08:変化 −2−
厳かな扉の前に立つ。見慣れない大きな扉に、人知れず緊張した。男性はノッカーを叩き、軽い調子で扉の向こうに声をかけた。
「ディアン、今いるか?」
「……ああ」
扉の向こうからは、最高に不機嫌な声が聞こえた。ビクッとミリアムは肩を揺らす。そしてつい男性の裾を掴んだ。
「あ、あの……やっぱりいいです」
「え? 何で?」
今まさに扉を開こうとしていた男性は、拍子抜けしたようにミリアムの顔を見た。
「いえ……何だかディアンさん忙しそうですし、私がお邪魔するのも申し訳ないです」
何より、あの不機嫌な声に怖気づいてしまった。今までずっと優しい声で語り掛けてきてくれたからこそ、先ほどの声が恐ろしかった。ただでさえ精神が弱っているというのに、ディアンにまで拒否されてしまうなんて考えられない。
「そんなことないって、大丈夫だよ。今ちょっと取り込んでて機嫌悪いだけだから。君に会ったらすぐに元気になるよ」
「いえ……でも」
「――何か用でもあるのか。さっさと入れ」
「……ほら、あいつもああ言ってるようだし」
「ぜ、絶対何か怒ってますって! 私無理です!」
もう諦めよう。今日はどこか他のところに泊まって、また明日来よう。クルッと身を翻し、ミリアムが帰ろうとすると、今度は男性が彼女の腕を掴む。
「いや、本当そんなこと言わないで。ここで帰しちゃったら俺が怒られるから」
「でも……!」
「おいダリル、俺は忙しいんだよ。何をして――」
声がすぐ近い。ひゃっと二人して飛びのいた。陰気な雰囲気を纏わせたディアンが立っている。二人を見下ろしているその瞳は、徐々に開かれていった。
「――ミリアムさん!?」
驚いたようにディアンが口を手で押さえる。ミリアムは引きつったような笑みを浮かべて頭を下げた。
「あの、すみません。お忙しい時に」
「あ……いや、それは別にいいんだけど」
ディアンは照れたように頬をかく。そんな様に男性はニヤリと笑みを浮かべ、ミリアムに右手を差し出した。
「あ、そういえば自己紹介がまだだったね。俺はダリル。ディアンの同僚だよ」
「あ、よろしくお願いします」
「ね、ディアンとはどうやって知り合ったの? こいつ何も教えてくれなくてさ」
「あ……っと、それは私が働いてるしょ――」
「ミリアムさん、何も言わなくて大丈夫」
静かな声のディアンに遮られる。怖気づいてすぐに口を閉じた。
「それにダリル」
「な、何だよ」
「……その手は何」
「え……え? 何が?」
戸惑ったようにダリルは聞き返す。そうして己の手をそろそろと見下ろす。ミリアムの細い腕を掴んでいる、己の手。
ダリルが慌ててミリアムの腕を離すよりも早く、ディアンは黙ったままビシッと彼の腕に手刀を下ろした。
「ええっ、ちょ、何すんの!」
「……何か気分を害した」
「いや、ミリアムさんがそうなるのなら分かるけどなんでお前!?」
「用は済んだろ。もう帰っていいよ」
「俺の扱い酷くない!?」
ダリルはまだ痛む腕をさすりながら、でもディアンは怖いのですごすごと退散した。ミリアムは慌ててその後ろ姿にお礼を述べた。
ディアンはダリルが姿を消したのを見届けるとすぐに振り返り、ミリアムに深く頭を下げた。
「あの、すみませんでした。お騒がせして。大丈夫でしたか? 酷いことはされませんでしたか?」
ミリアムはディアンの変貌ぶりに拍子抜けする。いや、実はこの場で一番驚いていたのは彼女を連れてきたダリルであったのだが。
「い、いえ! あの人にはここまで連れて来てもらったので、感謝しています」
「そうですか? ならいいんですけど」
ディアンはいかにも腑に落ちないといった顔をしている。ミリアムは少しダリルを不憫に思った。
