09:錯乱 −2−
気づけば二人は公園の側まで来ていた。沈黙の中何も考えずにここまで来ていたのだが、これからどこへ行こう。そんな思いが頭をもたげた。
公園をそっと眺める。彼と植物園に行ったあの日、あの頃が
遠い昔のようで、ひどく懐かしかった。
「また、あそこに立ち寄りませんか」
ディアンも同じことを考えていたのか、ふとそう言った。
どうせ行く当てもない。少しくらいなら。
ミリアムは黙って頷いた。
ベンチに座ると、ディアンは前置きもなく唐突に口火を切った。
「ミリアム、少し聞いてもいい?」
夜風に当たることで少し頭も冷静になってきた。ミリアムは再び頷く。
「その、その記憶を奪う力は、意識的にできるものなの? それとも無意識?」
「――どちらでも。私は……おそらく、記憶を食べることで生きてるんです。それも、私に関する記憶を。もしも足りなくなったら、嫌でも無意識のうちに周囲の人から記憶を奪ってしまう。だから一緒に暮らしているお爺さんの記憶だけはどうしても奪いたくない、そう思って今まで日常的に周囲の人の記憶をもらっていたんです。もちろんそれはあなたも例外ではありません」
ミリアムは自嘲するように笑った。
「気持ち悪いでしょう? 分かったらもう私とは関わらないでください。一人で、生きていきますから」
言い終わると、ミリアムは立ち上がった。しかし瞬時にディアンの腕に掴まれる。
「でも……それなら、俺はミリアムのこと忘れてない。記憶を奪われたはずなのに、なぜ俺はミリアムのことを覚えてるの?」
真っ直ぐな瞳がミリアムを射抜いた。すぐに視線を逸らす。どうせこの人に言ったって何も変わらないのだから、もう行こうと。
しかし、心のどこかでは、誰かに聞いてほしい、そう思っていたのだろうか。気づいたら、口を開いていた。
「私にも分かりません。いつも私が手加減せずに奪い尽くすと、相手は私に関するすべての記憶をなくします。でもどうしてか、あなただけは私のことを忘れなかった。――本当、どうしてなんでしょうね」
「…………」
「本当はあの日、植物園に行ったあの時に、全ての記憶を奪うつもりだったんです。でも、なぜか失敗して、あなたは数日後に現れた」
「……何で、俺とデートしてくれたの? デートする前に記憶を奪っても良かったのに」
「自意識過剰って言ってくれても構いませんけど」
ふっと息をつく。
「私に対する愛情があればあるほど、その記憶は幾日もの量の糧となってくれるんです。その頃は、私も成長期で全然食欲が抑えきれなくなって、でもお爺さんの記憶だけは奪いたくなかったから、あなたの記憶を頂こうと思ったんです。……デートすれば、私に対する愛情が増えてくれるかなって」
「ミリアムに対する愛情があればあるほど、その分たくさん持つってことだね」
ディアンが納得したように頷いた。ミリアムは黙って先を待つ。
「その時の俺の記憶、何日分だったの?」
「……一週間ほどです」
「じゃあ俺の前に告白してきたやつの記憶は?」
「……半日くらいです」
なぜそんなことを知りたいんだろう。ミリアムは不思議に思って隣を見上げた。なぜか彼は悔しそうだった。
「その時だけなの? 俺の記憶を食べようとしたのって」
「……数日後、ディアンさんがハンカチを下さった時、あの帰り道に頂きました」
「じゃあその時は何日分?」
「…………」
「何日分?」
「なぜそんなことが聞きたいんですか」
「ミリアムの役に立ちたいから」
「――こんな情報、何の役にも立たないと思います」
「分からないよ。これからを生きるための重要な何かが隠れてるかもしれない」
そんなの、戯言だ。あるわけない。
けれど、彼の真っ直ぐな瞳につられるように、口を開いてしまうのはなぜだろうか。
「……私その時、ディアンさんの記憶全てを奪うつもりでした。実際、大量の記憶をお腹に収めました。――しばらくは苦しくて動けないくらい」
「それ……」
ディアンが戸惑ったように言いよどむ。観念したようにミリアムは頷いた。察しが良いのも考えものだ。
「だから次の日、胃もたれを起こしました」
「…………」
ポカンとディアンは口を開けたまま動かなくなった。彼のこれほど間抜けな顔も珍しいかもしれない。ゆっくりと焼き付けようかと思い始めた頃、次第にその表情は笑いを堪えたものへと変化する。そうして、最高潮に達した時。
「くっ……あははっ!」
お腹を捩るようにして笑い出した。
「これは……さすがに……!」
目に涙まで浮かべている。そんなにおかしいことだろうか。ミリアムは何だか腹が立ってきた。
「失礼ですね。人が胃もたれぐらいで寝込んだのがそんなに面白いですか」
「いや、ちがっ……違う……」
