07:不調 −2−
ディアンがコップに水を注ぎ、ミリアムに渡してくれた。有り難くそれを受け取り、喉を潤す。
「もうお腹は大丈夫?」
「はい、もうすっかり落ち着きました。とてもおいしかったです」
「それは良かった」
ディアンは微笑んだ。しかし、どこかその笑みは寂しそうに見えた。何か言おうかミリアムは口を開きかけるが、すぐに閉じた。何を言えばいいのか分からなかった。
「あの、ミリアムさん……」
そうこうしているうちに、ディアンぽつりと呟く。
「俺がこうして会いに来るのって迷惑ですか?」
「え……?」
唐突な言葉に、ミリアムは一瞬頭が真っ白になる。
「この前の帰り際、ミリアムさんがこれで終わりにしましょう、さようならって言ってたじゃないですか。あれって、やっぱり俺が迷惑ってことですか?」
「そ、れは……」
視線を泳がし、ミリアムは言いよどむ。
「迷惑なら、もう二度とあの書店にもいきません。だから、本当のこと言ってくれませんか?」
「めっ、迷惑なんかじゃ……!」
ミリアムはバッと彼を見た。ディアンの瞳が期待に揺らぐ。それを見、瞬時にミリアムはしまったと顔を俯かせる。
彼を期待させてどうするというんだ。ミリアムには、彼の思うような付き合いはできないのに。早く彼の記憶を全て奪って、私のことをすっかり忘れさせてしまうのが、彼にとって一番良いことなんじゃないのか。
でも、もしここで自分の想いを言ってしまったらどうなるのだろう。
ふっとミリアムは考え込んだ。
彼と私は結ばれて、そして、その後はどうなるのだろうか。本当に彼は永遠に記憶を失わないと言い切れるのだろうか。ミリアムの毎日の食欲を全て受け止めるだけの記憶が、彼にあるというのだろうか。
でも現に彼はこうしてミリアムの前に現れた。どうしてか、記憶を失うことなく。それは一つの希望じゃないのか。
しかしミリアムには、まだその先を踏み出す勇気がなかった。
「あの……迷惑じゃ、ないです」
その言葉だけを絞り出す。ミリアムの声に、覇気は無かった。彼を突き放すこともできず、かといって受け入れることもできない。自分は何て酷い人間なのだろうと思う。しかし、大切な人が目の前から去っていく思いは、もう二度としたくない。
「そう……ですか」
ディアンは、どこか寂しそうだった。ミリアムの胸は痛む。
「じゃあ、俺はもう行きます」
ディアンは軽く食器を片付け、盆を持って立ち上がった。ミリアムは慌てて彼を見上げたが、その表情は見えない。このままだと、もう二度と会えない気がした。
「あ、の……」
「――お大事に」
ディアンが頭を下げた。そして背を向ける。ミリアムは、咄嗟に彼の裾を掴んでいた。しかしディアンはそれに気づかず、そのまま歩き出す。そんな彼にミリアムはつられ、ベッドから転がり落ちた。周りの水差しやコップやらを巻き込んで盛大な音を立てる。
「え……! だ、大丈夫ですか!?」
「は、はい……」
膝を強か床にぶつけてしまったミリアムは涙目だ。困った様にディアンはミリアムの腰をさすってくれる。しかしそんな彼にミリアムは縋り付く。
「あ……あの、あの、ディアンさん」
「な、何でしょう」
困惑しながらもディアンはミリアムを抱き留めてくれた。距離が近いとか、ミリアムの頭にはそんなことなかった。ただ、このまま彼を帰すのは嫌だと思った。
「わた……私、別に……迷惑とか……そんなんじゃ、なくって」
拙いながらも、必死に言葉を紡ぐ。
「ディアンさんと会うのは……すごく楽しいから」
恥ずかしくなってきて、ミリアムはディアンの胸に顔を埋めた。そっちの方が恥ずかしいということは、今の彼女の頭にはない。
「また……会いに来てくれると、嬉しいです」
言ってしまった。
ミリアムは今更ながら後悔した。そして罪悪感も芽生える。いつ、ミリアムは彼に見切りをつけるか分からないのに。もしかしたら、今後も彼を自分の道具として見てしまうかもしれないのに。なのに、彼を手放すことなんてできなかった。ずっと傍にいてほしい、そう思ってしまった。
返事がなかなかないことを心配し、ミリアムはおずおずと顔を上げた。
彼の真っ直ぐな瞳と目が合った。そして瞬時に逸らされる。ミリアムは少し落ち込んだ。
「あの……ミリアムさん」
しばらくして、ようやくディアンが口を開く。
「少し、離れてもらってもいいでしょうか」
「す、すみません! 迷惑でしたよね……!」
バッとミリアムはディアンから離れた。ベッドの上に戻るようなことはしないが、壁の端っこへ移動する。
「い、いや、そんなことはないんだけど、ちょっと動揺してしまって。心を落ち着けてもいいですか」
