09:錯乱 −3−
頭が重い。気分も悪い。ついで目も腫れぼったいような気がする。
「う……」
ミリアムはそっと目を開け、虚ろな瞳で天井を見上げた。意識がはっきりしたことにより、余計頭が重く、そして気分も悪くなったような気がする。加えて喉も渇いていた。
「はい、水」
声と共にコップが差し出された。有り難くミリアムはそれを受け取る。
「ふう……」
一息ついて、ようやくはたと気づいた。
「って、なんでディアンさんがいるんですか!」
「え? いちゃ悪い?」
「わっ、悪いという訳では……! で、でも一応女の子の部屋ですし……」
「ごめんね。本当は水だけを置いて帰るつもりだったんだけど、あんまり寝顔が可愛いもんだから、つい長居しちゃった」
「はあ……」
あっけらかんとしているディアンに、ミリアムは怒る気力を無くしてベッドに倒れこんだ。
「調子、どう?」
「良くはないです」
「昨日は大暴走してたからね」
「思い出させないでくださいよ……」
彼の一言で不意に昨日のことを思い出し、ミリアムはタオルケットに顔を埋めた。ただ恥ずかしい、その一言に尽きる。
勘違いの末暴走し、叫びまくった昨夜。そしてあろうことか酒屋に乗り込み、一気飲みした記憶。挙句の果てにはディアンに私の長年の秘密を暴露してしまった。
「そういえば私、すっかり混乱して忘れてたんですけど、自分に関する記憶しか相手から奪えないんでしたね」
「だから俺も不思議だったんだ。ジョセフさんの家に行った時、グリンダさんは認知症って言ってたのに、なぜミリアムは自分のせいだと言うのか」
ミリアムは頷く。
あの時は混乱して、グリンダの言うこともお爺さんの症状も詳しく聞こうとはしなかった。少しでも冷静であったならば、お爺さんが忘れているのはミリアム自身に関することではなく、日常的なことについてだと気づいたはずなのに。
両親や周囲の人々に忘れ去られた過去があるせいで、おそらく忘れる、ということ自体にトラウマを抱えてしまったのかもしれない。
しかしそれでは駄目だ。いつまでも自分一人で勝手に考えて判断を下す生活は駄目だ。今回のことで改めて気づかされた。私には、お爺さんもグリンダも常連客の人たちも、そしてディアンさんもいる。
もっと彼らを信じ、そして頼ろう。
「ディアンさん、少し聞いてもらっていいですか」
ミリアムはそう心を決めると、改めてディアンに真面目な顔で向き直る。ディアンに話さなくてはならないことがあった。ミリアムのこの考えが独りよがりでないか、昨日の様に何も見えなくなってないか。彼に聞いてほしかった。
「私、やっぱりお爺さんの所に居続けるのは止めた方がいいのかもしれません」
「それは……どうして?」
ミリアムは少し言いよどんで口を開く。
「私……昨日は言いませんでしたけど、実はディアンさん、私に記憶を奪われた時に本当に記憶を失ってしまったことがあるんです」
「……ん? どういうこと?」
「昨日……私がディアンさんの仕事場へ押しかけた時です。あの時、ディアンさん、どうして私が自分の部屋にいるのか分からないって言ってましたよね?」
「そういえば……」
「その時、記憶を頂いたんです。……私、てっきりディアンさんならいくら食べてもなくならないから、きっと大丈夫だろうって高をくくって……。でも実際にそうはならなかった。ついさっき私を快く迎えてくれたはずなのに、次の瞬間にはそのことを忘れているようだったから……その、混乱してしまって」
「そうか……そうだったんだ」
あの時はミリアムの様子がおかしいことに気を取られ、深く考えることは無かったが、今の話を聞いた後では合点もいく。
「でもどうして昨日は違ったんだろう。今までは俺は記憶を失わなかったのに」
「……まだよく分かりませんけど、ディアンさん、記憶を失ってないわけじゃないと思うんです。全部ではなくて、ちょっとした私に関する一部の記憶を失ってる……んじゃないかと思います。例えばさっきディアンさん、私に水を渡してくれましたよね? その時の記憶だけが無くなってしまうとか、そんな感じで全体の中から一部の記憶だけを私は頂いてる……とか」
「なるほどね」
ディアンは考えを巡らせるように視線を言ってんに集中させる。
「でもそれなら、一生俺の記憶を食べ続けて生きればいいんじゃない?」
「……はい?」
急に話が飛んで、ミリアムは呆気にとられたような表情になった。
「だってそうでしょ? 俺の記憶は胃もたれを起こすほど膨大な量なんだから、俺だけでミリアムの食欲を満たせるわけだし」
「それは……そうですけど。でもまた昨日みたいにいつの間にか記憶が消えていることだってあるんですよ? そんなの、絶対にディアンさん……嫌な気分になりますよ」
「俺は嫌じゃないよ。だってただ消えるだけじゃなくて、ミリアムが取り込んでくれるんだから」
「な……何で、そんなに……」
ミリアムの言葉は尻すぼみに宙に消えていく。
彼の気持ちはもう十分すぎるほど分かっていたつもりだった。それは、彼の記憶が紛れもない証拠になる。ミリアムが胃もたれを起こすほどの量の記憶を奪ったのに本人はケロリとしているし、何より彼の記憶は誰の物より美味だった。心の底から深く満たされるような、そんな気持ちになれる彼の記憶。
彼はどうしてそんなに簡単に、これから先ずっとミリアムの糧となることをあっさり決意するのだろう。不安じゃないのだろうか。自分の知らないうちに、自分の記憶が食べられていく恐怖。
「ディアンさん、何で私のことそんなに想ってくれるんですか。私なんて面白くないし、愛想もないし……いつも、不機嫌そうだし……」
言いながら、ミリアムは落ち込むように顔を両手に埋めた。全て、過去にミリアムが周りから言われたことだった。事実、自分もそう思う。彼が私を好きになる要素など一つもない。
「……気づいたら好きになってたよ」
ディアンは微笑んだ。