09:錯乱 −4−
ディアンは優しい表情から真剣なそれに変え、ミリアムに向き直った。
「今度は俺の話、聞いてくれる?」
「あ……はい」
ミリアムはじっと耳を澄ませた。
「俺、小さい頃家庭環境が複雑で、だからこそ食い扶持は自分で探さないといけなかったんだ」
「え……?」
「そんな時やっと貰えた仕事は郵便配達だった。地位も知識もいらないただの体力勝負の仕事だからね、子供の俺でも雇ってもらえた」
「…………」
「そして俺の配達先の一つが、ミリアムの邸宅だった」
ハッとしてミリアムは顔を上げた。彼と目が合い、微笑まれる。
「そこで働いていた人達はみんな優しかったよ。小汚い恰好をした俺に話しかけてくれるし、お菓子もくれた。まさにそこに住む人たちの性格を表していたように思う。さすがに主人や奥方、ミリアムに会うことは無かったけどね」
彼の言葉が嬉しかった。父を、母を、メイドたちを褒めてくれる彼の言葉が。
「あの日も、俺は邸宅に届け物があって訪れていた。……でもいざ行ってみて驚いた。どうしてか知らないけど、邸宅中の皆が一体となって隠れん坊していたから」
隠れん坊……と言われて、思い出すのはあの日。
思い当たる節がありすぎてミリアムは冷や汗をかきながら視線を逸らす。
「俺はそんなに幸せな家庭じゃなかったから、正直邸宅の皆が仲が良いのは羨ましかった。でもさ、その時は違ったんだ。羨ましいを通り越して逆に呆れたよ。この人たち、仮にも立派な貴族とその使用人なのに、何やってんだろうって。通りすがりの郵便配達の俺にも参加するよう、誰かさんが連行するし」
うう……とミリアムは項垂れる。
そういえば、過去そんなことがあった。皆でやった方が面白い!と思った自分が、まさに配達物を置いて去ろうとする少年を強制連行してしまった時が。
その時の少年が、まさかディアンだとは思いもしなかった。何しろ、十年近く前でしかも会ったのはその時だけだったのだから。
「しかもさ、ちょっといいかな? この際はっきり言わせてもらうけど」
「な……何ですか?」
急にディアンが真面目な顔になる。というか、何だか先ほどから顔も声色も言葉も怖かった。何をそんなに怒っているのだろう。自分があの時強制連行したのがそんなに嫌だったのだろうか。
ミリアムは背筋を伸ばして次の言葉を待――。
「あれさ、正直に言うと隠れん坊じゃないからね? 俺が何度突っ込みたかったことか。あれ隠れ鬼だから。決してただ隠れるだけじゃないから。そのこと知らされずに無理矢理参加させられた俺の気持ちにもなってほしいよ。適当にさっさと見つけて終わらせようと思ったのに、見つけた瞬間みんな走って逃げるし。はあっ!?って思ったよ。え、俺子供だよね、子供相手に本気で逃げる?って。だいたいミリアムが鬼の時は皆ニヤニヤしながら自らタッチされに行くのに、何で俺だけ本気逃げ?って思ったよ。子供の足だからなかなか誰にもタッチできないし、でも鬼は俺一人だしでみんな暇になってくるでしょ? そうしたらなぜだか俺が鬼になってやる!って叫んで独りでに鬼になるやつが出てくるし。阿鼻叫喚だよ。何でいつの間にか全員鬼になってんだよ。隠れてるやつタッチしたら今度は自分が隠れる番になれよ。意味分かんねえよ。そうしたら今度は鬼同士タッチして何だかばい菌つけられた子供の遊びみたいになってるし、いや本当お前ら何歳だよって。しかも挙句にやっと最後の一人のミリアムを見つけたと思ったら、隠れ方が可愛いからしばらく放っておこうって言われるし。何だよそれ。そんなんじゃ一生終わらないし、もう俺次の仕事先に遅れるし、でも周りの大人たちは互いにばい菌つけ合って子供みたいだし。もうどうにでもなれって諦めてたらミリアムが寂しがって泣きながら出てくるし、何か可愛くて癒されたし、でもすぐに猫かわいがりする大人たちに囲まれて見えなくなったし意味分かんないしそのまま出てきた。次の仕事には遅れた」
はーっと長いため息をついた後、ディアンは深呼吸を繰り返した。ミリアムは固まったままだ。
な、なに。何が起こったの。
今まで見ていたディアンは偽物だったのかと思うくらい性格が豹変しているような気がする。ついで言葉遣いも――。
