07:不調 −3−
ミリアムはその日、緊張しながらカウンターに座っていた。手には碌に読んでもいない本を開きながら。
読書しようにも、今の彼女の精神状態は穏やかでなく、目は大人しく文字を追ってくれないのだ。すぐに思考も彼方へと飛んでしまう。しかしかといって読書している振りでもしていないと、またあのうるさいグリンダがこれ幸いと話しかけてきてしまう。気持ちを落ち着かせるためにも、今は一人静かにしていたかった。
今日、来てくれるという保証はない。これが明日まで持つのかどうかも分からない。本当ならな約束をしてから作ってきた方が良かったのかもしれない。が、我慢することができなかった。思い立ったら、何も考えずにすぐに作ってしまったのが敗因だろう。今更ながらミリアムは後悔の念を抱えるが、もうすでに遅い。どんと構えることにする。
――と、思ったの束の間、いざ目的の人物が書店に入ってくると、突然意味もなく広げていた本に顔を埋めた。
「ミリアムさん?」
瞬時に後悔する。何だこの子供っぽい反応は、と思った瞬間顔をガバッと上げ、本を閉じる。何もなかったかのように本を傍らに置こうとしたところで、騒がしく動いていた腕が、カウンターの上に置いておいた紙袋に当たる。瞬時にミリアムはひゃっと情けない声を上げた。すぐに中身が大丈夫かどうか覗き込んで確認する。嬉しいことに、中の箱はどこも潰れていない。思わず安堵の息を漏らした。
「あ……あの? どうかしましたか?」
ディアンが困惑しながら声をかけてくる。ようやく目の前の人物を思い出し、背筋を伸ばした。
「あ、あの、ディアンさん、おはようございます」
「おはよう」
にっこりと微笑んでディアンが挨拶をしてくれる。それだけですごく嬉しくなった。
「あ、あの、ディアンさん。もしよろしかったらどうぞ」
顔を俯かせてミリアムは紙袋を差し出した。
「え……?」
困惑している彼に、なおも紙袋を押し付ける。おずおずとディアンはそれを受け取った。
「これ……」
「先日頂いたカボチャで、パンプキンパイ作ってみたんです」
早口で言う。
「お口に合わないかもしれませんけど、良かったら」
「……ありがとう」
「い、いえ……」
「大切に、食べるよ」
優しい声に、ミリアムは黙って頷く。二人だけの周りに、甘い雰囲気が漂う。
彼らのやり取りを見ていたグリンダが、それを黙って見ているわけもなく、唇を尖らせて後ろから顔を出した。
「いいないいな〜。ミリアム、私の分は?」
「ないです」
「ちぇっ、ケチー」
グチグチと言うと、早々にグリンダは顔を引っ込めた。珍しく空気を読んだのかもしれない。――いや、始めに口を出してきた時点ですでに空気は読まれていないのだが。
「実は今日は顔を見に来ただけなんです。最近少し忙しくて」
「そうなんですか?」
「はい。あまり居られないので、寄ろうかどうか迷ったんですけど……来てよかったです。まさかミリアムさんお手製のものが頂けるとは思いもよらなかったので」
「……そんな大したものじゃないです。あまり期待しないでください」
「そんな。大切に頂きますよ」
「……はい」
あんまりディアンが嬉しそうな顔なので、逆にミリアムの方が恥ずかしくなってくる。
「じゃあもう今日は失礼します。また数日後に来ます」
「あ……はい。お仕事頑張ってください」
「はい。ミリアムさんも」
ミリアムが頷くのを見届け、ディアンは店の出口に立った。
「じゃあまた」
「はい、また今度!」
ミリアムはぺこっと頭を下げ、ディアンは軽く手を振る。
若い二人の可愛らしい別れ方に、野次馬たちは何を言うでもなく、ほうっと息を吐き出した。しばらく見ないうちに、随分な雰囲気になったなあと。
すると突然ミリアムがこちらを振り向くので、皆一斉に明後日の方向を見始めた。さすがに好奇心丸出しで見ていたなど知られたくない。
「皆さん、これ良かったら食べてください」
ミリアムは傍らからもう一つ紙袋を取り出し、常連客達に渡した。彼らの目は一気に輝く。
「え、俺たちもいいの?」
その一言で、先ほどのやり取りを固唾をのんで見守っていたことなど丸わかりだ。しかしミリアムは深く考えることをせずに大きく頷く。
「もちろんです。最近何かとご迷惑、ご心配をおかけしていますから」
「うわー、感激だ。きっと今日来てない奴ら、死ぬほど悔しがるぞ!」
大勢の老人やら男やらが紙袋に群がった。その様を苦笑しながらミリアムは見る。場が一体化している間、しかし一人だけ置いてけぼりな者がいた。
「え……え!? ちょ、ミリアムさん!? 私が聞いた時無いって言ったよね? え、私だけ無いってこと? ひどっ、え、そうなの!?」
言わずもがなグリンダだ。
「グリンダさんも良かったら食べてください」
