08:変化 −4−
立ち尽くしたようにミリアムはその部屋にいた。動くことも言葉を発することもなく、ただ目の前の自分の肖像画を食い入るように見つめていた。
もしかしたら、ミリアムではないのかもしれない。もしかしたら、ミリアムとは全くの別人のそれかもしれない。そうだ、ただ同じ髪、同じ瞳の色の女性と言うだけかもしれないのだ。早とちりするほどのことでもない。
そんな風に自分を落ち着かせてみると、やっとミリアムも視線を外すことができた。そうしてゆっくりと部屋の中を見渡す。調度品も人が暮らしている気配もない、ただの寂しい部屋だ。
そう思った瞬間、唯一置かれたアンティーク風のサイドボードが目に入った。サイドボード自体は、ミリアム好みの意匠だし、部屋の雰囲気にも合っていると思う。問題は、その上。その上に置かれている写真立てだった。
ミリアムは恐る恐る近づき、持っていた服を傍らに置く。そして震える手で写真立てを手に取った。肖像画とは違い、これは決定的だ。――カウンターで本を読むミリアム。……私の横顔が、写真立てに収められていた。
それを一旦置き、他のものにも目を走らせてみると、愕然とする。どこで撮ったのかは分からないが、ミリアムがグリンダと談笑している姿、食材を買っている姿、掃除をしている姿など、様々なミリアムの姿が撮られていた。しかも当たり前だが、それら全てミリアムの視線は外れている。盗撮、という言葉が頭に浮かんだ。
恐ろしいのはこれだけに留まらない。端の方へ移動すればするほど、写真の中のミリアムはどんどん幼くなっていった。相変わらずミリアムが撮られている状況は、普段の変わり映えしない日常のものだったが、一番古いもので、十二歳ごろの写真もある。確か、ミリアムがお爺さんのところで暮らし始めてから二年ほど経ったころだろうか。
恐ろしい。ものすごく恐ろしい。
何だか、寒気を感じた。鳥肌が立ち、無意識のうちにミリアムは腕をさすり出す。
「――寒いの?」
突然耳元で声がした。声にならない叫びをあげ、ミリアムは後ずさった。手が写真立てに当たり、幾つか倒れる。その内の一つがサイドボードから落ちそうになった。しかしミリアムの横から腕が伸び、それは回避された。
「おっと大丈夫? 気を付けてね」
彼はそのまま写真立てを大事そうにサイドボードの上に置いた。にこにこと笑いながら満足そうに頷く。いつも見ていたその笑顔が、今はすごく恐ろしい。
「ミリアムさんがあんまり遅いから心配したんだ。でも驚いたよ。まさかこの部屋にいたなんて」
「す……すみません。み、道に迷ってしまって……」
こんな時にでもミリアムは律儀に謝った。いや、違う。彼の怒りを買いたくないと思った。いつも通りの行動をして、この異常な空間を異質なものと認めたくないと思った。
「あの……お、驚きました。私の肖像画が、写真がたくさんあって……」
「気に入ってくれた? なかなかどれもよく撮れてると思うんだけど」
そう言って恍惚とした表情を見せる彼が、ディアンだとは思えなかった。いつもミリアムの隣にいるディアンだとは思えなかった。
「あ、の……これ、私が十二歳の時の写真もあるんですね」
ミリアムは一番端に置かれている写真を指さした。ミリアムが、お爺さんと共に買い物に来ている写真。
「ど、どうしてこの写真……」
自分の口を押えることができない。怖い。これ以上何も聞きたくない。しかし、自分では制御することができなかった。
「ああ、それ? 俺が久しぶりにミリアムさんを見かけた頃の写真だよ」
「…………」
「この頃のミリアム、全然笑わないからすごく心配だったんだ。でもジョセフさんと一緒にいるとすごく無邪気に笑うから嬉しくって、思わずカメラを持ってきて撮ったんだ。そしてそれを現像してもらって……手元に来た時は嬉しかったなあ」