「昔はちょっと捻くれてたから言葉が汚かったんだ。今のはその名残」
にっこり笑ってディアンが言う。心の中を読まれたようで、ミリアムはビクッと肩を揺らした。
「その隠れ鬼のせいで色々と散々な目に遭った俺は、もう二度とあそこへ行くもんかって思ってた。それに、配達先変更とかで行く機会もなかったしね。でも、どうしてか忘れられなかった」
ディアンの声の調子が元に戻ってきた。安心してミリアムは再び聞き入る。
「子供も大人も馬鹿みたいにはしゃいで、でも本気になって隠れん坊するの、あの人たちだけだろうなって思ったら、意固地になってる俺が馬鹿みたいに思えてきた。本当は仲間になりたかったのに。だから見に行った。忘れられてるかもしれないけど、あの人たちは今も元気でやってるのかなって」
ディアンがこの先を示すかのように視線を落とした。ミリアムも釣られる。
「でもそこにミリアムはもういなかった」
「…………」
「執事やメイドたちは俺のことを知らないようだった。まあ数か月経ってたし、それも仕方ないかなって最初は思ってた。今度はミリアムの様子を聞いてみた。――驚いたよ。皆不思議そうな顔をして誰のことですかって聞いたんだ」
ミリアムは顔を俯かせる。あの時の記憶が甦ってきた。楽しい時の記憶ならまだいい。でも、皆がミリアムのことを忘れ始めた、あの時、あの恐怖。
「ごめん、あんまり気持ちのいい話じゃないよね。でももう少し我慢して」
もう過ぎたことだ。今の私には、みんながいる。
静かに頷いた。
「自分でもこっそり探してみたんだ、邸宅のあちこちを。でもミリアムはいなかった。……何が何だかさっぱりだった。あの隠れん坊の時、確かにミリアムは存在していたのに、なぜかなかったことの様になっていた」
再びミリアムは頷く。声は出せなかった。
「それから何やかんやあって、配達の仕事は止めたんだ。その代わりにギルティ商会のところに弟子入りした。そうしてその数年後、街中でミリアムを見かけた、ある日突然。……びっくりした。ミリアムが確かに存在していたことにも、君が全く笑わないことにも。――皆で隠れん坊をしていた頃はあんなに元気に笑っていたのに、その時は全くと言っていいほど笑わなかったから。声をかける勇気はなかった。誰?って聞かれるのが分かってたから」
ただ頷く。あの頃の憔悴しきっていた自分がディアンに気付くとは思えなかった。
「それからはずっとミリアムを目で探すようになったよ。どうしてか知らないけど、両親から離れた場所で暮らす君を。時折寂しそうにしていながらも、前を向いて生きようとする君を」
「……そんなんじゃ、ないですよ」
久しぶりに声を出したような気がする。少し掠れた。
「あの頃は……両親に見放されたばかりで、すごく落ち込んでました。前を向いてなんて、そんなに立派なものじゃ」
「でもお爺さんの後をたくさんの荷物持って歩いていた姿は一生懸命だった。初めて書店に立った時も、本を読んでいる姿も、居眠りしてる姿も全て、ミリアムが一生懸命生きていた証拠だ」
何だかむず痒い。でも嬉しかった。
「俺はいつしか、あの頃のような笑顔が見たいと思った。無邪気にはしゃぐ君が見たいと思った。そうしていつの間にかミリアム専用のあの部屋が生まれていた」
「――ええっ!?」
ミリアムは瞬時に顔を上げる。
「いきなり話が飛躍しすぎてませんか? な、何でそこから私の専用?……の部屋が生まれることになるんですか!」
「いや、ミリアムの成長記でも作ろうかなと思ってね。願わくばいつの日か、君の無邪気な笑顔を写真に収めることができればと思って」
「正直に言って盗撮は犯罪ですからね?」
「……あはは」
ディアンは目線を逸らしながら空笑いする。ミリアムはため息をついて諦めた。もう彼は手遅れだ。そんな気がする。
「その執着が恋へと変わったのは最近かな。ほら、ミリアムが告白されたあの時」
「それは随分と……最近ですね」
「いや、それを知らされて、一気に自覚してしまったというか、ああ、この気持ちは恋だったんだなって。――ここからはもう君も知っての通り。感情が爆発してついに告白……と繋がるわけ」
