08:変化 −1−
それから、穏やかに日々は過ぎていった。
ディアンは忙しい身ながら暇を見つけては書店にやって来てくれた。二人でカウンターで談笑したり、外を散歩したり。常連客達にからかわれたり、グリンダにニヤニヤ笑われたり。お爺さんにディアンとのことを聞かれたり、ミリアムが動揺して食器を落としたり。――もちろん、ディアンとは付き合っているわけではないので、咄嗟に言葉を濁した。胸が痛んだが。
時間はゆっくりと過ぎていたように思う。もしかしてこの時は、今までミリアムが生きてきた中で一番幸せな時間だったのかもしれない。
しかし、幸せな時間もあれば、残酷な時間もある。あの頃のように、変化は、兆しは着々と表れていた。それに一番早く気づいたのはミリアムだった。その変化に敏感なのは、当たり前のことだ。辛く寂しい子供時代を送ったミリアムなら、気づくのも当然なのだから。
「そういえば……あれ、どこにやったかなあ」
「お爺さん?」
その時、何やら彼は探し物をしているようで、タンスやら机やらをごそごそしていた。始めは、ミリアムも特に気にしていなかった。
「何を探してるんですか?」
「ほら、あれだよあれ。……名前、何だったかなあ」
背筋が凍った。食器を拭いていた手が止まる。
「度忘れですか……? もう、止めてくださいよ」
きちんと笑えていたかどうか分からない。引き攣っていたように思う。
「いや……本当何だったかな」
食器を置き、彼の姿を見やる。いつも通りに見えた。しかし、その変化は目に見えるわけではない。ミリアムの知らぬところでゆっくり、しかし着実に動いていくのだ。あの頃のように。
「ああ、見つかった見つかった、これだこれ」
そう言ったお爺さんは、嬉しそうにカフスボタンを手にしていた。あれは確か、亡くなったお爺さんの奥様からの贈り物。今も昔も、とても大切にしていたもの。その場所が、分からなくなったというのか。
「――仕舞った場所くらい、きちんと覚えておいてください」
「そうだなあ。いやはや、お恥ずかしい」
お爺さんは照れたように笑う。しかしミリアムは、つられて笑うようなことは無かった。
少しでもおかしいと思ったら、すぐに行動するのが最善だ。しかし、ミリアムは現実逃避してしまった。きっと気のせいだろうと。あまりにも今の生活が居心地よくて、見ない振りをしてしまった。だがその間も、お爺さんにその兆候はどんどん表れていった。つい一時前にミリアムが言ったことを忘れ、日付を忘れ、物忘れも酷くなってきた。しかも当の本人に、その自覚はない。
その時が来てしまったのだと、ミリアムは悟った。
ついに、私はお爺さんの記憶にまで手を付けてしまったのだ。
思い返せばミリアムは、最近記憶の食事をしていなかった。それも数週間にもわたってだ。しかしそれもそのはず、なぜなら以前、ディアンから胃もたれを起こすほど大量に記憶を頂いたからだ。漠然と、まだ新たに食事する必要もないと思っていた。だが現に今、お爺さんは記憶に穴が開いてきている。それは、他でもないミリアムのせいだ。
「あの……お爺さん」
「ん? どうした?」
「ちょっと……今日一日、店番をお願いしてもいいですか」
「別に構わんが……」
「私……ちょっと用事が」
ミリアムは言いよどむ。もう今となっては数秒も無駄にはできない。いつの間にか記憶を奪ってしまう自分の力が恐ろしかった。まだ全然お腹が空いている感覚はないのに。それなのに、お爺さんは記憶を失ってきている。
ミリアムは耐え切れなくなって家を飛び出した。目指す場所なんてない。私の居場所は、お爺さんのところにしかなかったのだから。
過ぎ行く人々に、ミリアムは手あたり次第に声をかけていく。
ミリアムに愛想よく付き合ってくれる者もいれば、素っ気なく無視する者もいる。皆等しく記憶を頂いた。大分時間がかかったが、数十人分の記憶をお腹に収めた。しかし、未だ不安が残った。これで、お爺さんの記憶は食べることは無いという保証はないのだから。
