02:発見 −2−
【注意】人によって少々気分が悪くなる表現があります。食前・食中・食後の方はお気を付けください。
ミリアムは街が目覚めるとともに目を覚ました。街の大通りのすぐ近くなので、騒がしいのは当然だ。
ふいっと首を回し、辺りを見回したが、犬はもういなかった。食糧探しに出かけたのかもしれない。置いてけぼりを食らったような気がして、少し落ち込んだ。
しかしいつまでもそこにいるわけにはいかない。ミリアムも、生きるためには何か食べなければいけない。昨日はあぶり魚を二口三口食しただけで終わったので、お腹はもうからっぽだ。そうはいってもしかし、温室でぬくぬくと育ったミリアムは、何をどうして食べ物を得ればよいのか分からなかった。今まで何をするでも言うでもなく、当たり前の様に食事が目の前に出されてきた身としては、当然のことだった。
とにかくミリアムは自分のお腹の空くままに歩き始めることにした。少なくとも、ここでじっとしていても食べ物が出てこないことは昨日の時点で実証済みだ。食べ物を得るために、とにかくどこかへ行かなければ。
そう決心して歩き始めたミリアムだったが、次第に茹だるような暑さに参ってきた。真夏と言ってもいいほどのその暑さに、次第に着ていた寝間着はぐっしょりと濡れる。いつもなら多少の汗も吸ってくれるのだが、量が多いのだから仕方がない。加えて袖や裾が長いので歩きづらかった。いっそのこと、ここで放り出してしまいたい。――しかし、そんなことはできなかった。身一つで追い出されたミリアムにとって、これが唯一の、父と、母との思い出の品だった。
何かを持ち去る時間など、なかった。まだ幼いミリアムには、宝物がたくさんあった。でもその中のたった数個でよかった。婆やからもらった栞や、父から贈られたドレス、母から譲り受けたネックレス、これだけでよかった。これだけ貰えたら、もう文句は言わない。でも、そんな時間など、なかった。もらえなかったのだ。
*****
しばらくして、太陽がやっと真上から降りてくれた。斜めから日が差すことで、多少の影もできた。ミリアムは陰に沿う様にして歩き続けた。しかし、ただ歩いているだけで食べ物が降ってくるわけもなく、ミリアムは次第に頭がボーッとしてきた。半日歩きっぱなしで、碌に水も取っていなかったのだから、当たり前だ。近くの小道を抜ければ共同井戸があるというのに、ミリアムはそれすらも知らなかった。
虚ろな頭で、ミリアムは周囲を見回した。いつの間にか、辺りは大通りから市場へと変わっていた。騒がしいそこには人が大勢いて、露店には様々なものが売っていた。小物や装飾品だけでなく、もちろん食べ物もたんまりだ。
その中で、露店にこれ見よがしに置いてある果物が目に入った。それは赤々と光っていて、非常に美味しそうに見えた。ミリアムは生唾を呑みこんだ。
まだ背の低いミリアムだったが、下から届かないわけではなかった。客と話しているらしい店の主人の目を盗み、赤い果物を手に取った。逃げることなど考えもせず、本能のままに齧りつく。シャリシャリと小気味の良い音が鳴り響く。
店の主人は、どこからか聞きなれた音の存在に気付いた。そうして不思議そうにゆっくりと首を回す中で、呑気に果物に齧り付く少女が目に留まった。瞬時に、その眉が吊り上がる。
「てめっ、何しやがんだうちの商品に!」
上からガシッと手が振ってくる。そのまま果実を持った右手を羽交い絞めにされた。
「餓鬼だからって容赦はしねえぞ!!」
「ごっ、ごめんなさ……!」
ミリアムは怯えて上を見上げた。
「お腹……空いて……」
「言い訳は無用だ! もう二度とこんな真似できねえように、役人につき出してやる!」
これが、物を盗むということなのか。
ミリアムは身をもって知った。
常識として知っていた。両親からも、欲しいものがあれば自分たちに言えと教えられていた。決して物は盗んではいけないと。
しかし、その両親が居なければ、わたしはどうすればよかったのだろうか。欲しいものがあっても、何か食べたくても、我慢しなければいけなかったのだろうか。たとえ、死ぬ間際になっても。
悔しさに、ミリアムは目の前の店主を睨み付けた。彼は悪くないのは分かっている。盗んだミリアムが怒られるのは当然だ。でも、でも悔しい。お腹が空いたのに、誰も分かってくれない。父も母も婆やも、いつも傍にいてくれたのに、今はいない。もう一生自分の名前を呼ぶことはない。わたしだけ、わたしだけがこんな目に遭ってる。その理不尽さに、涙が溢れた。
何で、何で駄目なの、お腹空いてるのに。
皆、お父様もお母様もいるんだから、少しくらいいいじゃない。
わたしには、もう何もない。
これくらい、いいじゃない。
お腹、空いたの――。
「泣いたって許さねえからな! 盗みは盗みだ! 大人しくしな――」
男はミリアムの腕を引っ張りながら大通りへと出た。しかし、その途中で、フッとその足が止まった。
「――ん? 俺は……一体どうしたんだ?」
呆けたような顔で、男は言い、力の抜けた彼の腕から、ミリアムの手はそっと引き抜くことができた。彼女はじりじりと後ずさった。
「は? 何言ってんだよ」
主人とミリアムの様子を先ほどから見ていた男が口を挟んだ。