「汚いですけど、とりあえず中へどうぞ」
「あ、はい」
ミリアムは緊張しながら部屋に入った。仕事場にまでのこのことやって来るなど、なんで不躾な女だと思われただろうか。
書類は机の上だけでなく、あちこち床にまで散らばっている。ディアンの顔もどこかやつれているように見えた。きっとずいぶん疲れているのだろう。
「あ……ディアンさん、本当にお忙しい所お邪魔してしまってすみません」
どうしてもこの部屋の惨状を見てしまうと、言わずにはいられなかった。深く頭を下げる。そんな彼女に慌ててディアンは手を振る。
「いやいや、来てくださって俺は逆に感謝しています。引きこもってばかりですっかり行き詰っていたので」
しかしミリアムは自分のことしか考えていない。お爺さんのためと言いながら、実は忘れ去られたくない自分がいて、そのためにもディアンの記憶を奪おうとしている。
自分の考えに更に嫌気がさして来て、ミリアムの表情は浮かない。
「何か、あった?」
彼の優しい声が降ってきた。
「え……っと」
何も考えてきていない。そもそも、ミリアムはディアンの記憶を頂くことだけを目的にやって来たのだから、建前上の目的は何もなかった。瞬時に焦る。
もうこのままやってしまおうかという思いが駆け巡る。ディアンも忙しそうだし、何よりミリアムが申し訳なくて居たたまれない。
決意を固め、ミリアムは真っ直ぐにディアンを見つめた。彼のきょとんとした瞳がミリアムを見下ろす。
少しだけ、少しだけもらおう。だって、彼は私が記憶を奪っても、全然平気なんだから。
少しくらいなら、お爺さんの記憶に手を付けないよう、少しだけなら、彼も気を失うことは無い。多少違和感はあるかもしれないが。
ミリアムはそっと彼の記憶を取りこんだ。ほんの少しだけ。また今度会った時にもらえばいい。今は、たった少しでいい。
今回は以前の様に気を失うこともなく、ディアンはきょとんと立ったままだ。
「……ミリアムさん?」
「すみません、ディアンさん。ちょっと顔が見たくなっただけなんです」
「え……?」
「もう、失礼しますね」
かなり失礼だとは思う。仕事場にまで押しかけてきて、でも用はないから帰るなど。
しかしミリアムは背中を向けた。もうこれ以上迷惑はかけたくない。
「あの……ミリアムさん?」
そんな彼女に、ディアンは静かに声をかけた。
「なぜあなたがここにいるんですか?」
「え……?」
「いや、すいません。ちょっと混乱してるのかも。ここで書類の整理をしていたらいつの間にかあなたがいるものだから、びっくりして。何か用があったんですか?」
「あ、の……」
声が震える。
「私……ダリルさんにここへ案内してもらって」
「ダリルに? ああ、そうなんですか」
ディアンがにっこりと笑う。ミリアムはそれに反応できない。
なぜ今になって。そんな思いが胸を貫く。
この前は――本当に記憶が失ってほしい時は無くなってくれなかったくせに。どうして今になって。
どうして、こんなにもディアンの存在がかけがえのないものになりつつある、今になって。
「何か用があったんですよね? どうぞ座ってください」
椅子を勧められるが、ミリアムは首を振った。扉の方へ後ずさる。
「わ……私、もう失礼します」
「もう? 本当に今日はどうしたんですか?」
「――ごめんなさい!」
いきなりミリアムは身を翻すと、扉を開けて飛び出した。
「待って! ……あっ!」
急いで追いかけようとするディアンの足に書類が絡みついた。舌打ちして慌ててそれを取り除く。その瞬間にもミリアムの姿はどんどん遠ざかっていく。
「ミリアムさん!」
もう一度ディアンが大きく呼びかける。ミリアムは、その声すら届いていない様子で、脇目もふらずに駆けていった。