「は、はあ……」
そこでディアンはふっと笑う。
「俺はミリアムのことが好きだ。だからさ、大人しく俺の記憶だけを食べていればいいんだよ」
「……え?」
急な話の展開にミリアムはついていけない。いや、確かにこれはもともとの本題なのだが、話があちらこちらに移動するので瞬時に頭が追いつかない。
「いやだってさ、ミリアムが食欲を満たすために他の人の記憶を食べるのって、どこの馬の骨とも分からない奴の血肉をミリアムが取り入れてるようなものでしょ?」
「いや血肉って……。そんな生々しいものじゃないですよ」
「生々しくなくってもとにかく俺は、他の男の何かがミリアムの中に存在していること自体が腹立たしいし、許せない」
ディアンはミリアムの両手を取り、彼女の瞳を真剣に見つめる。
「だから、俺の記憶だけを食べて生きればいい」
彼の言葉はとても魅力的だった。彼だけを糧として生きていけたらどれだけ楽だろう。それに、彼の記憶にはおそらく底と言うものが無い。今までの様な心配は無用なのだ。
……いや、これはただの建前だ。本当は、その言葉の裏に、俺だけを頼ってほしい、俺と一緒に生きてほしい、そういう類の含みを感じ取ってしまい、戸惑った。手放しに喜んでもいいのか、彼のことを考えて身を引いた方がいいのか。
頭では冷静に考えていても、体は正直だった。理性が押しとどめる前に、咄嗟に口が開く。
「……嫌になったら、いつでも言ってください」
「絶対嫌にならない自信がある」
「記憶を失う時、気を失うから気を付けてください」
「その時はミリアムが傍にいるから安心だ」
「私、しつこいですよ。嫌って言ってもどこまでもディアンさんを求めて追いかけていきますから」
「……最初に言ったことと真逆じゃないか。でも、大丈夫。絶対嫌にならない自信があるから」
先ほどと同じ答え。
これほどまでに心強い言葉があっただろうか。
「あの、そっちに行ってもいいですか」
気づいたら、そう言っていた。彼はちょっと目を見開いたが、すぐに頷く。
「でもまだ気分悪いでしょ? 俺がそっちに行く」
ベッドを軋ませて彼が隣に来た。思ったより距離が近い。でも、これくらいが安心する。
今なら何でも言えそうな気がしていた。近ごろ抱えていた思い。誰かに聞いてもらって、そして肯定してもらいたかったこの思い。
「私、最近分からなくなってきてたんです。私が誰かってことが」
「え?」
「あまりにも、皆が私のことを忘れていくから。知らない子供を見るかのように私を見るから。幼い頃、私は誰なんだろう、本当にミリアムなんだろうかって思ってました。でもかろうじて、お爺さんや周りの人たちがミリアムって呼んでくれるから、ああ、私はミリアムだ、ミリアムなんだなってそのたびに安心してたり」
手持無沙汰に手を軽く動かす。しかしすぐに止めた。これは取り繕うような話ではない。
「でもこの前、両親にばったり会ってしまって。――やっぱり覚えてませんでした、私のこと。おまけに二人の間に子供まで生まれてて、その子のことをミリアムなんて呼ぶんです。だからますます分からなくなって。私ってミリアムじゃなかったっけ、あなたたちの娘じゃなかったっけって。……でも彼らにとって娘はあの子一人だけ。私じゃないミリアムがもういたから。じゃあそれなら、今ここにいる私は誰なんだろうって思っちゃって」
きちんと頭では分かっていた。彼らが私のことを忘れていても、確かに私に流れる血は彼らと同じものだと。でも、不安だった。寂しかった。彼らに、一番認めてほしい彼らに忘れ去られていることが。
「でも、ディアンさんからお話を聞いてすっきりしました。私、ちゃんとあの人たちの娘だったんですね。私には、ちゃんと両親がいたんですね。私は……ミリアムだったんですね」
涙はもう出てこない。きっと彼が、肯定してくれると分かっていたから。もう切ない涙は流さない。
ディアンは、ミリアムを抱き寄せた。その腕が温かかった。その腕が優しかった。あの頃を思い出す。
「俺が保証する。君は正真正銘のミリアムだ」
「はい……はい……!」
ミリアムは彼の腕の中で眠った。深い、深い眠り。何も、心配するようなことのない眠り。