03:守護 −2− 


 次に目が覚めた時、老人はミリアムのベッドの脇で居眠りしていた。ミリアムはすぐに後悔の念に襲われた。

 この状況は、回避できたかもしれないのに。原因を突き止めたはずなのに、わたしはまた同じことを繰り返してしまった。しかし、もう遅い。

 感じる、自分の中の何かが、記憶を食べたいと。もっともっと食べたいと。食べ物の様には吐き出せないくせに、要求だけはしてくる。

 ミリアムは、老人に毛布を掛けると、そっと家を出た。そうして向かうは、人通りの多い場所。
 人の波に揉みくちゃにされながら、ミリアムは冷たい目で辺りを観察した。何もかも、もうどうにでもなれと言う思いだった。そうして、一人の老婆に目を付けた。彼女は、退屈そうに噴水に腰かけている。ミリアムは真っ直ぐに彼女に近寄った。

「今日は良い天気ですね」
「――え?」

 当然の様に、彼女は不思議そうな顔をする。しかしミリアムがそのまま黙っているので、口ごもりながら口を開いた。

「え、ええ、そうね。最近稀に見る暑さだものね」
「そのお洋服……良く似合ってます」
「あ……そう? この服ね、私の娘がお誕生日に買ってくれたものなのよ。それなりに高かったらしいけど、夫もすごく似合うって言ってくれてね」

 老婆は、褒められたことで気を許したのか、一気に饒舌になった。ミリアムはにっこりと笑う。

「はい、お似合いです。そのペンダントは?」
「ああ、これ? これはね、夫が結婚十周年の時に買って来てくれたものなの。ケーキと一緒にね」
「素敵ですね」
「ええ、もちろんよ。私の夫はね、普段は口下手でいろいろと不器用な所もたくさんあるんだけど、何よりやる時はやる男なのよ! 結婚の時だってね、身分の違いから私の両親から大反対されてたんだけど、三日三晩彼が説得してくれて、そうして念願叶って結婚式を挙げることができたのよ! その後ね、すぐに娘を身ごもって――」

 彼女の話は、途切れることなくしばらく続いた。その間、ミリアムはにっこりと相槌を打つだけだったが、それでも彼女は満足そうだった。

「ありがとうね、お嬢ちゃん。話を聞いてくれて」
 用事があると言うので、老婆の方から話を切ってきた。好都合だった。立ち上がり、彼女はミリアムの方を向く。

「今日は楽しかったわ。また良かったら話を聞いてくれないかしら?」
「はい、喜んで」

 ミリアムは頷いた。しかし、そんな時はもう二度と来ないだろう。

 深呼吸すると、老婆の瞳をじっと見つめる。何をすればよいのか、まだ分からない。しかし、きっとできる。そんな予感がした。
 数秒眺めていると、何やら胸が少しだけ暖かくなった気がした。決して重量があるわけではないが、それでも確かに胸に蓄積された。

 そうしてミリアムが記憶を体内に取り込むと同時に、老婆は一瞬虚ろな目をする。しかしすぐにハッとし、きょろきょろと辺りを見回した。

「……あ、あれ、私、どうしたのかしら?」
「大丈夫ですか? ボーっとしていましたけど」
「あらごめんなさいね。立ち眩みかしら」
「さっき用事があるとか独り言言ってましたけど、大丈夫ですか?」
「あ、忘れてたわ。ごめんなさいね、お嬢さん。失礼するわ、娘と食事をする約束をしていたの」

 にこにこと彼女はミリアムに手を振った。ミリアムも同じように手を振り返す。
 任務完了だった。


 その後も、ミリアムの些細な食事は続く。

「今何時でしょうか?」
「そのスカート似合ってますね」
「宿屋ってどこにありますか?」

 街を練り歩く様々な人々に声をかけ、多少仲良くなり、そうして記憶を頂く。

 親切にミリアムの相手をしてくれる者もいれば、反対に邪険に扱う者もいる。その種類は様々だったが、じっくりと話した者も、そうでない者も皆全員、最後には記憶を頂いた。

 その中で、気づいたことがあった。

 同じミリアムに関する記憶でも、ミリアムと深く接した者の記憶の方が、より満足感が得られるということだ。しかも、悪い思い出のものではなく、できるだけ友好的な関係を築けば築くほど、更に彼女のお腹は満足した。

