08:変化 −3−
ディアンは、逃げる様に出て行くミリアムの姿を慌てて追いかけた。途中でダリルの呼び止める声が聞こえるが無視だ。今はただ、彼女のことが心配だった。
ミリアムは、案外すぐ見つかった。フラフラな姿で人ごみを掻き分けようとしていたが、逆に翻弄され、人ごみからはじき出され、そのまま転んだ。
「あっ……」
整備された石畳でないそこは泥だらけで、ミリアムの簡素な服はすぐに泥で汚れてしまった。
「大丈夫ですか!?」
ディアンは慌てて華奢な体を起こす。彼女の瞳は虚ろだった。
「あの……ミリアムさん」
放っておけない。こんな彼女を。
「この近くに俺の家があるんだ。良かったら、そこで休憩しませんか……?」
「いえ……私は――」
「大分疲れてるように見える。休んだ方が良い」
ディアンとしては、ここは譲るつもりはない。ミリアムもその気配に気づいたのか、それとももうどうとでもなれと思っているのか、こくんと頷いた。
「良かった。じゃあ辻馬車を呼ぼう」
ディアンが馬車を探している間も、馬車に乗った後も、ミリアムは常時ボーっとしていた。しかし馬車が動き出して初めて、その懐かしい感覚に思考が呼び戻された。
馬車に乗るなど、一体いつぶりだろうか。両親と街へ出かけるときはいつも馬車だった。窓から景色がどんどん流れる様が面白くて、いつもはしゃぎながら窓にくっついた。そのたびに、危険だからと父親に窘められたものだ。
あの頃が懐かしい。両親も婆やもいて、何も心配することなくただ毎日を過ごしていたあの頃。
ディアンが心配そうに見つめる中、ただひたすらミリアムは懐かしい思い出を、外を、眺め続けていた。
*****
馬車が止まったのは一つの邸宅の前だった。決して大きくはないが、それでも立派な門構えだ。
「お帰りなさいませ」
執事、メイド数人が並び、主人の帰宅を迎える。ディアンがそれに軽く頷くと、すぐに執事に顔を向けた。
「簡単に食べられるものを部屋に持ってきてほしい」
「かしこまりました」
ディアンは躊躇もなく中に入り、真っ直ぐ自分の部屋を目指す。その間もミリアムはのろのろと彼の後をついていった。
部屋に着いてソファに座り、やっと一息つこうかつくまいかという時に、ノックがされた。
「軽食をお持ちしました」
「ありがとう。その辺りに置いといて」
何と素早い行動だろう。彼が用事を言いつけてからまだ十分と経っていないだろう。ディアンはいつものことながら感心した。
「ミリアムさん、お腹空いてたら遠慮なく食べてね」
彼女はこくんと頷く。しかし手は伸びそうにない。ディアンは諦めて彼女に向き直った。
「ミリアムさん、一体どうしたの?」
ミリアムは沈黙する。
どうせ彼に話したって何の意味もない。彼に話したって、事態が好転するわけがない。何より、私が記憶を食べて生きているなんてそんな話、誰が信じてくれるというのだろうか。
ミリアムは静かに首を振った。
「話したら……きっと楽になる」
ディアンはおずおずと話し出す。
「何もできないかもしれないけど、それでも俺はミリアムさんの役に立ちたい。支えたいんだ」
ミリアムは目を閉じる。そしてそっと口を開いた。
「私……両親から捨てられてしまったんです」
分かってもらおうなんて思っていない。ただ、聞いてもらおうと思った。
「でも、でも、別に両親が悪いわけじゃなくて、絶対にそんなことはないんです!」
ミリアムは強く否定するかのようにディアンの方を向いた。彼は優しく微笑み返してくれた。
「……両親は、私に関する記憶だけを失ってしまったんです。だから私は捨てられてしまった」
こんな荒唐無稽な話、誰が信じるというのか。しかしディアンは黙って聞いていてくれる。
「でもそんな時、お爺さんが私のことを拾ってくれて。家に置いてくださったんです」
「…………」
「なのに最近、お爺さんの物忘れが激しくなってきてるんです。きっと、きっとまた両親の様に私のことを忘れるんじゃないかって――!」
「ミリアム……」
ディアンがミリアムを抱き締める。
「大丈夫。お爺さんは大丈夫だよ。ちょっと具合が悪いだけだ」
「でも……でも」
「俺が傍にいるから」
ミリアムは唇を噛んだ。
どうとでも言える、そんなこと。
