04:告白 −1−
それから、ミリアムの新しい生活が始まった。老人はジョセフと名乗った。
彼は、こぢんまりとした書店を営んでいた。若い頃は王城に勤めていたそうだが、定年により退職。その後、余生を妻と共に穏やかに暮らすため、念願だった小さな書店を開いたそうだ。だが、数年も経たずに妻は急逝。お爺さんは大層落ち込んだ。
しかしそんな失意の中にいた彼の前に現れたのがミリアムだった。彼は、子供もいなかったので、ミリアムを可愛がろうと決心したそうだ。お前のおかげで老い先短い余生が楽しくなったわいとよく言われたが、お礼を言いたいのは、むしろミリアムの方である。
どこの馬の骨とも分からないミリアムを引き取り養子にし、そして衣食住の世話をしてくれたのは紛れもなくお爺さんだ。今となっては感謝しきれない。未だ、ミリアムは自分の特異な性質のことをお爺さんに話せずにいたが、もう今のままの状態でもいいかもしれないとすら思っていた。今ここでミリアムの秘密を暴露し、もしもお爺さんに冷たい目で見られでもしたら、きっと立ち直ることができない。そう思わせるほど、ミリアムの中でお爺さんの存在は揺るぎないものへと変わりつつあった。
そんな中でミリアムは、彼の記憶だけは決して食べないように、仕事が始まる前と終わった後の朝と夕方、二回に分けて記憶の方の食事も行った。相変わらず街へ出て人々に話しかけ、そして最後には記憶を頂く。
そんな生活を繰り返すうち、いつしか七年の月日が流れていた。ミリアムは、齢十七になっていた。
一七と言ったら、まさに成長期で、ミリアムの体はぐんぐんと成長し、そしてそれに伴う様に食欲も増していった。それは、普通の胃袋も、記憶の胃袋の方も、である。成長期のせいで、ミリアムはいつもの食事では後者の方の食欲を抑えきれなくなっていた。朝と夕方の二回の食事だけでは、もう足りないのだ。回数的には十分だと思う。問題は、その中身。
記憶は、ミリアムに対して愛情が深く、そして思い出深ければ深いほどそれだけお腹も満たされる。しかし、知らない人に話しかけ、そこで少し仲良くなっただけの人の記憶をもらうといういつもの食事だけでは、全然お腹は満たされないのだ。
しかしいくら成長期とはいえ、終わりは来る。きっと食欲が有り余っているのも今のうちだけ。成長期が過ぎ去れば、おのずと元に戻っていく。
ミリアムはそう自身を落ち着かせ、ただ今の日々を穏やかに過ごしていた。
*****
ミリアムは朝の食事を終えると、まず書店内の掃除をし始める。お爺さんは朝が苦手なので、朝の当番は主にミリアムだ。ミリアムが早起きをし、朝食の用意、そして書店の店番をするのであえる。店番といっても、こぢんまりとしたこの書店を訪れてくるのは常連ばかりで、新規のお客は少ない。
ミリアムはいつも、この時間は店番をしながら片手間に本を読む。常連も、立ち読みをしたりお爺さんとの世間話を楽しんだりとのんびりしている人が多く、これでお店の経営は成り立つのかと不思議に思うくらいだった。しかしお爺さんの方はそれほど悲観的ではなく、若い頃に稼いだから大丈夫だとミリアムを諭すばかりだ。それでも彼女が納得しないので、彼はついに書店経営はただの娯楽だと白状した。儲け目当てで経営しているのではなく、ただ暇を持て余した老人たちの憩いの場になってくれれば、との考えらしい。
それを聞いたミリアムは、お客が来るまで直立不動で待っているのをすぐに止めた。お爺さんの真の意図を聞いた後では、何だか自分が生真面目に立っているのが馬鹿らしくなってきたのである。それもそのはず、書店に来るのは読書しに来たり世間話をしに来る人ばかりで、本を買おうという者はほとんどいない。よく考えればそんな状況で、ミリアムただ一人だけが生真面目に立っている方がおかしい。
始めは命の恩人に初めて頼まれた仕事だ、とミリアムはやる気になっていた。しかしお爺さんからそのことを聞いた後には、ミリアムも大人しく椅子に座るようになった。そしてそれはいつの間にか一時の休憩時間になり、お爺さんに勧められるがまま読書の時間へと変わった。
常連客も、ミリアムが椅子に座って読書をしていることを咎める者はいない。むしろ、この本が面白いから今度読んでみろだとか、世間話に付き合ってくれと話しかけてくる者ばかりである。
そうして今日も、いつもの日々の幕開けだった。
*****
書店を開店したからと言って、すぐにお客が来るわけではない。一時間ほど経ってようやく、ちらほらとお客が入ってくるのである。今日も新規の客はおらず、常連客ばかりだった。