「役人に連れてくってやたら意気込んでたじゃないか。気が変わったのか?」
「……役人……? どういうことだ?」
「ほれ、その子だよ。盗人の――あっ、子供が逃げようとしてるぞ! おい、追わなくていいのか!?」
「は? 盗人? あのガキが?」
そう言って、彼は不思議そうな顔でミリアムに視線を寄越す。しかしもう遅い。ミリアムは好機とばかりその場から逃げだしていた。全力で人だかりを縫う。あちこちから迷惑そうな声が聞こえてくるが、ミリアムには聞こえていなかった。
――人に怒鳴られたことなど、生まれて初めてだった。唾を飛ばし、顔を般若の様にして怒るその様は、今まででみた何よりも恐ろしかった。
息が苦しくなってきて、ミリアムは走るのをやめ、歩くことにした。周囲はミリアムのことなどお構いなしに騒がしい。その騒がしさが、今だけはありがたい。恐怖が過ぎ去ると、今度は疑問がやってきた。
婆やや両親、使用人はミリアムの記憶は失った。しかし、その症状は邸の中だけでなく、その外にまで影響するようだ。
何か、共通点があるのだろうか。
ばくばくとうるさい心臓を落ち着かせるために、ミリアムは一度立ち止まった。人の流れに流されないように、一旦大通りから外れた。同時に、再び思考を飛ばす。
彼らが忘れたのは、私自身だけ、と考えて間違いはない。なぜなら、婆やだって両親だって、私以外のことはちゃんと覚えていたのだ。私だけを忘れて、そうして最後には、私など最初からいなかったかのように生活を始めた。
では、どうして私だけが忘れ去られたのだろうか。
婆やや母は、次第に、時が流れるとともに少しずつ私を忘れて行ったような気がする。病が徐々に蝕んでいくような、そんな流れで。では父はどうだろう。父は……私と一緒にベッドで寝たその朝、記憶を失っていた。
――原因は、私なのだろうか。
昨日と今日を思い出してみる。やはり、私と一緒にいた時に、あぶり魚をくれた女性と果物の店主は記憶を失った。
――状況……その時の状況。
女性の時は、よく覚えていない。何しろ、魚に夢中だったから。では、店主の時は。彼の時に、何か変わったところはなかったか。
――あった、彼といた時に、私はなぜか、少しだけ満たされたような気分になったんだ。それは、ほんの少しの気づきだ。しかし、決して見落としてはいけない発見だった。
ミリアムは、幼い頃から、婆やの側にいることが好きだった。なぜなら、彼女の側にいると落ち着くから。とても、何かが満たされていくから。そんな時は、決まって彼女のミリアムに関する物覚えが悪くなった。
それは母にも言えることだった。婆やがいなくなり、以前にもましてミリアムは母にべったりだった。そのせいで、母は婆やよりも短い時間で、ミリアムのことを完全に忘れてしまった。
昔から、確かにミリアムは婆やや両親の側にいると何かが内側から温まっていくような、そんな奇妙な感じを味わうことが多かった。それは、純粋にミリアムが彼らに対して安心感や、幸福感を抱いているからだ、当然のことだと無意識のうちに思っていたが、それは実は全く違うのかもしれない。
もし、もしも。
私が、周囲の人々の私に関する記憶のようなものを、無意識的に体に取り込んでいるのだとしたら。
その記憶で、私自身が満たされるのだとしたら。
それは、私自身では制御することができないのだとしたら。
――もう、どうすることもできないじゃないか。
ついに到達した、しかしやりきれないその結論に、ミリアムは拳を握った。
婆やがミリアムを忘れた時も母が忘れた時も、果ては父までもがそうなっても、心のどこかで、彼らは何かの病気ではないかと思っていた。神様を恨んでいた。私だけをこんな目に遭わせたことを。皆から冷ややかな目で見られ、実の両親の手で追い出され、そうして炎天下の中空腹のままうろつく、こんな状況に遭わせたことを、恨んでいた。
しかし、それは第三者の手によるものではなかった。
――すべて、ミリアムが悪かったのだ。
私が、皆の記憶を食べていたんだ。
ミリアムはハッとなる。そして瞬時に身を翻すと、喧騒から離れ、さらに裏道を進んだ。できるだけ、人がいないところに。
ミリアムは辿り着くと、すぐに地面に膝をつき、お腹を必死に押し始めた。痛い。息ができない。それでも押す、押し続けた。それでも記憶は出てこない。食べてしまった記憶は出てこない。
ミリアムは口の中に手を突っ込んだ。喉の方にまで指を伸ばす。苦しかった。口の中が痛い。でもどんどん喉の方へと指を追いやる。
だんだん胃の中のものがせり上がってきた。
「おえっ……おえぇっ……!」
ミリアムはそれを地面に向かって吐き出す。このところ碌なものは食べていなかったが、それでも貴重な栄養分が、どんどん胃から逆流してくる。胃液も伴っているせいか、喉が痛い。焼けそうだ。しかしそれでもミリアムは手を休めない。
「出てきて、出てきてよぉ……!」
泣きながら、何度も何度もえづいた。
しかし、一度食べてしまったものは、もう元には戻らない。温かいかつてのミリアムの家族は、もう戻って来ないのだ。
「いや……いやあぁあ!!」
切ない、しかし誰にも癒すことのない悲嘆にくれた叫びが、辺りに木霊した。