聞き間違いでなければ、彼は久しぶりに、という言い方をした。ならば、この人は私を以前から知っていたのだろうか。しかしそれにしても、なぜ彼はこんなにも私に執着しているのだろうか。
「その後二人の後についていったらあの書店に入ったんだ。何度も入ろうかと思ったんだけど、その書店はどこか閉鎖的で、常連客で溢れていた。新規の客が入っていいものかと最初は戸惑ったんだ。だからしばらく窓の外から眺めるしかできなかった。でもそんな時、ジョセフさんから声をかけてもらった。その時から、俺は数日おきに書店を訪れるようになったんだよ」
お爺さん、何やってるんですか。
ミリアムは思わず頭を抱えた。
「だからミリアムが俺とデートしてくれた時、俺に弱みを見せてくれた時、俺に縋り付いて来てくれた時、すごく嬉しかった。君の一挙一動がすごく大切だった。離したくないと思った」
「こんなの……でもこんなの、おかしいです」
「おかしい? ――自分でもそう思う」
ディアンは微笑み、一歩近づいた。
「でも、もう自分じゃどうしようもないんだ。君のことが頭から離れない。もうこの気持ちを止めることはできない」
「――っ」
「始めは、見てるだけで良かったんだ」
悲しげにディアンが笑う。
「でも常連客が話してるのを聞いてしまった。ミリアムが男に告白されたようだってね。その時初めて気づいたよ。ミリアムが他の男の物になる可能性があるんだってね」
そうしてその後、私に告白してきたということか。
あの時のことを思い出して、ミリアムは項垂れた。
本当に、すっかり騙されてしまった。あの時はディアンが優しくて紳士的で、始めから好印象だった。にもかかわらず、その実態はこれだったのか。
「ミリアム……」
その笑顔が、今は恐ろしい。
「ひゃ……!」
思わずミリアムが一歩下がると、手が何かに触れた。
「これ……」
「ああ、仕舞い忘れたんだね。失念してたよ。中に入れておかないと埃被っちゃうのに」
これは夏の暑いあの日、ミリアムたちが植物園でデートしたあの日、ミリアムが渡したハンカチだった。ミリアムが汗を拭き、その後ディアンに渡したもの。確かその後、洗って返すと言っておきながら、勿忘草の刺繍が施された新しいハンカチを贈られた。てっきり渡したハンカチは捨てたものと思っていたのだが、それがなぜ、今ここにあるのか。
「ま、まさか」
ミリアムはごくりと唾を飲み込んだ。あり得ない。普通の人ならば、絶対にやらないだろう。しかし、しかしだ。この異常な空間を作り上げた彼なら、あり得るのではないか。そう思ってしまった。
「さすがに……洗い、ましたよね?」
「ん? 何を?」
ミリアムは固まった。
ここで普通、何をという疑問が出てくるだろうか。今ミリアムが手にハンカチを持っている、この状況で。はぐらかしているようには見えない。どちらかというと、いかにも不思議そうな顔で――。ミリアムはそれ以上問うのが怖くなった。
「というかミリアム……その背中はどうしたんだ?」
「え……」
「駄目だよ。若い女の子が無防備に肌を晒すなんて」
言いながら、ディアンはゆっくりと一つずつボタンを付けていく。その手付きがあまりにも扇情的で、ミリアムは身震いをする。
「ほらできた」
「あの……」
「ん? どうし――」
「ごめんなさい!」
瞬時に逃げ出した。それこそ脱兎のごとく。
「ミリアムっ!」
一瞬の隙をつけたおかげか、ディアンに捕まることなくミリアムは部屋から脱出することができた。次はこの邸宅から。
もともと初めて来たこの大きな邸宅の中で、真っ先に出口を見つけられるわけがない。それは分かっていた。しかし、時に人はものすごく運が良い時がある。この時のミリアムは脇目もふらずに走ったのだが、運が良かった。すぐに階段を見つけ、降りた先には出口があった。メイドたちが幾人か掃除をしていたようだが、構わない。その間をすり抜ける様にしてミリアムは逃げ切った。後ろからディアンの呼ぶ声が聞こえてきたが、振り返らなかった。