笑いすぎて、息も絶え絶えだ。呆れかえってミリアムはそっぽを向いた。ようやくディアンが落ち着き始めるには、優に十分はかかった。
「ごめん……あまりにも嬉しくってさ」
「嬉しい?」
「だって……胃もたれを起こすほどの量だったのに、俺は記憶を失ってないんでしょう? それ、俺の記憶……ってか、愛情がそれだけ多いってことの証だよね?」
「ま……まあ、たぶん」
はっきり言えば、そういうことだ。視線を泳がせながらミリアムは頷く。
「嬉しいよ。俺の愛情をミリアムの体が証明してくれたなんて」
何だか、卑猥な表現だな……。
しかしミリアムは突っ込むのは遠慮した。
「……これで俺もいろいろとすっきりしたよ」
言葉の意味が分からなくて、ミリアムは怪訝な顔で彼を見上げた。
「ミリアム。改めて聞くけど、君が人から奪う記憶って、ミリアム自身に関する記憶だけってことだよね?」
「そうです。その他の記憶は奪えません。皆、私のことだけ忘れていくんです」
「じゃあ大丈夫だ」
ディアンはすっと立ち上がった。そしてにっこりと笑い、ミリアムに手を差し出した。
「帰ろう、お爺さんの元へ」
*****
「私、行きませんから!」
「いいから。俺のこと信じて」
「絶対に嫌です!」
「……何かそんな風に言われると、俺のことが信じられないみたいじゃないか」
「つまりはそういうことです」
「…………」
ミリアムたちが家の前で下らない押し問答を繰り広げていると、扉が開いて誰かが出てきた。ミリアムは固まる。
「お……お爺さん……!?」
「ミリアム、心配かけたのう」
「あ……」
私の名前を、呼んでくれた。でも、でも――。
「私のこと忘れたんじゃ……?」
「何を勘違いしてるか知らんが、わしがミリアムのこと忘れるわけないだろう」
「ミリアム! もう遅いわよ、どこに行ってたの?」
「ぐ、グリンダさん……」
「ミリアム、良かったわね。ジョセフさん何とかなりそうだって」
「え……」
「ほら中に入って! お医者様から直接話を聞いた方が早いわ」
皆に押されるようにミリアムは中に入った。医者らしき男性が席についており、ミリアムも緊張しながら目の前の席に着いた。
「ジョセフさんのご家族の方ですね?」
「は、はい」
「ジョセフさんを診療した結果、彼は軽い認知症にかかっていることが分かりました。初期症状のちょっとした物忘れ、最近の出来事の欠落などが見られました」
「に……認知症?」
「はい。でも今回は早期発見できたので、根気よく治療を続けて行けば回復の見込みはあります」
「あ……」
「良かったね、ミリアム!」
「は……はい! ありがとうございます!」
ミリアムは大きく頭を下げた。それに軽く頷き、医者は続ける。
「でも悪化してくると、自分の家が分からなくなったり、家族のことが分からなくなってくることがあります。そうならないようにも、治療の他にもご家族の協力が必要になってきます。大丈夫ですか?」
「はい……はい!」
「では私はこれで失礼します。何かありましたら、また診療所の方へお越しください」
「ありがとうございました!!」
再び深い礼をして医者を見送った後、ミリアムはしばらく動けなかった。呆けたようにしてボーっとする。
「ミリアム」
そんな彼女に、グリンダが近づいた。
「私の祖母もね、認知症だったの。始めは軽い物忘れだったんだけど、またかって呆れるくらいで、ずっと放ったらかしにしてた。そうしたらいつの間にか、祖母の症状は悪化していって次第に私のことも分からなくなった。すごく後悔したわ。何であの時もっと注意深く見てあげられなかったんだろうって。早いうちに気付けば治療もできたかもしれないのに」
グリンダの声が震えた。皆は黙って先を待つ。
「だからもしかしたら私の思い過ごしかもしれないけど、初期症状を見過ごすよりはと思ってお医者様に診てもらったの」
「……はい」
「でも、まだ軽いようだったから良かった」
「はい……!」
「だから、ミリアムにはジョセフさんを大切にして欲しい」
何も言えず、ミリアムはただ何度も頷いた。
「ありがとう、ありがとうございます、グリンダさん……!」
「な……どうしたのよ」
「私、私自分のことしか頭に無くって、お爺さんのこと……」
馬鹿だった。本当に自分は自分のことしか考えていなかった。
お爺さんが自分のことを忘れてしまったと嘆き、不安だったろう彼を一人にして放蕩してしまった。
「お……お爺さん……!」
「ミリアム……」
ミリアムは静かにお爺さんに抱き着いた。彼も優しく抱き返してくれる。
知らず知らのうちに涙が溢れてきた。涙は枯れてなんかいなかった。ただ、切っ掛けがなかっただけ。涙をせき止めていた壁を壊す、切っ掛けが。