実里……?」

 かすれた俊之の声は、空気に溶けて消えた。実里の耳には届かなかったようで、彼女が気づいた様子はない。だが、俊之はもう一度声をかけることはしなかった。目の前の異様な光景に、言葉が出なかったのだ。

「そうなの? じゃあ今度は私が鬼になろうかな。みんなも集めて、盛大にやろうよ!」

 実里は、至極楽しそうに『隣の人』と話していた。が、俊之の目には、彼女が見上げる主の姿は映っていないし、もちろんその声も聞こえない。
 実里は、誰もいない宙に向かって、一人話しかけていた。
 やっぱり実里は呪われている――いや、取り憑かれているのだ、完全に。
 俊之は恐怖を押し殺し、恐る恐る彼女に近づこうと一歩足を踏み出した。彼女をここから連れ出すのだ、一刻も早く。そうしなければ、手遅れに――。

『何してるの……?』

 そのとき、俊之の耳に囁く声があった。実里ではない。彼女はガラス扉のずっと向こうで、今も楽しそうに話しているのだから。では、一体誰が?
 俊之は後ろを振り返ることができなかった。気配を感じた。鳥肌が立っているのに、かすかに生暖かい空気を感じる後ろからは、人ならざる気配を感じる。

「ひいいいいっ……!」

 俊之は無意識のうちに駆け出していた。おそらく、奥に引っ込んでいたわずかな理性が、後ろの不気味な幽霊よりも、前にいる実里の方が――宙に向かってひとりでに話し込んでいるが――マシだと判断したのだろう。
 ガラス扉を飛び越え、恐怖にもつれる足を必死に動かした結果、俊之は勢い余って実里に激突した。衝撃で二人とも地面に転がる。俊之としては、彼女の腕を掴んで、颯爽とここから逃げ出す算段だったのだが、悲しいかな、人間は、混乱しているときにそんなにうまくは動けない。

「えっ、どうしたの?」

 戸惑う実里の声が聞こえるが、俊之はぶるぶる震えるばかりで、口を開くことができない。

「俊之君……?」

 折角チキン野郎が幼馴染みを助けに来たというのに、そんな彼の心境など知るよしもなく、実里は、小憎たらしいほどに純粋な目で俊之を見下ろしていた。