02:発見 −1−
ミリアムは、重い足取りで街の方へと歩き始めた。別に、街へ行こうと思っていたわけではない。しかし、過去にした数少ない外出の中で、両親と共に馬車で街へ出かけていたことが薄らと思いだされたのだ。その微かな思い出だけを頼りに、ミリアムは舗装された固い道を必死で歩いた。
一人でこんなに遠出することなど、初めてのことだった。途中、この道で合ってるのか心配になった。足にマメができた。太陽の熱さにやられそうになった。
それでもミリアムは歩き続けた。そうでないと、自分の中の何かが壊れそうだった。じっとしていると、先ほどの両親の冷たい視線が思い起こされ、胸が苦しくなった。
街に辿り着くと、そこはすでに大勢の人で溢れかえっていた。売り子の勧誘の声や、喧嘩の罵倒、井戸端会議をする話し声などで、耳が痛い。
街の喧騒とは反対に、ミリアムの心は静まり返っていた。そのせいで街が余計に耳障りに感じられた。以前両親とここに訪れた時はこんな風に感じなかった。なのに、なぜ今はうるさく感じるのか。――そんなの、明白だ。両親と一緒に出掛けることが嬉しくて、以前は街の喧騒なんか気にならなかった。ただそれだけだ。
ミリアムは、どこを目指すわけでもなく、ただ歩き続けた。誰も、こんな昼間に寝間着姿でうろうろするミリアムのことなど気にも留めなかった。唯一声をかけたのは、彼女の容姿や身にまとっている絹の寝間着に目を止めた人買いくらい――。
「お嬢ちゃん、迷子かい?」
「え……?」
振り返ると、ニタニタと笑う無精ひげの男が立っていた。見知らぬその男に、知らず知らずのうちに彼女は恐怖を覚えた。
「おじさんが家に連れて行ってあげようか」
「い……いいです」
家など、もう今の自分にはないのだ。
今あの家に戻っても、また追い出されるだけ。
ミリアムはしょんぼりとし、踵を返して再び歩き出そうとした。しかし、男はそう簡単に諦めない。ミリアムの腕を強い力で捕まえた。
「やっ、離してください!」
「騒ぐんじゃねえよ! 俺が家に連れて行ってやるって言ってんだろ!」
「嫌だっ、離して!」
ミリアムは腕をぶんぶん振って抵抗するが彼は一向に離そうとしない。次第に、周囲の視線が集まってきた。しかし、誰もかれもが、か弱い女子に同情するが、自ら助けようとする者はいない。
そんな時、上から声が降ってきた。
「ちょっとあんた! その子嫌がってんだろ! あんたもしかして人買いか!?」
仰ぎ見ると、腰に手を当てた大柄な女性がしかめっ面で立っていた。彼女の手には、大ぶりな包丁が握られていた。思わず男は顔をひきつらせ、舌打ちして去って行った。次第に、遠巻きに見ていた者たちも興味を失ったように散り散りになって行った。
「あの……助けてくれてありがとうございました……」
ミリアムはおずおずと頭を下げる。
「別にいいよ。目の前で騒がれちゃ商売の邪魔だからね。それよりもあんた、その恰好、家出かい?」
「そ……そんな感じです」
何を言えばいいのか、しかし全てを話すわけにもいかず、ミリアムはおずおずと頷いた。
「ったく、最近の若い子は根性があるんだか、無いんだか……。とにかく、そんないかにも貴族ですって恰好でうろついてたらさっきみたいな輩の格好の餌食だよ? あんたみたいな温室で育った奴は家の中で大人しくしてるのがお似合いさ」
「……そう、ですね」
ミリアムはしょんぼりと頷いた。
帰れる家があるのなら、私だって、もうとっくの昔に帰っている。
寂しそうな彼女の様子に、さすがに言いすぎたと思ったのか、女性はばつの悪そうな顔になった。そして徐に手を伸ばすと、並べ立てられていた串を一本手に取り、ミリアムに差し出した。
「ほら、魚のあぶり焼きだよ。食べな」
「い……いいんですか?」
と言いながらも、お腹が空いていたミリアムの手は、すでにそれに伸びていた。女性はそれに苦笑しながらも、大きく頷く。
「ああ、さっきはちょっと言い過ぎたからね。そのお詫びだよ。
その代わり、それ食べたらさっさと家に帰んな!」
「ありがとうございます!」
笑顔でミリアムは魚に齧り付いた。魚は塩っ辛く、しかも所々焦げ過ぎで苦く感じたが、それでも久しぶりの食事はおいしかった。しかし、同時にどこか物足りなくも感じる。