私があなたの記憶を食べつくしてしまうかもしれないのに。そんなことになっても、この人は傍にいてくれるのだろうか。
誰も答えてくれない問いを、ミリアムは呑み込んだ。
*****
「落ち着いた?」
執事が持ってきた紅茶を差し出し、ミリアムの髪を優しく撫でる。
「はい……」
「着替える?」
「え……?」
「その恰好。いつまでも汚れたままじゃ気になるでしょ?」
そう言われて初めてミリアムは今の自分の恰好に気付いた。先ほど転んだ時のまま――泥だらけのままだった。
「あ……! すみません、ソファもディアンさんも汚してしまって」
「いいよいいよ、気にしないで。弱ってるみたいだったから、話を聞いてからの方がいいかなって思ってね」
「すみません、本当に」
「気にしないで。部屋を移動しよう。近くの部屋に女物の衣服が置いてあるんだ」
言われるがままミリアムは彼の後についていった。いくつか角を曲がり、小部屋に辿り着く。その部屋には、質素なドレスから豪華なドレスまで一通り揃っていた。ミリアムは思わず足をすくませる。
「ほら、好きなのを選んで」
「え……でも」
「どうせ着る人なんていないから。ほら、どうぞ?」
「…………」
しかし、いつまでもミリアムの汚れた服でこの格式高そうな邸宅を汚すわけにもいかない。ミリアムは決心して近づくと、簡単に目を通す。できれば、動きやすそうで、シンプルなもの。
ミリアムが手に取ったのは、飾りも色も控えめな、手触りの良いドレスだった。
「それを選びそうな気がした」
「え?」
ミリアムは思わず隣を見上げた。
「何でもない。じゃあ俺はさっきの部屋に戻るよ。ドレス着るのを手伝って欲しかったら呼び鈴を鳴らして。メイドが来てくれるから。部屋にも案内してもらえるよ」
「はい。あの、ありがとうございました」
ひらひらと手を振り、ディアンが部屋から出て行った。それを見届けると、ミリアムは一人で服を脱ぎだした。そして先ほどのドレスを手に取り、ため息をつく。こんなキラキラとしたドレスはいつ振りだろうか。あの頃は、当たり前の様に毎日着ていたが、今となってはこのように動きにくいドレスよりも、ミリアムが普段着ているような服の様が着心地が良かった。もちろん、こちらのドレスの方が手触りも質も格段に上であることは分かっていたが。
あの頃は侍女に当たり前の様に着せてもらっていたが、今はもう恥ずかしくてそんなことはできない。無理矢理一人で着てみた。背中にいくつか設けられているボタンは、どんなに頑張っても二、三個しか付けられなかった。といっても、誰も自分の背中など気にしないだろうと思って放っておいた。
自分が着ていた服は、泥がついている部分を内側にして畳んで手に持った。そしていざ帰ろうと呼び鈴を探すが、パッと目のつくところには見当たらない。何だかメイドの手を煩わすのも申し訳なくなって、ミリアムはそっとその部屋から出た。だいたいの部屋の場所は覚えていたから、一人でも行けるだろうと甘く見ていた。
しかし思ったよりこの邸宅は似たような扉のデザインが多く、案の定道に迷ってしまった。こんなことなら、呼び鈴を意地でも探せばよかった。
二つの扉を前にして、ミリアムはうーんと唸る。確か、ディアンの部屋はこの二つのどれかだったように思う。だいたい、その他の扉はよくよく見れば微妙に意匠が違っていたのは次第に分かってきたが、この二つはそっくりと言うのはどういうことだろうか。そっくりと言うか、同じものだ。ものすごくややこしい。
ミリアムは自分の心に従い、右に狙いを定めた。
「ディアンさん?」
ノックをしてみるが、返事はない。寝ているのかもしれない。少し、少し覗くだけ。
「し、失礼します」
おずおずと扉を開けた。ディアンの部屋と同じくらい広さだった。それに、調度品が圧倒的に少ない。やはりここではないようだ。落胆して扉を閉めようとする彼女の瞳に映る、一枚の肖像画。
ミリアムは吸い寄せられるようにそれに近づいた。
描かれているその人は、女性の様だった。滑らかな金髪に、翡翠色の瞳。優しい筆触で描かれた彼女は、とても穏やかに微笑んでいる。
でも、どこか見覚えがある。しかも、もしかしたら毎日見ているかもしれない彼女。見間違いかもしれない。しかし、紛れもない金髪と翡翠色の瞳を持つ彼女。
その小さな部屋には、ミリアムの肖像画が飾られていた。