03:守護 −1−
温かい手が額に添えられた。
ミリアムは、その感触にふっと意識を浮上させる。垂れた優しそうな瞳と目が合った。
「あなたは……」
老人は穏やかな笑みを浮かべた。
「気が付いたんだね。昨日、君がうちの近くに倒れてたところを見つけたんだ」
「あ……」
ミリアムは慌てて頭を下げた。と言っても、横になった状態からではお礼も何もないが。
「お腹が空いただろう。これをお食べ」
老人はそんな彼女の様子に笑みをこぼし、そして器を差し出した。
「吐き過ぎでまだ喉が痛いと思ってな、簡単なスープにした」
「え……?」
「ほれ、お食べ」
木のスプーンを差し出され、ミリアムはそれを受け取った。一口一口、大切に啜る。久しぶりの、温かい料理だった。
「あの……ありがとうございました。その、いろいろとお世話になってしまって」
あのまま吐き疲れて眠ってしまったようで、ミリアムはあの後のことはあまり覚えていない。しかし、自分の惨状としては酷かったはずだ、あれだけ吐いたのだから。にもかかわらず、今の自分は清潔な服に着替えられていて、髪も綺麗に整えられていた。この老人が、おそらく世話をしてくれたのだろう。その温かさに、ミリアムは感謝した。
「いいんだよ。困ったときはお互い様だ」
その優しそうな声に、思わずミリアムは俯いた。何かを堪える様に。それを見て勘違いしたのか、老人は慌ててミリアムの顔を覗き込んだ。
「どうした、まだお腹空いたのかの?」
ミリアムは反射的に頷いた。
「なんとそうか。じゃあ少し待っておれ。またすぐに持ってきてやるわい」
老人は嬉しそうに笑い、部屋を出て行った。
そうじゃない、そうじゃないんです。
ミリアムは、その後ろ姿に、そう声をかけたかった。簡単なスープと言っても、その中には小さく刻まれた肉や野菜がたくさん入っており、お腹は体分膨れた。彼女の言うお腹減った、というのは老人が思っているような代物ではない。
記憶の、胃袋だ。
「ほれ、これなんかどうだ。パンだったら軽く食べれるだろう。好きなだけ食べなさい」
「あ……ありがとうございます」
ミリアムは、パンを小さく千切りながら老人のことを盗み見る。
優しそうな人、だと思う。あぶり魚の女性に続き、ミリアムに優しくしてくれた人。純粋に嬉しかった。両親に追い出された傷はまだ癒されていないのだが、それを他人に癒せるとは思っていなかった。でもミリアムに無償で与えてくれるその優しさが、今はものすごく嬉しかった。
でも、それは時間の問題かもしれない。
腹の底で感じるのだ、また自分は記憶を欲していると。また性懲りもなく人の記憶を奪おうとしている自分がいるのだ。
ミリアムはやりきれなさに歯噛みする。
そんな彼女を知ってか知らずか、老人は静かにその場を後にした。ミリアムがそのことに気付く間もなく、彼は再び部屋に入って来た。その手に何かを持って。
「あ……! わ、わたしの……」
それは、身一つで追い出されたミリアムにとって、唯一の大切なものだった。
お母様と、御揃いの寝間着。
震える手で、ミリアムは寝間着を手に取った。
わたしには、もうこれしか残っていないのだ。
ミリアムは顔をくしゃくしゃに歪めて、それを抱き締める。太陽の優しい匂いがした。これ一つで、いろんな思い出が甦ってくる。あの頃の、懐かしい記憶。もう、ミリアムしか覚えていないけれど。
「うっ……ううっ……!」
「何か、辛いことがあったようだの」
老人は、蹲るミリアムの頭に、そっと皺だらけの手を載せた。
「大丈夫、大丈夫だ。わしが傍におるからな」
食べたくない。この人の記憶だけは、食べたくない。
「お嬢ちゃんの名前を聞かせてくれんか?」
「……ミ、ミリアムです」
「そうか、ミリアムか。良い名だ」
その名を呼ばれるのは、いつぶりだろう。
「ではミリアム、今日はもう寝なさい」
自分の名前の響きが、こんなに耳に心地よいとは思わなかった。
「ミリアムが眠るまでわしはここにおるからの」
眠りたくない。今眠ったら、お父様と同じことになってしまうかもしれない。
そう思ったが、優しい老人の言葉に逆らうことができなかった。昔のように、父に甘えるかのように、誰かの側で眠りにつきたかった。自分が眠るまで、温かく見守ってくれる人が欲しかった。
ミリアムはそっと目を閉じる。
自分だけを見てくれる、そんな人が欲しかった。