始めは、いつもの様に食べているパンやケーキが恋しいのかと思っていた。食べられるものを貰えただけでも有り難いのに、更に何かを食べたいだなんて、自分はなんて恩知らずな子供だと思った。しかし、どうもそれだけではないのだ。食べ物ではない、何か。何かはわからないが、自分の体は食べ物だけではない何かを欲しているのである。そんなことを知らず知らずのうちに、ミリアムは感じ取った、その瞬間。
何かが、ミリアムの中に入り込んだような気がした。それは温かく、微かに甘かった。ミリアムの中の何かを満たしてくれるような何か。それが、彼女の中に入り込んだ。瞬時に、先ほど感じていた物足りなさが、少しだけ緩和されたような気がした。
そのことに安堵し、再び魚にかじりつこうとした時、その手が叩き落とされた。衝撃に、串にささった魚が落ちた。ミリアムは何が何だか分からず、上を見上げた。そこには、眉を吊り上げてこちらを睨んでいる、先ほどの女性がいた。ミリアムに魚をくれた人。
「あんた……何勝手に人の商品に手を出してんだい!」
「え……?」
「店先で見せつける様に食うだなんて良い度胸だね。喧嘩売ってるのかい?」
先ほどの、怒ったような言葉の裏に隠されている優しさなど、微塵もなかった。純粋な怒りしか感じられない。
「でも……でもさっき、私にくれるって……!」
「そんなこと言った覚えはないよ! しらばっくれるんじゃない、この盗人が!」
再び辺りが野次馬で騒がしくなる。女性は、周りに事情を聞かれ、魚を盗んだのだとミリアムを顎でしゃくった。
次第に敵が増える。皆こちらを睨んでいる。
ミリアムの周りには、敵しかいなくなった。
まただ。
ミリアムは心のどこかでそう思った。
また皆、わたしのことを忘れる。
ミリアムは泣きそうになるのを堪え、咄嗟に身を翻して走り去った。幾人か、ミリアムを追おうとしたようだが、女性に止められる声がした。
「もういいよ。お金持ちの貴族様を大勢で苛めたら、こっちが悪者になっちまう。どうせあの子もすぐ家に帰るんだろ。ぬくぬくと育った温室にね」
自分には、もう家はないのだ。
彼女の言葉が、胸に刺さる。
自分のための温室は、もうあそこには用意されていない。彼らにとって自分はいつの間にか、その辺に生えている雑草と同じ存在になっていたのだ。疎まれながら、除去されてしまう、そんな存在。
ミリアムは、苦しくなってくる胸を必死に駆り立てながら、ただただ目の前の道を進んでいった。
*****
騒ぎがあった後も、ミリアムは人の波に翻弄されるように歩き回った。あのような騒ぎがあったのだ、もうあそこには戻れまい。しかし幸いにして、この街は大きい。先の騒ぎとは反対側の場所に行きつくことができれば、その間にきっとミリアムのことも忘れてくれる。そう考えた。
しかし、そんな彼女にも限界があった。――彼女の体力である。朝からろくに食べ物も口にせず、しかも歩きっぱなしだった彼女の体力は限界にあった。こんなとこなら、さっきの落した魚を拾ってから逃げれば良かったと後悔したくらいである。
ミリアムは次第に疲労が足にたまり、レンガ造りの建物の後ろに回り込んだ。そこには人の影はなく、ただ暑さと喧騒から逃れるかのように犬が一匹横たわっているだけだった。犬はミリアムにチラッと視線をよこすだけで、すぐに興味を失ったようだ。
何だか仲間ができたような気分になり、ミリアムは犬の近くにより、腰を落ち着けた。撫でてみたいが、今まで野生の動物を触ったことがなく、少しばかり不安だったので眺めるだけにした。
しかしすぐにそれも飽きる。次は空を見上げてみた。夕焼けに染まった空。今まで、こんなに長いこと空を見上げたことがあっただろうか。今まで、こんなに長いこと歩き回ったことがあっただろうか。今まで、こんなに長いこと空腹を覚えたことがあっただろうか。
考えれば考えるほど、今までの自分の生活は裕福で、幸福に溢れていたものだったのだと思い知らされる。それとともに、今の自分の惨めさも。
何も考えたくなくなってきて、ミリアムはごつごつとした地面に体を横たえた。疲れ果てたミリアムは、固い地面に悩まされることもなく、すぐに眠りに落ちた。