「ミリアムちゃん、おはよう」
「おはよー」
「おはようございます」
親しげに挨拶を交わし合うその様は、店員とお客の図には見えない。彼らは各各好きな書棚のところへ行くと、ご丁寧に用意されている椅子に座って本を読み始めた。――つくづく店の用途をなしていない書店だと思う。
「ミリアムちゃん、ジョセフさんに用事があるんだけど、まだ来てないの?」
「あ、はい。きっとまだ寝てると思いますよ」
「ほーんと困ったお爺さんねえ。ミリアムちゃんが来てくれたから良かったものの、あの人ったら昼まで店を開かないことなんてザラだったもの」
「朝は起きるのしんどいですからね。起こしてきましょうか?」
「あ、いいのいいの。しばらくここで待たせてもらうことにするわ」
彼女は手をひらひらと振ると、他の人と同様、近くの椅子に座って本を読み始めた。ミリアムも、彼らの邪魔をしないよう、読みかけの本を手に取り、開く。ミリアムは、この穏やかな時間が好きだった。
本を買うお客もめったにいないので、周囲の音から断絶された本の世界に熱心に入り込んでいると、近くでわざとらしい咳ばらいが聞こえた。ハッとしてミリアムは顔を上げる。
「あ……すみません。お会計ですか?」
咳払いの主はお客だったようで、慌ててミリアムは本を片付けた。そのお客は数回見かけたくらいの若い男性だった。しかし一向に本を手渡されないので、困惑して見上げると、にっこりと笑う彼と目が合った。
「ね、君、名前なんて言うの?」
「――はい?」
ミリアムは目の前の男性の纏う軽薄な雰囲気に慣れていなかったので、思わずきょとんと聞き返した。
「名前だよ」
「あ……ミリアムです」
「じゃあミリアム、これ貰ってくれない?」
「――え?」
目の前に、唐突に白い羊皮紙が差し出された。一瞬遅れて顔を上げると、男性が笑顔でこちらを見つめていた。
「え……っと」
「良かったら来てくれると嬉しいな」
ミリアムがなかなか受け取ろうとしないので、男性は無理矢理彼女の手に握らせた。
「じゃあまた」
彼はひらひらと手を振ると、急ぎ足で店を出て行く。突然のことに、ミリアムが全く対処できずにいると、ニヤニヤとした笑みを浮かべる女性が近づいてきた。
「ミリアムー、やるわね」
常連客のグリンダだった。下級貴族と結婚した彼女は、暇な時間よくここへ来て時間を潰していた。読書したりミリアムにちょっかいをかけてきたりとその自由っぷりはその他の常連と変わらない。
「な、何がですか」
「彼のそれ、告白じゃないの、告白〜!」
グリンダがニヤニヤと脇を小突いてくる。ミリアムはしかめっ面でそれを阻止した。
「ちょ、止めてくださいよ」
「照れなさんな、照れなさんな〜。ほら、それなんて書いてあるのか見てみなよ」
「う……」
浮かない顔でミリアムは折りたたまれた羊皮紙を眺める。気は進まないが、見ないわけにもいかない。
羊皮紙を広げてみると、そこには乱雑な文字で時間と場所の指定、そして男の名前らしいものが書かれていた。
「ほほう、断るにも断れない状況を生み出したわけね」
「…………」
「そうよねえ、もしミリアムが行かなかったら、あの人は待ちぼうけを食らうわけだし?」
「――分かってますよ」
行かないわけには、いかないだろう。何より、ずっと待たせているのも気が引く。
「私としては直接言ってほしかったですね」
「直接言ったらすぐに断るだろうって思ったから、こんな手段に出たんじゃない?」
「…………」
「この際、ミリアムもそういうこと考えてみたらいいのに」
「――え?」
「付き合ってみたらってことよ」
「それは……ちょっと」
ミリアムは瞬時に顔を顰めた。今まで考えもしなかったことであるし、今後異性とどうこうなるつもりもない。このままお爺さんと二人でゆったりとした生活を送られればそれで良いと思っていた。
「どうしてそんなに頑ななのかなー。軽く考えて付き合ってみればいいのに」
「そんなことできません。それに告白と決まったわけじゃありませんし」
「いいじゃない、男の一人や二人、弄んでみなさいよ〜。良い女になったら玉の輿に乗れるかもよ?」
「興味ないので大丈夫です」
ミリアムはバッサリと切り捨てた。玉の輿どころか、今のミリアムには恋愛にすら興味は湧かなかった。というよりも、興味云々を差し引いても、自分に普通の恋愛ができるとは思っていなかった。普通ではない自分を受け入れてくれる人がいるとは思えなかった。