06:困惑 −3− 


「あの……ミリアムさん?」

 ディアンが遠慮深げに聞いてきた。それもそのはず、ミリアムは先ほどから一言も話していなかった。ただ、彼をじっと見つめているだけだった。その様子をディアンの後ろから見ていた野次馬たちは、彼らの良い雰囲気に退散し始めていた。ここは年若い二人を見守ろうと。

 しかし、そんな気の利いたことができるわけもない者が一人。彼女は未だ二人の間に立ちはだかっていた。

「何よ、ミリアム。そんな所にいるのならさっさと出てきてくれてもよかったじゃない。って、しかも今出てきたってことは、私が店に入る前からそこにいたってことよね!? それって酷くない!? 私のこと無視してたの!?」

 今はそんなこと問題じゃない。本当大人しく空気を読んでくれ。
 常連客達は切にそう願った。

 それは、ミリアムも同じだった。

「あの、ディアンさん。この前のこと……覚えてますか?」
 完全無視だった。拳を振り上げて抗議するグリンダのことなど視界にも入れず、ただディアンのことだけを見ていた。

「そりゃあもちろん覚えてるよ。一生忘れられないくらい」
 へにゃっとディアンは笑った。

 一生。その言葉に、ミリアムは胸を高鳴らせた。ただの比喩だ。ただ口をついて出ただけだ。
 そう思っていても、ミリアムはうっと言葉に詰まった。

「ね、ミリアム聞いてる? いい加減私のこと気にしてくれてもいいんじゃないかなー。だってだって、ディアンさんよりも私の方が先にここに来てたんだよ? なのにこの人を先に対応するってどうよ? 私の方がこの店の常連歴長いのにさ」
「ミリアムさん、改めて言わせて。この前は本当に楽しかった。ありがとう」
「い、いえ! 私の方こそ、すごく楽しませてもらって……!」
「あとこれ。あの時貸してもらったハンカチのお礼。本当は洗って返そうかと思ったんだけど、どうせなら俺からの物を贈りたいなって。先日の記念に、良かったらどうぞ」
「え? でもそんな。大したものじゃなかったのに」
「いえ、俺が贈りたかったんです。受け取ってくれませんか?」
「あ……ありがとう、ございます」

 おずおずと丁寧に包装されたそれを受け取る。緊張しながら開けると、中から見事な刺繍が施されたハンカチが現れた。薄紫の小ぶりな花は、植物園の図鑑で見たそれを彷彿とさせた。思わずミリアムはそれに見入る。

「これ、勿忘草……?」
「はい。ミリアムさん、気にかけてたみたいだったから」
「え、でもこれすごく高かったんじゃない? 太っ腹!」

 グリンダがひょこっと顔を出して言った。それすらもミリアムたちは完全無視。

「これ……すごく高そうに見えるんですけど、本当によろしいんですか?」
「そんなことないよ。馴染みの店があるんですけど、そこで一目で気に入っちゃって。本当、大したものじゃないんですけど、使ってください」
「ありがとうございます」

 もう一度ミリアムは深く礼をした。それに慌ててディアンは手を振り、照れる。いかにも青春をしている、と言わんばかりの若者二人だ。

「ねえミリアムー!! いい加減無視するの止めてくれない!? やっぱり私のこと無視するの、この前のことまだ怒ってるからなんだね!? ごめんね、ごめんねー! 謝るから許してよお!!」

 しかしそんな彼らの雰囲気をぶち壊す者が一人。もはや空気が読めないどころじゃない。お邪魔虫。その言葉がぴったりだ。
 常連客達は、即座に行動を開始する。甘い雰囲気を醸し出す二人に黙礼すると、ガシッとグリンダの口をふさいだ。もがもがと抵抗されるが、きわめて静かに、迅速に撤退した。見事なまでの連携っぷりだった。

「じゃあミリアムさん。俺はそろそろ失礼します」
「え……もう行かれるんですか?」
「はい。ちょっと仕事が忙しくて」
「そ、そうなんですか」

 ミリアムは心なしか寂しそうに俯く。そんな彼女に言うべき言葉も思い浮かばずディアンは視線を逸らす。二人の間に気まずげな沈黙が流れた。

「じゃあミリアム、送っていきなさいよ」
 グリンダが唐突に言い出した。器用にも常連客達の拘束をいつの間にか解いている。常連客達は、グッと親指を立てた。珍しく役に立ったと。

