04:告白 −2−
午後はあまり人も来ないので、お爺さんが交代を申し出てくれた。午前の男性の手紙のこともあるので、ミリアムは早めに店を出た。男性と会う前に記憶の食事をしようかとも思ったが、やはり憂鬱なことは早めに終わらせたい。
ミリアムは暗い面持ちで羊皮紙に書かれた場所へと向かった。
人様にこうして呼び出されるのは初めてで、しかも何を言われるのか分からないこの状況は、ミリアムの胃をきりきりと緊張させた。加えて、あの男性の軟派な雰囲気。自分とは決して分かり合えないだろう彼が、なぜ自分に目を付けたのかがさっぱりだった。そもそも、ミリアムは書店に来る高齢な客や、記憶の食事の際に関わる女性としか話したことがない。若い男性となんてもっての外だ。にもかかわらず業務時間外にそのような機会が設けられたことが、酷く彼女を憂鬱にさせた。
約束の場所は、裏通りの公園だった。時間が時間なだけにあたりは暗く、しかも日も差さないような場所なので一層その場所は暗く感じられた。まかり間違っても、若い男女が待ち合わせするような場所ではない。何だか嫌な予感がした。
「やあミリアム」
突然後ろから声がした。ビクッと彼女は振り返る。
「来てくれてありがとう」
「……いえ。でも何のご用でしょうか」
「あ、もう本題に入っちゃう?」
「……はい」
「あのさ、俺と付き合わない? 以前店の前で見かけた時から気になってたんだ」
生真面目なミリアムとは違い、軟派な雰囲気を醸し出す彼。つくづく性格は合わなそうだと思った。ミリアムは神妙な面持ちで頭を下げた。
「すみません」
何より自分は普通じゃない。普通の女の子が暮らすような生活は、自分には送れるわけがないと思っていた。
「私、あまりそういうことは考えたことがないんです。だからお付き合いはできません」
「ミリアム……」
男は茫然としたように立ち尽くした。僅かながらその様に申し訳なさが込み上げてきた。
「俺……断られるって思ってなかったから、ちょっとショックだな……」
「……ごめんなさい」
「なんで俺じゃ駄目なの?」
「別に……あなたが駄目という訳では」
ミリアムは顔を上げた。思ったより近かった距離に、思わず一歩下がった。それに乗じて、目の前の男も一歩詰め寄る。
「そういうことに興味ないの?」
「……考えたことがなかったので」
「なら今から考えればいいじゃないか」
男は一気に距離を詰めると、ミリアムの腕を掴んだ。振り払おうと力を入れるが、男の腕力には適わない。
今更だが、ミリアムは後悔し始めていた。特に何も考えもせずにのこのことこの場に現れたこともそうだが、やんわりと断ろうと思っていたこともだ。ミリアムは直接的に物を言うのが苦手だったので、今回も同じように婉曲的に解決しようと思っていた。しかし目の前の彼の様な人には、やはりビシッと言った方が良かったのかもしれない。もう遅いが。
「離してください!」
「いいじゃんか。これから一緒に勉強していこう?」
何をだ!と突っ込みたいが、更に調子づかせてしまうだけのような気がする。
もう、やるしかないか。
同情はしない。ただ、記憶が無くなるだけだから。
ミリアムは抵抗するのを止め、彼の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「――何だよ。やる気になったのか?」
彼はニヤニヤとした笑みを浮かべる。しかしそれも一瞬のこと。すぐに男はミリアムによって記憶を消去された。
「あ……あれ、俺、どうして……」
男はボーっとしながら、ふらふらと後ずさった。ミリアムはその隙に腕を振り払う。そして一歩下がった。
男は彼女のそんな様子を不思議そうに眺めていた。しかしすぐに我を取り戻すと、瞳に好色な気配を浮かべて近寄ってきた。
「あれ、君可愛いね」
――もう呆れてものも言えない。記憶を失ったばかりだというのに、目の前の女子を口説くとは。
「ねえ、もし良かったら俺と付き合わ――」
「失礼しますね」
ミリアムはにっこり笑うとすぐに身を翻した。先ほどの二の舞にはなりたくない。
それと共に、二度とこのような暗がりには行かないことを誓った。自分に関する記憶を消せるという点において、今回はミリアムの方が一枚上手だったが、今後何が起こるとも分からない。危険な状況には自ら飛び込まないのが一番だ。
そう思いながらも、ミリアムはどこか虚しい気持ちを抱えて家路についた。
*****
ミリアムは昨日のことなどすっかり忘れたかのように、翌日もきっちり同じ時間に起き、出勤した。
昨日は、多少なりとも動転したが、家に帰ったらすっかり普段と同じような心境に戻り、つい先ほど起こった出来事などさっぱり忘れた。普段通り洗濯や掃除、夕食作りなどをこなし、空いた時間に新書リストの整理をする。至っていつも通りだった。
そうして今朝方、やっと気づいた。そういえば、昨日は記憶の食事をしていなかったな、と。
多少動転していたとはいえ、朝夕のそれは日課だ。一番身近にいるジョセフの記憶を無意識のうちに食べないよう、毎日欠かさず行っていた。それを忘れるなど、あってはならないことだった。
しかし、そうは言っても不思議だった。近ごろは食欲も増え、朝夕の食事だけでは物足りないような思いを抱えていたのだが、夕方の食事を抜かして今もなお、ミリアムはそれほど空腹感を感じないのである。確かに、昨日はあの迫ってきた男の記憶を頂いた。が、たったの一人分。普通に考えれば、一生分の食事には到底足りない。
