08:変化 −5−
ミリアムは門を飛び出し、咄嗟に左右を見回した。ディアンに連れてこられた時、馬車から覗く景色も碌に見ていなかった。だから左右に延びるこの道も、どちらに進めばよいのかさっぱりわからない。
しかし今にも後ろからディアンがやってきそうな気がして、すぐに右へ走り出した。今は逃げることが先決だと思った。
そうして人ごみを掻き分け掻き分けて走る曲がり角で、ミリアムは確認もせずに曲がった。が、そこには丁度角を曲がろうとしている男女がいた。案の定ミリアムは避けきることができずに、彼らと衝突してしまった。
「きゃっ」
「あ……ごめんなさい……!」
質の良さそうなドレスを着た女性は軽くよろけた。そんな彼女の腰を隣にいた男性が支える。ミリアムは慌てて頭を下げた。
「いいえ、大丈夫よ」
「慌てていたみたいだけど、何かあったのかい?」
女性の側にいた男性も心配そうにミリアムを覗き込んだ。呼吸を整え、ミリアムが顔を上げると、彼らと目が合った。翡翠色の瞳の男性に、滑らかな金髪の女性。
彼らは、他でもないミリアムの父と母であった。
*****
咄嗟に目を逸らした、その先に、小さな女の子がいた。翡翠色の瞳に、金の髪。彼女は両親の陰に隠れる様にして、こちらを興味深げに覗き込んでいた。
再びミリアムは目を逸らす。しかし、視線を上げた先には、驚愕に目を見開く彼らがいた。
「君……」
「あなた――」
何かに気付いたかのように、彼らは言葉に詰まった。
ミリアムは瞬時に悟る。覚えていたのだ、彼らは。数年前、邸に忍び込み、当主を父と、奥方を母と呼び、あろうことか家庭崩壊を仕掛けかけた無礼な娘のことを。どうせ金目当ての女の子供だろうと蔑んだ娘のことを。
「――っ!」
ミリアムは咄嗟に記憶を食べた。彼らの顔が、再び怒りで染まる前に。ミリアムが、再び絶望に突き落とされる前に。
限りなく無味に近い、決しておいしくないそれは、嚥下するにもひどく時間がかかった。
「――娘とそっくりだね。これは驚いた」
父は、初めて会うかのように、でも人好きのする笑みを浮かべた。
「綺麗なお嬢さんね、私もびっくりしたわ。翡翠色の瞳に、滑らかな金髪。将来この子もこんなに風に綺麗になるのかしらね」
母は、あの頃と全く変わらない微笑を浮かべた。
「わたし、なる! お姉さんみたいに綺麗になる!」
娘は、元気よく両手を上げて自らの両親を見上げた。
彼女の顔は幸せに満ちていて、でも、でも本当は私がいるはずだった場所――。
「まあ、おませさんね。この調子だと、嫁ぎ先はすぐに決まるかしら」
「そりゃ駄目だ! この子はずっと俺たちと一緒に暮らすんだからな!」
「まあ、あなたったら」
幸せそうに笑う父と母と娘。それはどこからどう見ても完璧で、付け入る隙なんてない。忘れ去られたもう一人の娘が入る隙なんて、なかった。
「ねえあなた。お名前は?」
「……え?」
揺れる瞳で女性を見上げた。彼女の表情は分からなかった。ぼんやりとした金髪だけが目に入る。自分の母――母であるはずの彼女が、どんな顔をしていたか分からなかった。
「せっかくのご縁なんですもの。お名前を教えてくれる?」
「あ……」
何か言わなければ、そう思った。しかし言葉が出てこない。何を言えばいいというのか。本当の名前を言うのか。ミリアムと名乗って、それでどうなる。彼らがこの名を呼んでくれる日なんて、もう一生来ないのに。
「……お姉ちゃん?」
気づけば、娘が顔を覗き込んでいた。憎らしいくらい、自分と似ている、その瞳で、髪で。
ミリアムは、震える手で娘の頭にそっと手を乗せた。
「お父様とお母様を大切にね」
「うん!」
押し殺すような声だった。それでも、撫でられた娘は嬉しそうだ。
ミリアムはそっと会釈し、彼らに背を向けた。もう、見ていたくはない。どうせ、どうせ覚えていてくれないんだから――。
「ーーミリアム!」
お父様の声だ。
ハッとして振り返った。これは、一種の反射のようなものだったのかもしれない。幼い頃、彼らに呼ばれて、喜んで走って行ったあの頃のような――。
「全く、ミリアムはおっちょこちょいだなあ。何もないところで転ぶなんて」
「痛い……」
「もうすぐ家に着くわ。きちんと消毒しましょう」
「じゃ、もうミリアムが転ばない様に手を繋ぐか!」
「いいの!? じゃあお母様も!」
「はいはい、分かったわよ」
仲の良い夫婦の間にその娘、ミリアムが挟まれる形で手を繋いでいる。
「ね、わたし、明日誕生日だよね? 皆で隠れん坊したいなあ」
隠れん坊。懐かしい響きだった。
「隠れん坊? そりゃまあ構わないが……」
いつだったか、誕生日に邸の皆で盛大にやった覚えがある。
「本当にミリアムは隠れん坊が好きね」
私も、好きだった。
「いいでしょう、隠れん坊!」
いいな、隠れん坊。
「はいはい、邸の皆で隠れん坊しましょうね」
私も、やりたかった。
「やったあ!」
やりたかった――。
ミリアムは、彼らの姿を焼き付けるかのように、そこに立ち尽くした。そしてやり場のない思いを彼らの後ろ姿に語り掛ける。
わたしも、もうすぐ誕生日だよ。
もう一度、邸の皆で隠れん坊がしたいな。
一度でもいいから、わたしの顔を見て、わたしの名前を呼んでほしいな。
その娘じゃなくて、わたしを見てほしいな。
わたしは、ミリアムはここにいるよ。
枯れてしまったと思っていた涙が、一筋流れた。
「……ミリアム」
振り返る。もう今度は間違えはしない。ディアンだった。
いつからいたのだろう。どこまで分かっているのだろう。
全く分からなかったが、彼はミリアム以上に傷ついたような表情をしていた。
「ミリアム」
そっと抱き締められる。かつてのあの頃のように、優しい温もりに包まれた。