変わらぬ笑顔に、グリンダは思わず息をついた。今までからかったりおちょくったり空気を読まなかったりと、散々なことをしてきている自覚はあったので、ホッと胸を撫でおろした。
「も……もう! びっくりさせないでよ!」
慌てて自分もパンプキンパイにありつこうと歩きかけるが、ふと思い出してミリアムに向き直った。最近感じていた疑問、思い、不思議をこの際ぶつけてみようと思ったのである。
「そういえばミリアムさ、随分女の子らしい表情するようになったね」
「へ!?」
何を言うかと思えば、拍子抜けするような内容で、ミリアムは言葉通り目を丸くする。
「自分で気づかない? ミリアム、最近随分表情の変化が多いよ。見る度にくるくる変わる」
「は……あ、そうなんですか」
手で頬を触ってみる。自分では特に何も思わなかった。確かに、ディアンの一挙一動に揺さぶられているような思いはあったが、それほど自分は分かりやすかったのだろうか。
「あの……でも」
しかしそれよりもミリアムには気になることがあった。
「以前の私って、そんなに表情が乏しかったんですか?」
ミリアムの問いに、今度はグリンダが固まった。
「……え、自覚なかったの?」
「はい」
グリンダは何も言わずに手で顔を覆った。うーんと唸る声も聞こえる。
「はー、そうなんだ。てっきり自覚あるものだと思ってたわ」
「自分ではそんなつもりなかったんですけど……」
「そっかー、そうなのかー」
落ち着くためにグリンダはうんうんと頷いた。全然納得しているようには見えなかったが、彼女はコホンと咳ばらいをした。
「最初ミリアム見た時ね、私驚いた。あんなに小さいのに、全然笑わないなって」
「そ、そうでしたか……?」
「うん、そう。あの頃は全然笑わなかった。心配になるくらい」
「はあ……」
「そりゃあジョセフさんといる時は違うわよ? 子供っぽく無邪気に笑う姿も時々見かけた。でもその他の人――今では親友第一号に名を馳せるこのグリンダさんでも、ミリアムはあんまり笑ってくれなかったし」
グリンダの得意げな笑みに突っ込みすることすらしない。それほど衝撃的だった。
「そ……そうですか……」
「こんなに小さいのに笑わないって、いったい何があったのかすごく不思議だった」
ミリアムは微かに顔を曇らせる。
確かにあの頃は、心境的には今以上に辛かったはずだ。実の両親から忘れ去られ、そして彼ら自身の手で家から追い出される。辺りを歩いてみても、出会った人にはすぐ忘れ去られる。途方に暮れ、全てに絶望していたあの頃。
「でもさ、まだミリアムはジョセフさんには心を開いてるようだったから、全ての人を拒絶するよりはいいのかもって思ってた。世の中には、常時笑顔を浮かべて、でも実は誰も頼ってない、誰にも心を開いていないなんてのもいるからね」
そうなのだろうか、とミリアムは思考を飛ばすが、身近な人にはそんな人はいなかったと思いなおす。何しろ、自分の世界は狭かった。
「でもね、そんな時に真っ直ぐにミリアムだけを見つめるディアンの存在に気づいてさ。あ、知ってた? 彼、随分前からミリアムのこと気になってたんだよ」
「は、はあ!?」
突然の話の方向転換に、ミリアムはビクッと体を揺らす。
「ミリアムが気になってるだろうってのは薄々気づいてたんだけどね、まさか衆目の場で告白するとは思わなかったなー。その後ミリアムが居なくなって、ジョセフさんと二人で色々と彼の話を聞いてたんだけど、これがまた面白かったなあ。まずミリアムのどこが好きなのかを聞いたんだけど――」
「あ、あの!」
思わず大声を上げる。
「他の方から、ディアンさんのお気持ちを聞くのはちょっと……」
グリンダはきょとんとした。しかしすぐに悪戯っぽい笑みへと変わる。
「なになに、もしかして嫉妬?」
「なっ……! 違います!」
憤慨してミリアムは思わず立ち上がる。しかしそんな彼女の行動も、グリンダにとっては可愛いもの。冷やかすように口笛を吹きながら彼方を眺め出した。人をおちょくってるとしか思えない彼女の態度は、沸々とミリアムの怒りを煮えたぎらせる。
「あの、グリンダさん。本気で怒りますから」
「はいはい、ごめんなさいね。……でも、なんだかんだ言って私相手に本気で怒るのも、初めてだよね」
「そうでしたか?」
「そうだよ。小さい頃はいくら私がちょっかいかけても怒らなかった」
「…………」
「ま、逆にいうと、怒りっぽくなったとも言えるけど」
「グリンダさん」
「ごめんごめん。まあ何はともあれ、良い変化だと思うよ」
グリンダは開けっ広げに笑う。
「いろんな人と出会って、いろんなことを知って、そうして少しずつ自分を彩ればいい」
グリンダの言葉が、ミリアムの胸に繰り返し響いた。