01:生受 −2− 


「うわっ!!」

 ミリアムは、男の焦ったような声で目が覚めた。まだ日も昇っていないような朝早くであった。当然ミリアムはまだ眠い。

「うん……? お父様、どうしたの?」
 寝起きでまだ舌ったらずな声だった。普段なら可愛い可愛いと猫かわいがりするはずのその声も、今の男には聞こえていなかった。

「君は……誰だ?」
「え……」

 困惑するミリアムを他所に、男は声を張り上げた。

「おい! 誰か、誰かいないか?」
「何でしょうか、旦那様」

 執事がすばやく部屋に入って来た。いつもと変わらない彼の様子に、少しばかり男は安心した。何しろ、朝起きたら自分が子供用のベッドに身を横たえ、そしてその傍らには見もしない子供がいたのだから、その非日常性に動転するのも仕方がなかった。

「いつの間に入り込んだのか……見知らぬ子供がいるんだ。何か知らないか?」
「いえ……私は何も存じ上げませんが」
「そうか……。てっきり誰か使用人の子だと思ったのだが」

 男は、いかにも不思議そうにミリアムのことを見下ろした。その瞳に、昨日までの愛情はない。ミリアムは恐怖した。

「お、お父様まで……わたしのこと忘れたの……?」
「何? お父様?」
「お……お父様! わたしのこと忘れないって約束したのに! 嫌だよ……忘れないでよ!」
「な、何を言ってるんだ、さっきから……」

 この娘は、先ほどから自分のことをお父様お父様と呼んでいる。困惑するばかりだ。
 しかも、事態は全く好転しなかった。いつの間にか騒ぎを聞きつけたのか、寝間着にガウンを羽織った姿の男の妻が、入り口に立っていたのである。

「あなた! その娘はいったい誰なんです!」
「な……! ちがっ!」
「その娘……目があなたと同じ翡翠色ですし、しかもお父様って……! どういうことなんですか!?」

 女はいきり立ってベッドに近寄った。慌てて男は誤解を解こうとミリアムから離れた。

「知らんぞ! 俺はこんな子供は知らんぞ!」
「何をしらばっくれて……! その子供があなたの不義の証拠ではなくって!?」
「お母様、止めてください! 喧嘩しないで!」

 ミリアムは居ても立っても居られなくなって、二人の間に飛び込んだ。彼女の必死の言葉に、今度は男が目を吊り上げた。

「お前だって……その子、お前のことお母様って!! 髪だってお前とよく似た金髪じゃないか! 本当はお前の子じゃないのか!?」
「ちっ……違います! 私、子供を産んだ覚えなんてありませんわ! この子がただ訳の分からないことを言ってるだけで……!」
「旦那様も奥方様も落ち着いてください!」

 ついには、傍らでハラハラと見守っていた執事が割って入った。

「あなた方の身の潔白はこの私が保証します! 旦那様は今までお仕事でゆっくり寝ていられる日もありませんでしたし、奥方様に至ってはこの邸を出ることすらありませんでした! あなた方はどちらも不義は行っていません! 使用人一同、信頼と確信を持って断言できます!」

 執事は胸を張る。何しろ、結婚当初から子供はできないまでも、冷え切ることなく仲睦まじげにやってきた彼らである。それが、こんな子供の乱入でその絆を壊されるなどあってはならないと思っていた。長い間仕えてきた二人の仁徳と人柄が、よりにもよって不義を行うことなど考えられなかったのである。

 一同の目が、一斉にミリアムに向いた。その鋭い視線に、彼女はビクッと身を震わせる。

「なぜ邸に忍び込んだの? 食べ物が欲しかったの?」
 思わず夫のことを疑ってしまった女は眉をひそめた。

「誰に言われてきたんだ? どうせ金狙いの女に言われてきたんだろう?」
 妻を愛するがゆえに、酷い物言いをしてしまったことが悔まれ、男は自然とその顔が怖くなる。

「旦那様を脅迫しようとしていたのでは?」
 敬愛する二人の仲を引き裂こうなど言語道断だと、執事はミリアムににじり寄った。

「お……父様、お母様……」
「まだ言うの!? もういい加減にして頂戴!」
「もう追い出そう。俺たちの仲を滅茶苦茶にする子供なんだ、外へ放っておいても構いはしない」
「そうですね。いずれこの子の母親か父親も迎えに来るでしょう。本来ならば、捕まえて厳重注意と言うところですが――」
「もういい。面倒だ。さっさとこの問題は片付けよう」
「そうね、そうしましょう」

 三人は怖い顔でミリアムに近寄ってきた。身の危険を感じ、身を翻して走り出そうとしたところを、執事に捕らえられた。

「止めて、放して!」
 いつもなら考えられないほどの強い力だ。痛みでミリアムの腕が赤くなってくる。

「いた……止めてよっ!」

 使用人たちの好奇の視線の中、ミリアムは邸の外に放り出された。無常にも、その目の前で門が閉まる。

「お父様、お母様!!」
「お前は俺たちの娘じゃない!」
「そんな風に呼ばないでよ!」

 彼らの瞳に、怒りが見え隠れしていた。ミリアムが絶望の表情を浮かべるのを見届けると、二人して彼女に背を向けた。

 両親に忘れ去られた少女の耳に、悪戯な風が彼らの声を届ける。

「さっきは悪かったよ」
「いえ……私の方こそごめんなさい。なかなか子供ができないから、つい苛立ってしまったのね」
「いや……やはり俺が悪い。仕事が忙しいのを理由に、ほとんど家にすら帰れていなかったからな」
「あなた……」

 妻は頬を染め、夫を見上げた。

「どうだ、今度こそ俺たちの子供を作らないか。俺たちにそっくりの、愛らしい子供を。俺たちの子供なら、女でも男でも大歓迎だ」
「ええ、そうね。男の子だったら、あなたに似て勇敢で逞しい子に育つわ」
「女の子なら、お前に似て優しく、聡明な子になるのだろうな」

 幸せそうに寄り添う男女を、ミリアムは遠くからそっと眺めていた。
 彼らは、自分のことなど忘れて、新たな子供を欲している。わたしもお父様とお母様の子供なのに、どうして。

 まだ幼いミリアムの心に、暗い影が落とされた瞬間だった。