02:ねごと
「今日だけは許して、本当に」
まだ残暑の残るこの時期、二人の男女が肩を並べて座っていた。先ほどまで寝ていたのか、女性の瞳はまだとろんとしており、男性はというと髪が軽くぴょんと跳ねていた。少し前まで仲良く昼寝という名の居眠りをしていた彼らが、なぜこの事態に陥ってしまったかと言うと、男性の開けっ広げな発言による。
「ミリアム、さっき寝言で俺の名前呼んでたよ! すごく可愛かった!」
――当然、生真面目なミリアムはその発言を看過することができず、彼女の体質によってその記憶を消去すると宣言するに至ったのである。そうしてこの状況。ディアンはどうしても先ほどの寝言の記憶が無くなるのが嫌で、ミリアムに必死に頼み込んでいた。彼の表情はいつになく真剣だったが、しかしミリアムも諦めるわけにはいかない。
「でも今日頂かないと、本当に我慢できないんです。数週間ぶりなんです」
……と、口ではもっともらしいことを言っているが、単純にいえば、寝ている間自分が口走ってしまったらしい時の記憶をさっさと消去したいだけだ。――ミリアムも、彼とどっこいどっこいの理由だった。
「それでも……それでも今日だけは嫌だ」
ディアンの肩が震えた。と思ったら、瞬時に彼の顔が上げられる。
「だって初めてミリアムが寝言で俺の名前を呼んでくれたんだ! 甘えるような声でディアン……って!」
「…………」
内心、ミリアムは面白くなかった。何だか、寝ている間のミリアムは可愛くて、でも現実の彼女は可愛くないと言っているように聞こえてしまって。
ミリアムも近ごろ少し悩んでいたことだった。恋人の関係にまで発展できたディアンとの関係に、自分の性格に。
彼女の性格上、人前で甘えるなんてことはもってのほかだ。しかしかといって、二人きりになったところで羞恥心の方が勝り、甘えることなどできない。だからこそ、自分は可愛くない女だと独りでに悩んでいた。そのことを、今ここでディアンにも言及されたようで、面白くなかった。
「……可愛くなくて悪かったですね」
つい、その心中が漏れた。
「私……愛想もないし、どうせ可愛くないし!」
ふいっと顔を逸らす。思わず自分の心中をさらけ出してしまったことが、この上なく恥ずかしかった。自分だけ、余裕がないようで。
「可愛いよ」
彼は不思議そうな顔で言う。
悔しい。
恥ずかしがる様子もなく、ミリアムが喜ぶ言葉を言ってくれる所も悔しかった。
「愛想がないって、それはミリアムを悪く捉えたからそんな風になるんだよ。でも俺はミリアムをそんな風に思わない。素っ気ない所もすぐに照れるところもみんな可愛い。俺は自然のままのミリアムが好きなんだ」
彼女の胸の中で燻っていた悩みが一気に解消される。嬉しいと同時に、本当に悔しかった。
「無理して愛想を良くしようとしてるミリアムなんてミリアムじゃないよ。」
こくり、と頷く。本当に、彼の言葉は真っ直ぐ胸に届く。しかし、次の言葉で固まった。
「もちろん、自分の意志で甘えてくれるのも大歓迎だけどね!」
やけにディアンは嬉しそうだ。
「まあ俺は無理に甘えることを強要したりはしない。やっぱり自然なままのミリアムが好きだからね。でもさ、さっきの記憶だけは……見逃してほしいな。永久保存したいから」
「……分かりました」
「本当!? ありがとう!!」
ミリアムはにっこりと笑う。それはそれは清々しく。そして心中で決心する。真っ先に消してやる!と。
それに、彼に言い様に転がされているようで随分と面白くなかった。ミリアムがディアンのことで悩んでいるのに、彼はたった二言三言でそれを解消してくれる。その真っ直ぐな言葉が、嬉しいとともに悔しい気持ちをミリアムに思い起こさせた。
そうして、ふっと思い至った。
彼に、この涼しい笑みを浮かべている彼に、一矢報いる方法。
「じゃあ、記憶食べるのならキスを――」
ディアンが嬉しそうに言う。キスをしよう、と。
そう、あのただ恥ずかしいだけの慣行は未だ続いていた。ミリアムが記憶をもらう時に、それと分かるようにキスをするという訳の分からない慣行。一度ミリアムは怒りを爆発させたことがあったが、ディアンに言葉巧みに言いくるめられ、結局廃止にすることができなかったあの慣行。
いつもなら記憶を食べたいというミリアムに、ディアンがキスをする形だった。しかし今日は違う。
ミリアムは隣に座るディアンにすっと近づいた。一方のディアンは戸惑う。彼女が何も言わずにただ自分を見つめてくるから。
彼は何か言おうと口を開くが、ミリアムはその瞬間を逃さない。羞恥と共に、思いっきり彼の唇に自分のそれを押し付けた。触れるだけの、優しいキス。短い時間だったが、きちんと記憶は回収した。ミリアムは事を終わらせるとすぐに身を引いた。心なしか彼との距離も開ける。それほど恥ずかしかった。
「……今日は二つも可愛らしい記憶が増えた」
ディアンがぽつりと呟く。ミリアムは怪訝な顔でそれを見上げた。
「ミリアムの寝言と、ミリアムが自分からしてくれたキス」
「……え?」
「俺は幸せ者だなあ」
彼の顔は、それはもう恍惚とした表情だった。
な、何で消えてないの!?
ミリアムは戦慄する。
確かにたくさん食べたはずだ。それはミリアムのこの満足感が証明してくれる。
ここのところ記憶を溜めておける胃袋のようなものを拡張させる要領も抑え、その分一度にたくさんの量をお腹に収めることができるようになっていた。だからこそ、つい先ほどの記憶ぐらいなら吸収できる。そう思っていたのに――。
「も、もう一回やらせてください! 今度は必ず消去しますから!」
「え? もう一回キスがしたいだって? 大胆だなあミリアムは。まあ俺は大歓迎だけどね」
怒るミリアムを、ディアンはのらりくらりと躱す。
「なっ、誰がそんなこと言いましたか!」
「でも記憶食べたいって、そういうことだよね?」
「う……」
「まあ何度やっても、この記憶は消えない自信があるんだけどね」
ディアンは笑顔で言ってのける。
怖い怖い、怖すぎる!!
つくづく目の前の青年の体の仕組みが恐ろしかった。
もはや諦めるしかないのだろうか。
目の前のこの青年に、ミリアムの常識は通用しないようだ。