ディアンはそう言うと、彼は更にミリアムから離れた。大人しく彼女はそれを見守るが、少し寂しい気もする。
ディアンは離れたところですーはーすーはーと深呼吸を繰り返した。ミリアムは心配そうにそれを眺める。すると調子が戻ったのか、ミリアムの方へ目を向けた。ディアンとバチッと目が合う。しかし瞬時に視線を逸らされ、再び奇妙な深呼吸が繰り返される。しばらくはこんな状態が続いた。
「あの……大丈夫ですか?」
あまりにディアンが深呼吸を繰り返すので、ミリアムは本当に心配になってきた。おずおずとディアンの方へと近づくと、彼はビクッと身を震わせて飛びのいた。
「いや、ちょ、その……だ、大丈夫です」
しかし視線は逸らしたまま。近づかない方が良いのか、とミリアムはその場でとどまった。そのことで調子を取り戻したのか、ディアンはコホンと咳払いをし、ミリアムに向き直った。いつもの穏やかな表情に戻っていた。
「あの、ですねミリアムさん」
「――はい」
「すごく嬉しかったです。ミリアムさんのお気持ち」
「い……いえ」
改めて言葉にされると恥ずかしい。しかも、よくよく思い起こしてみれば、何と自分は大胆にも、自分から抱き着いていなかったか。我ながら破廉恥な行動をしてしまったとミリアムは一人反省する。
「俺……少し自信なかったんです」
「…………」
「植物園ではすごく楽しく過ごせました。ミリアムさんも、俺の思い過ごしじゃなかったら、楽しんでくれてたように見えて」
こくりとミリアムは頷く。
「でも、昨日は……何だか、別れ際の言葉が意味ありげで……。もしかして、今までの俺の行動も全部、ミリアムさんにとっては迷惑だったんじゃないって――」
「そ、そんなことないです!」
ミリアムは即座に否定する。
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」
まただ。また、あのとろけるような笑み。
これ以上見続けることができずに、顔を俯ける。
「だから、本当は今日来るのも自信がなかったんです。門前で拒否されるんじゃないかって。だからカボチャなんて口実を無理矢理設けて書店に行ってみたら、ミリアムさんが寝込んでるって聞いて」
更にミリアムは縮こまった。寝込んでるなんてとんでもない。体調はすこぶる元気だ。ただ、ちょっと胃の調子が悪いだけで……。
これほど情けないことは永遠に口にできないな、とミリアムは口を閉じた。
「ジョセフさんに頼まれたとはいえ、書店だけじゃなく、家にまで押しかけるなんて、何て図々しい男だろうって思われることは覚悟してました。正直、ミリアムさんの部屋を見てみたいとか、寝込んでるミリアムさんの世話をしたいとか、僅かながらも下心があったりなかったり」
うっとミリアムは詰まる。返答に困るような発言は止めてほしい。しかし、別に嫌ではなかった。そんな自分が少し不思議だ。
「大人しく簡単にお世話だけして帰ろうって思ってたんだけど、実際に目の前にすると、弱ってるミリアムさんが可愛いなとか、食べさせてあげたいなって思い始めて、自分の行動が制御できなくなってきて」
あ……あれ……?
ミリアムは内心首をかしげた。ディアンは、もとからこんな性格だっただろうか。今までに見たことのない彼の片鱗に、ミリアムは少し動揺した。しかしそれもつかの間、再びディアンは穏やかな表情へと戻る。
「でも、いざ正気に戻ってミリアムさんに昨日の言葉の意味を聞いたら、何だか言いづらそうに迷惑じゃないって言うから。きっと優しいミリアムさんは強く断ることができないんじゃないかって思ってしまって」
「…………」
「でも、ミリアムさんが縋り付いてまで本心を明かしてくれて、すごく嬉しかった。迷惑じゃないってわかって、嬉しかったんです」
こくりと頷く彼女の頬は赤い。
「わ……私、こんな経験したことなくって、自分がどうすればいいのかもよく分からなくって。自分の気持ちもよく分からなくって」
踏ん切りがつかない。ここまで来てしまってもなお、ミリアムは彼を手放すことも、受け入れることもできない。
「でも、でもまたディアンさんと会いたいです。また、会いに来てもらえると嬉しいです」
保留にした。汚いやり方だと思う。踏ん切りがつかない自分が恨めしい。でも、この幸福をすぐには手放すことなどできない。
「はい。もちろん」
ディアンは大きく頷いた。ミリアムは複雑な思いを抱えながらも、それに安堵の息を漏らした。二人で、何をするでもなく、しばらく微笑み合った。
「また、会いに行きます」
「は、はい……」
ディアンが帰る時も、その微笑みは絶やさない。そうしてゆっくりと扉は閉じられた。また、という言葉の響きに、とミリアムは一人顔を綻ばせた。