09:錯乱 −1− 


 西日が差す中、家路を急ぐ者が大半だ。その中で、寄り添う様にゆっくりと歩く男女がいた。暗い面持ちとは反対に、女性の足取りは案外しっかりとしていた。男性は彼女の肩に手をやりながら、心配そうに見つめる。そこだけが騒がしい喧騒から独立した一枚の絵のようで、自然と彼らの目の前を遮ろうと歩く者はいなかった。

「……ありがとうございました」
 書店に辿り着くと、ミリアムは小さく頭を下げた。ミリアムの声に、ディアンも小さく首を振る。そしてゆっくりと書店の中に入ろうとする彼女を見送った。自分の出番はここまでだと思った。しかしすぐに中から慌てたように老人が飛び出してきた。

「ミリアムちゃん!」
「な、何ですか?」
「大変なんだよ! ジョセフさんが――」
「え……」

 再び、ミリアムの目の前は真っ暗になった。

*****

 慌ててミリアムが家へ帰ろうとする道中、老人も息を切らせながら状況を説明してくれた。

「あまり詳しいことは知らんのだけどな」
「――はい」
「ジョセフさん、グリンダと話をしておったんだ。でもその時に急にグリンダが立ち上がって、ジョセフさんを医者に見せた方がいいと言い出したんだ」
「え……それって」
「ああ、詳しいことはわしも分からん。グリンダがジョセフに付き添って家に行った。医者も呼んでな。まずは医者に見せることが先決だと。自分の勘違いかもしれないからって」
「お、お爺さん……」
「何も、なければいいんですけど」

 ディアンが呟いた。ミリアムはそれに小刻みに頷く。ただ自分の予感が当たらないことだけを祈る。

「グリンダさん!」
 家に入ると、椅子に心配そうに座っているグリンダが目に入った。ミリアムたちを目にすると、すぐに彼女は立ち上がる。

「ミリアム! よかった」
「お爺さんは!?」
「今お医者様に診てもらってる。邪魔になるんじゃないかって私は出てきたけど」
「それで、ジョセフさんはどうなんですか?」
「私の悪い予感が当たったわ」

 グリンダは暗い顔で頷いた。ますますミリアムの顔から血の気が引いた。

「今日書店でジョセフさんと話してたんだけど、いろいろと話の辻褄が合わないことが多かったのよ。だからこれはもしかしたらって思って」

 グリンダの声がどこか遠くに聞こえる。ミリアムはふらふらとお爺さんの部屋へ向かった。ディアンとグリンダは話に夢中でミリアムには気づいていないようだ。
 少し空いている扉の隙間、そこからお爺さんと医者の話し声が聞こえた。

「ではジョセフさん、今日の日付はいつか分かりますか?」
「はて……いつだったかの」
「……そうですか。じゃあ私が持っている物の名前を言ってください。これは?」
「…………」

 沈黙が続く。お爺さんが首を振ったのだと分かった。

「これは?」
「…………」
「では、これは?」
「あ……何だったか……すぐそこまで出て来とるんだが」
「お、お爺さん……」

 ミリアム小さく呟き、後ずさる。

「ミリアム、ジョセフさんはどう?」
 グリンダとディアンがすぐ側まで来ていた。しかし彼女に彼らの声は届かない。

「私のせいだ、私の……」
「ミリアム?」
「私の……!」

 ミリアムは二人の間を走り抜けた。家をも飛び出し、外へ出る。 そのまま駆けて行ったミリアムを、ディアンは咄嗟に追いかけた。

「グリンダさん、ジョセフさんをお願いします!」
「え、ええ。それは良いんだけど……。よく分からないけど、あなたもミリアムのことよろしく!」
「もちろんです!」

 外はもう真っ暗だった。人の気配もあまりない。静まり返るそこに、足音は響いていなかった。ゆっくりと、見落とさない様に辺りをくまなく探すと、暗い路地裏にミリアムが蹲っているのが見えた。