 次第にミリアムは、この奇妙な記憶の胃袋の扱い方を心得てきたような気がした。その存在は、決して歓迎できるものではないが。

 幾人かの記憶を腹に収めてようやく、久しぶりの満足感を得たような気がした。

 しかし、記憶の方の胃袋が落ち着いたからといって、もう一つの胃袋の方もうそうなるわけではない。むしろ、こっちの本来の胃袋の方が生きるためには重要だ。何をするにしてもエネルギーは必要なのだから。

 ――また、やってしまおうか。
 ミリアムはそっと露店の方を眺めた。

 今なら、きっと騒ぎにすることなく、目的の物を手に入れることができる。今のミリアムならば、それができるだけの力があるのだから。

 しかし、今、どうしてもその行為は必要だろうか。今のミリアムのお腹には昨日老人からもらったスープが、多少その存在を主張している。そのおかげで、以前盗みを働いた時のように、死ぬほどお腹が減っているという訳ではない。今はまだ、我慢ができる。――でも、今はそうでも、明日はどうだろうか。今やらなくても、いずれは通る道じゃないのか。

 また、盗みを働くのか。両親に顔向けできないことをするのか。
 ――でも、もうわたしに親はいない。怒る人も褒める人も守ってくれる人もいない。ならば罪を犯したとして、何が怖いというのだろう。

 ミリアムはそろそろと店に近づいた。記憶を消せるとはいえ、やはりあまり目立ちたくなかった。並べ立てられた商品を、隅から順に値踏みをしていく。できるだけ、大きくて、しばらくお腹がもちそうなもの。
 狙いをつけると、ミリアムはそっと店主の死角に入る。
 どうってことない。盗んで、もしバレてしまったらすぐに記憶を食べればいいだけのこと。それなら、大きな騒ぎになることなく目的のものを得ることができる。

 どうってことない。

 しかし、ミリアムは手を伸ばすことができなかった。手を伸ばそうとするたび、かつての両親と過ごした楽しい思い出が甦り、邪魔をする。父は、母はこんなことを望みはしないと自分自身に枷が付けられる。ミリアムは、どうしようもなくなって、その場に立ち尽くした。

「――ミリアム!!」
 その時、どこかで誰かが呼ぶ声がした。

 彼女はハッとして振り返る。その名を呼ばれるのは、いつ振りだろうか。しかしその声は、ミリアムが期待していた――父のでも母のでもない、つい昨日会ったばかりの、老人のそれであった。

「お……じいさん……」
「探したんだぞ、全くどこをほっつき歩いてたんだ」

 ミリアムをしかと抱き締めたその体は小柄で、弱々しかった。待ち望んでいた両親ではないと分かっていても、涙が溢れた。もう一度、自分の名前を呼んでくれる人がいるということが、こんなに嬉しいことだなんて思いもよらなかった。

「わたしのこと……覚えて」
「何を言っておる。忘れるほどそんなに時間も経ってないだろう。それよりも、もしかしてわしがボケるほど年寄りに見えるのか?」
「い……いえ……」
「はっはっは、冗談だ」

 老人はひとしきり豪快に笑うと、急に真面目な顔になってミリアムを離した。その真っ直ぐな目が彼女を射抜いた。

「帰るところがないのか?」
「…………」

 ミリアムは黙った顔を俯かせる。その様子に何か察したのか、老人は再び彼女を抱き締めた。

「わしのところに来んか?」
「え……?」
「なに、わしは婆さんも死んでしまって、しがない一人暮らしだ。そこにミリアムが来てくれたら、寂しくなくなるんだがの」
 思いがけなく、そして嬉しい提案だった。しかし。
「……でも……その」

 ミリアムは純粋に喜ぶことはできない。何しろ、自分と共にいたら、無意識のうちにまた記憶を食べてしまうかもしれないのだから。昨日は運よくそんなことにはならなかったようだが、それでもいつ何時そのような事態が起こるか分からないのだ。いくらこの老人がミリアムの事情を知らないとはいえ、黙ったままそのような危険にさらし続けることには罪の意識があった。

 しかし老人は、そんな彼女の心中を一笑した。

「遠慮しなさんな。子供は甘えていればいいんだ」
「で、でも――」
「ミリアムは帰るところがない。わしは一人暮らしが寂しい。――立派な等価交換じゃないか。遠慮することはない。わしと一緒においで」

 老人は、皺だらけの手を差し出した。ミリアムはそっと戸の手を掴んだ。

 今だけは、何も考えていたくなかった。
 目の前の優しさに、甘えていたかった。