以前は、もっと満足感があった気がする。さすがに満腹とまではいかないが、それでもこれくらいなら大丈夫と言う不思議な安心感があった。しかし今は、それがない。どれだけ食べても焦燥感が、不安がミリアムを襲う。
もしかしたら私は、あの人の記憶に慣れ過ぎてしまったのかもしれない。愛情が溢れていて、美味しく、甘いあの記憶に。
……それなら、もう行くしかないじゃないか。
ミリアムははたと立ち止まった。すれ違う通行人たちが皆迷惑そうに彼女を見、避けていく。
彼の記憶を、食べるしかないじゃないか。
彼は、どんなに記憶を食べても私のことを忘れない。あの人なら、いくら食べても……。そうだ、あの人でいいじゃないか。食べるなら、あの人の記憶を。あの人なら、きっと食べても食べても無くならない。
そうだ、彼の記憶を食べよう。
ミリアムはふらふらと歩き出した。空っぽな頭には、ギルティ商会と言う単語だけが浮かぶ。場所は分からなかったが、ちょっと物知りそうな老人に聞けばすぐに分かった。この辺りでギルティ商会と言えば、大変有名なのだから。
*****
ミリアムは大変立派な門構えの前に立った。入るのすら気後れしてしまうそう。しかし今のミリアムの頭にはそんな感情などない。あの人の記憶、それだけしか頭にはない。
ふらふらっと建物の中に入ろうと歩み寄る。しかし、警護をしているらしい男にすぐに止められた。
「ご用件は何でしょうか」
「あ……ディアンさん、いらっしゃいますか」
おずおずと口を開いた。今更ながら、自分が知っているのは、彼の名前と職場だけだということを悟る。彼のことなんて、まったく知らない。自分のことで精一杯で、知ろうとも思わなかった。
「はい。おりますが」
「わ、私、ミリアムと申します。ディアンさんに……お会いしてくて……」
「面会のご予約はされましたでしょうか」
「し、してないです」
尻すぼみに声が消えていく。目の前の男の表情が硬くなった気がした。
「申し訳ございませんが、ご予約のない方にお取次ぎはできない規則となっております。どうか次回からは、ご予約をしてからいらっしゃってください」
「あ、の……そこを何とか」
「申し訳ございません」
感情のない声で男は謝る。ミリアムはきゅっと口を結んだ。どうすれば、どうすればいいのか。それだけが頭の中をぐるぐると回る。
「――どうしたんだ?」
声が上から降ってきた。バッとミリアムが振り返ると、短髪の若い男性が立っていた。ディアンと同じくらいの年ごろだ。ディアンではないことに、ミリアムはこっそり落胆した。
「この方がディアンさんにお会いしたいと」
「ディアンに?」
男性の視線が、ミリアムを値踏みするかのように上から下へ移動した。固唾をのんで見守っていたが、やがて男性はにっこりと笑った。
「ああ、もしかしてパンプキンパイの?」
「パンプキンパイ……?」
「そうそう。君さ、もしかして以前ディアンにパンプキンパイ贈ったミリアムさんだよね?」
「は、はい。確かに私はミリアムですけど……」
おずおずとミリアムは頷いた。同僚の人にもなぜ伝わっているのだろう。僅かに不思議に思った。
「それなら俺が取り次ぐよ」
「え……? いいんですか?」
「もちろん。ここで取り次がなかったら俺が怒られそうだ」
「ありがとうございます……!」
男性に連れられるようにしてミリアムは建物の中に入った。見かけとは裏腹に、中は騒然として、あちこちを人が行ったり来たりしている。
「ちょっと今立て込んでてね。うるさいけど気にしないでね」
「……あの、すみません。そんな時にお邪魔してしまって。すぐに帰りますから」
「いやいや、大丈夫。あいつにも休息は必要だと思うから、ゆっくりしていってよ」
「……はい」
ならなおさら早く出て行かねば、と思う。
ミリアムはディアンに休息を与えるどころか、むしろ自分の糧にしようとしているのに。
ディアンにもこの男性にも悪いことをしているような気分になって、ミリアムは更に縮こまった。