にも拘わらず、どうして昨日は夕方分の食事をしなくて済んだのだろう。唯一あの男の記憶が普通と違う点と言えば、それはその中身。
昨日の男の記憶は決して美味しいわけではなかった。しかし重量感があり、そして甘く感じられたように思う。やはり、それは少なからずあの男に、ミリアムに対する情があったからに違いない。記憶は、ミリアムと関われば関わるほど、そして愛情があればあるほど、それだけ満足感が得られるのだから。
朝から物憂げに思考に浸っていたせいで、すでに大分疲れてきたように思う。どうせなら朝の食事も抜いてしまえと早めに店にやって来た。
そうしてミリアムが店を開けるとともに、すぐに一人のお客が入って来た。
「ミリアム、おはよう!」
意気揚々と挨拶をするのはグリンダだ。やけに元気なのが気になる。
「――おはようございます」
「で、どうだったの!?」
「……何がですか」
直球で聞いてきたグリンダの質問を、ミリアムは素知らぬ顔で躱した。恋愛小説が好きな彼女のことだ、どうせ今日一日やたらと食いついてくるに違いない。
しかし彼女は、ミリアムの素っ気ない態度に屈するような女性ではなかった。
「もう、焦れったいわね。昨日の告白よ!」
バンッと机を叩いた。ミリアムはそれを迷惑そうに眺めながらも渋々口を開く。
「お断りしました」
「え、本当に!? 勿体ないわねー。なかなか恰好よかったのに」
「もうたぶんここにも来ないと思いますけど」
何しろ、あの男にはもう記憶がない。ミリアムに関する記憶がないのなら、ミリアムに関連するこの書店の記憶もないだろう。
「――何言ったのよ、あの人に。どうせショックで立ち直れないくらい酷いこと言ったんじゃないの?」
「失礼な」
酷いことをしてきたのはむしろ向こうの方だ。ミリアムだったから良かったものの、他の女性なら心に傷を負っていたような事態になったかもしれない。
ミリアムがやけに淡々としているので、グリンダの疑いの目は晴れなかった。終いにはため息をつかれる。
「ああ〜可哀想に。きっとすごく勇気を出したんじゃないかな〜」
彼のどこがそのような奥手に見えたのだろうか。昨日声をかけてきたあの様子から察するに、彼は相当の手練れだ。少なくとも、勇気を出して告白するような人間は、その後すぐに迫ってきたりはしないだろう。
「ああ〜、折角の良い機会だったのにね〜」
いい加減うんざりしてきた。いつまでも大人しく話を聞いているミリアムではない。キッと顔を上げる。
「グリンダさんに何を言われようとも、私は誰とも付き合う気はありませんから」
「――そうなの?」
グリンダでもミリアムの声でもない。二人はバッと後ろを振り向いた。きょとんとした表情の青年と目が合った。
「――おはようございます」
「お……おはようございます」
爽やかに挨拶をしてくるので、ミリアムもおずおずと返す。よくよく見てみれば、彼は昼前に書店にやって来る常連客だった。時々本を買っていくので、今回もそうだったのかもしれない。
ミリアムはすぐにカウンターの前に陣取っているグリンダを追いやった。彼女は不服そうな声を上げながらも渋々身をよけた。
「お会計でしょうか?」
「あ、いやいや、違うんだ。ふと二人の会話が耳に入ってね、ちょっと気になって」
照れたような顔で彼は頬を掻いた。ミリアムは不思議そうに見上げる。
「本当に、誰とも付き合う気ないんですか?」
「……はあ、無いですね」
「え、もしかしてあなた、ミリアムのこと好きなんですか?」
ずいずいっとグリンダが顔を出す。余計話が拗れそうなので、再びそれを追いやる。
「――はい、好きです」
そんな二人を物ともせず、青年は真っ直ぐにミリアムを射抜いた。
「ずっと前から、あなたのことを見てました」
真剣な瞳で見つめられ、思わずミリアムは頬を赤くした。昨日のあの軟派風な男の台詞は特にどうも思わなかった。しかし、目の前の青年から伝わる誠実さは、飾りっ気のないその言葉は、ミリアムの胸をついた。
「あの……でも、その」
もともと異性に免疫のないミリアムは当然対処に困った。あわあわと視線を泳がせるが、ニヤニヤと二人を見守るグリンダと目が合うだけに終わった。
「その、お気持ちは有り難いんですけど……」
意を決した。
「付き合うのは無理です。ごめんなさい!」
「――勿体ないのう」
「……え?」
青年の声ではない。ミリアムが顔を上げると、彼の後ろからひょこっと顔を出すお爺さんと目が合った。
「ミリアム、この人を振るのか?」
「え……っと、はい」
ズーンと青年が落ち込んだ様子を見せる。ミリアムは慌てて首を振る。
「あああの、あなたが悪いとかじゃなくって、その、そんな風には考えられないというか……!」
「あ〜、可哀想〜」
「もう少しゆっくり考えてあげてもいいんじゃないかと思うがの」
なぜか当の本人たちではなく、周りの人間達がやいやいと口を出してきた。見れば青年も困惑している。
「あの、お爺さんが来たので私はもう行きますからね」
ミリアムはバッと立ち上がった。
三対一のこの状況は不利に思えた。ミリアムは誰とも付き合うつもりはない。しかしかといって、グリンダもお爺さんもいるこの状況では、昨日の様にこの青年の記憶を奪うわけにもいかない。とにかく、今は尻尾を巻いて逃げることにした。
「今日は私、昼から出勤するので午前中はお願いしますね!」
「ミリアム!」
後ろで誰かが呼ぶ声が聞こえるが、構いはしない。人の気も知らないで、口を出してほしくなかった。