「いや……いや!!」
 彼女の肩に手を置くと、身をよじって嫌がられた。

「もう嫌……何で私だけ……」
 彼女の声があまりにも悲痛な声に、ディアンは胸を締め付けられるような思いだった。

 ディアンがそこから動かないのを察すると、ミリアムはすぐに逃げようと立ち上がった。しかし彼はその腕を逃がさない。

「ミリアム!」
「離して!」
「一体どうしたんだ?」
「もういい、私は一人で生きていくから! だから離して……」

 ミリアムの声が尻すぼみに消えていく。

「どうしてそんなことを……。 ジョセフさんのところに戻ろう」
「いや、絶対にいや! また私が……お爺さんを苦しめてしまう」
「何で、そんなこと――」
「どうせあなただって私のことすぐに忘れるわ! 私のことはもう放っておいてよ!」

 ミリアムはキッとディアンを睨む。しかし彼は目を逸らさなかった。

「俺はミリアムのこと忘れない」
「…………」
「忘れられないよ」

 ミリアムは揺れる瞳で視線を外す。しばらく目を閉じ、自身を落ち着かせる。そして、一言口にした。

「だったらいいわ、見せてあげる。どうせ、信じられないでしょうけど」

*****

 ミリアムは適当に目についた店に入った。そこは荒くれ者たちがたむろす大きな酒屋だった。入った瞬間、男たちの汗と煙草、酒の臭いで思わず眉をしかめる。しかし、彼女の足は止まらない。
 後ろで戸惑うような気配がするが、ミリアムは構わず、酒屋の中でも最も大きいテーブルにつく男たちの前で立ち止まった。

 彼らは突然脇に現れた若い女性に目をやる。何か用かと口を開きかけた途端、その女性は一人の男のジョッキを無理矢理奪い取り、ぐびぐびと飲み始めた。ディアンと周囲の男は呆気にとられるばかりだ。ミリアムがしゃっくりを上げながら半分ほど飲み終えて、ようやく彼らは正気に戻った。

「てっ、てめえ! 急に何しやがんだ!」
「女だからって承知しねえぞ!」
「――ミリアムさん!」

 ディアンがミリアムの前に立ちはだかる。

 でも、そんな心配はない。
 周囲の人間も一気にやってしまおうか。
 ミリアムは静かに熟考する。

 複数の人間の記憶を一気に取り込むなど、今までやったことが無い。成功するとも限らない。しかし、今なら何でもできる気がした。

「何とか言いやがれ――!」
 いきり立って男は吠えるが、次の瞬間、まるですっかり怒気が抜けたかのようにポカンとした表情を浮かべる。自分が今、何をやっていたのかさっぱりわからない様子でポリポリと頬を掻いた。周りの男たちも先程の覇気はどこへやら、全くミリアムへの関心はなくなっていた。

「おい、何立ってんだよ。さっさと飲もうぜ!」
「あ……ああ」

 腑に落ちない様子で男は再び椅子に座る。

「ってお前、先に飲んでんじゃねえよ、白けるだろうが! どんだけ待てねえんだよ。女将さん! 黒ビールもう一杯!」
 彼らは、ミリアムのことなど目に入らない様子で騒ぎ始めた。新しく出された黒ビールで乾杯している。
 ミリアムは彼らに背を向け、ディアンに向き直った。

「こ、これって……」
「もう、これで分かったでしょう。私は普通の人とは違うの」
「信じられない……」
「そうでしょう。だったらもう信じてくれなくてもいい。だから私のことは放っておいて。虚言を繰り返す馬鹿な女だと蔑めばいいわ」
「…………」

 何も言えない、言えるはずもないディアンを尻目に、ミリアムはそっと黒ビールの料金を彼らの机に置いた。もう泥棒はしない。あの時、両親と自分、そして優しくしてくれたお爺さんに誓ったのだから。

 二人は黙って酒屋を後にした。