「え……でも店番が――」
「焦れったいわね! そんなの私が代わってあげるわよ! ほら、さっさと行った行った!」

 二人一緒にグリンダに背を押され、店の外に追いやられた。

「すみません、グリンダさん」
「はいはい、二人仲良くやるのよ!」

 何だか、グリンダが母のように思えてくる。
 ディアンも同じことを思ったのか、顔を見合わせると、二人一緒に笑い出した。

*****

 送ると言ってもどこまで送ればいいのか分からない。
 二人は行く当てもなく、のんびりと歩く速度を遅めた。

「最近少し仕事が忙しくなってしまって、あまり書店の方にも顔を出す時間が少なくなってきたんです」
 ぽつりとディアンが呟いた。

「でも、グリンダさんからミリアムさんが寂しがってるって聞いて驚きました」
「あ……ちがっ、それ違います! グリンダさんが勘違いしてるというか、別に、そんな……!」
「正直嬉しかった。俺は当然、たった数日会わなかっただけで寂しかったけど、ミリアムさんも同じ気持ちだって聞いて、嬉しかった」

 ディアンは言葉を切った。ミリアムはそっと覗き見る。真摯な瞳とぶつかった。

「――ミリアムさんは違うんですか?」
「あ……いえ……その」

 声が尻すぼみになっていく。そんなに寂しげに問われて、誰が肯定できるだろうか。

「そういえばこの間、俺たちいつ別れましたっけ?」
 しかし、唐突に紡ぎだされた彼の言葉に、更にミリアムは窮地に立たされる。

「恥ずかしながら、緊張していたせいか、いつどんなふうに別れたか覚えていないんですよね。気づいたら公園のベンチで寝ていたし、ミリアムさんはもういないし」
「あ……あの時は、ですね」

 必死に頭を回転させる。

「えっと、二人で話してる時にディアンさんが熱中症にかかってしまって……。そうです、そして気を失ってしまったんです」
「そう……だったんですか。それはすみません。迷惑をかけてしまったでしょう」
「いえいえ! そんなこと!」

 慌てて否定の言葉を口にしながら、しかしこのままだと、ミリアムが病人のディアンを放っておいて家に帰ったかのように聞こえるということに気付いた。
 彼にそんな誤解をされたくなくて、ミリアムは更に必死に言い訳を考えた。

「――で、その後ディアンさんを介抱しようと思って、近くから水をくんで来ようと思ってうろうろしてたんです。でもいざ帰ったらもうディアンさんはいなくって……」
「そうなんですか。すみません。てっきりミリアムさんがもう帰ってしまったのかと……」
「い、いえ! 黙っていなくなる私が悪かったんです。すみません」
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけしてしまって」

 二人はぺこぺことお互いに謝る。ミリアムとしては、素直に謝罪を受け入れてほしかった。実際に、ディアンには何の非もないのだから。

「あの……じゃあこの前の仕切り直し、でもないんですけど、また少し話していきませんか?」
 ディアンが公園のベンチの方を指さす。自然とあのデートでのことが思い出される。

「でも今お忙しいんじゃ……?」
「少しくらいなら大丈夫です」

 にっこりと笑って、ディアンは先手を切って公園へと足を踏み入れた。ミリアムも渋々その後をついていく。

「あの、ミリアムさん」
 座ったところで、早速ディアンが口火を切った。今回は溜めずに言うつもりらしい。しかしかといってミリアムの方は心の準備がまだできていない。そもそも、彼が何を言おうと受け入れることはできないのだから。

 けじめをつけなくては、と思う。前回は失敗してしまったが、きちんと彼の記憶を奪えば、彼は恋愛する気のないミリアムに対して未練を残すことなく、次の新たな恋に目を向けることができる。

 何よりミリアム自身が、そうしたいと思った。彼がミリアムに好意を抱けば抱くほど、ミリアムはお爺さんとの間で板挟みになってしまう。彼女はもうお爺さんしか選べないというのに、つらい選択はしたくない。これ以上、想いが育たぬうちに。

「これで、最後にしましょう」
 ミリアムは唐突に立ち上がる。驚いたように彼は目を見開く。

「ごめんなさい、ディアンさん」
「え……っと、ミリアムさん?」
「さようなら……」

 静かに微笑むと、ミリアムはそっと彼の記憶を取りこんだ。膨大な量を再びお腹に入れる。

 苦しい。おいしいけど、苦しかった。
 数分経ってからようやく、たっぷり食べた、と実感ができた。前回は一週間分だったが、今回は一か月近く取りこんだのではないか、というくらいだ。

 お腹が苦しい。初めてこんなに食べたかもしれない。きちんと帰れるか不安なくらいお腹が重かった。

 フラッと気を失ってしまったディアンはベンチにそっと横たえた。彼の髪を優しく撫で、今度こそもう二度と会うことは無いんだな、と思う。

 その後、ミリアムは公園を後にし、店へと歩き出した。しかし店に行くのだから、以前の様に暗い顔をするのは止めることにする。この前も、そして今日も皆に迷惑と心配をかけたのだ。また同じことを繰り返すわけにはいかない。
 ミリアムはパンッと勢いよく頬を叩き、真っ直ぐ前を向いて歩いた。