07:不調 −1− 


 太陽がサンサンと東から輝く朝、本来ならば、ミリアムは当の昔に出勤していたはずだった。しかし、ディアンの記憶を大量にお腹に収めた次の日の今日、ミリアムは胃もたれを起こしてしまった。しかもものすごく強烈なやつを。

 決してディアンの記憶がおいしくなかったわけではない。むしろその逆。昇天しそうな、というと大げさだが、とにかく蕩けそうなくらいおいしかった。のだが、一度に大量に取り込み過ぎたのか、はたまたミリアムが貧乏舌だったのかは分からないが、とにかく胃が不調を訴えてしまったのである。始めは何とかいつも通り出勤しようとしたが、お腹が重く、そして吐き気もあるこの状態で歩く気にはなれなかった。

 そうしてお爺さんが心配して見に来るまで、ミリアムは苦しい苦しいと呟きながらベッドの上で寝返りを打つしかなかった。
 ミリアムがこんな調子でも、店番は絶対に必要だ。お爺さんは後ろ髪を引かれるようだったが、何とか説得して店に行ってもらった。お爺さんに迷惑をかけてしまうのはいつものことだが、せめて最近お世話になっている常連客達の憩いの場、あの書店だけは、通常運転していてほしかった。何より、今のミリアムの症状はただの胃もたれだ。そんな自業自得なことで、周囲の人に迷惑はかけたくなかった。

 もしもお爺さんにもただの胃もたれだと伝えておけば、こんなに彼を心配させることもなかったのだろうが、そこは僅かに残っているミリアムの矜持が邪魔をした。ただの胃もたれで動けないというのは自分が恥ずかしいし、呆れられそうで言いにくかった。

 そんなこんなで、ミリアムは数年ぶりに、この小さく静かな家でゆっくりと身を横たえる時間を過ごすこととなった。僅かながらの空腹と共に。もちろん吐き気は未だあるが、しかし食欲がそれでなくなるわけではない。むしろお爺さんの手前、朝食も食べていないので、ものすごくお腹が空いた。

 お腹空いた……と静かに呟いてみる。しかし下へ行って料理をするのも億劫だ。
 ミリアムはボーっとしながら天井を見つめる。ここには本もないので、暇を潰すものが無さ過ぎた。それこそ、寂しく一人で天井の木目を数えるくらいしかすることがない。

 三十四、三十五……と木目を数えていくうちに、次第に瞼もとろんとなって来たので、大人しく目を瞑った。木目のおかげで、すぐに眠りに引き込まれた。

*****

 額にひんやりとした物が置かれた。少々汗をかくくらい暑かったので心地よかった。その後、すぐに頬に温かいものも感じた。――暑い。早く離れてくれないか、と思ったが、それはなかなかミリアムの頬から離れない。僅かに顔を顰めながら、ミリアムは無意識下にそれに手をやった。暑い、さっさと離れてという意味を込めてである。しかし触ってから気づく。それが人の手だと。

 ミリアムの意識は一気に浮上する。

「お……爺さん……?」
 自分のことを心配して帰って来てくれたのだろうか。それならば申し訳なかった。すぐに元気なところを見せて店に戻ってもらおう。

 しかし、彼女と目が合ったのは、垂れ気味のお爺さんの瞳ではない。ここ最近見慣れてきた、でも真っ直ぐには見ることのできない瞳――。

「やあ、ミリアムさん」

 怖い怖い怖い! 何でいるの!?

 ミリアムは目を見開く。そして戦慄する。
 二重の意味で怖かった。なぜ記憶がないはずなのにミリアムののところに来ているのか、そしてなぜ女性の部屋に堂々といるのか!?

「今日書店に行ったら、ジョセフさんに会ってね、ミリアムさんの様子を看てきてくれないかって頼まれたんだ」
「ああ……そうですか」

 それでも未だなおミリアムのこの胸の衝撃は取れない。多分、この先も一生だ。驚きとともに、彼女の記憶に刻み込まれるだろう。

「ミリアムさん、昨日は元気だったのにどうかしたんですか?」
「あ……はい。ちょっと体調が悪くて……」

 まさかただの胃もたれとは言えない。しかもあなたの記憶で、とは。

「何か食べる? 用意してくるよ」
「あ、大丈夫です! そんなにお腹も空いてないですし……」

 立ち上がりかけたディアンを慌てて止める。しかし彼はそんなミリアムを一笑する。

「ジョセフさんから聞いてるよ。朝食も食べてないんだって? それじゃ体力も持たないよ」
「で、でも……」
「実はもう作ってあるんだ。だから食べてくれると嬉しい」
「あ……じゃあ、それならお言葉に甘えて頂きます」
「後さ……」

 ディアンはぽりぽりと頬を掻いた。それを不思議そうにミリアムは見上げる。

「俺は嬉しいんだけど……手を離してもらわないと、下に取りにいけないなーと」

 衝撃の出来事ですっかり忘れていたが、ミリアムは先ほどからディアンの手を掴んだままだった。赤くなって慌てて手を離した。

「わっ、す、すみません!」
「名残惜しいけど」

 いかにも残念そうに首を振りながら、ディアンは階下へ降りていった。まだ波打つ心臓を抑えながら、ミリアムは一旦落ち着こうと深呼吸する。

 なぜ、彼が未だ記憶を持っているのか。本当に分からない。
 以前は確かにあの愛情の深さの記憶を頂くには量が少し少なかったのかもしれない。しかし、前回は違う。ありったけの分を頂いた。にもかかわらず、現に彼はミリアムの目の前に現れ、そして話している。彼に、記憶を失ったような気配はなかった。

「入るよ」
「あ、どうぞ」

 片手にお盆を持ってディアンが現れた。お盆を床に置き、彼も床に直に座る。

「知り合いからたくさんカボチャを頂いたんだ。だから食欲がなくても食べられるように、冷たいスープにしてみた。調子が良かったら食べて」
「あ、すみません。わざわざありがとうございます」
「起き上がれる? 良かったら俺が食べさせようか?」
「い、いいです! 一人で食べられます!」

 にこにこと笑顔で冗談とも分からない言葉を吐くので、ミリアムとしては堪ったものではない。ゆっくりと身を起こして壁に凭れた。
 ディアンからスプーンを受け取り、スープを掬って口に入れた。甘すぎないカボチャのその味は、心地よく口の中に広がった。

「おいしい?」
「お、おいしいです」

 カボチャに負けないくらいの甘い笑みを浮かべている。目を逸らしながらミリアムは答えた。

「これ……ディアンさんが作ったんですか?」
「そうだよ。知り合いに教えてもらったんだ」
「料理……お上手なんですね」
「いや、料理作ったのなんて今までで数少ないし、これだって知り合いに作り方教わったんだ。大したことないよ」
「それでも……すごいですよ。驚きました」

 失礼だが、見た目からは想像できなかった。運動もできそうにないように思える。かなり失礼だが。

「あ、そうだ。下にカボチャいくつか置いてあるから、良かったらジョセフさんと食べて。知り合いからたくさん貰ったから、そのおすそ分け」
「あ、はい。ありがとうございます」

 スープはその心地よい冷たさのおかげで、するすると喉を通る。あっという間にミリアムは器を空にした。