06:困惑 −2−
ディアンとのデートから数日後、ミリアムは大分落ち着いてきた。完全には吹っ切れていないが、きっとそれも時間の問題だろう。何より、今の自分には温かく優しい人たちがたくさんいる。大丈夫、今後もやっていける。
ミリアムは出勤すると、すぐにカウンターの掃除をし始めた。先日はお爺さんだけでなく、常連客の皆にも多くの迷惑をかけてしまったので、最近は一層仕事に手を尽くしているのである。お客が増えてくる前に、やれるだけのことはやろうと思っていた。
彼女が身を屈め、カウンターの下を拭いていた時、その騒々しい声は突然入って来た。
「おっはよー! ミリアム!!」
顔を見るまでもなく、その声の主はグリンダであることが丸分かりだ。忙しい今相手をするのが面倒で、ミリアムはそのまま無視することにした。目の前の染みを拭きとることに熱中する。
「あれー? いないのかな? ジョセフさんもいないし……」
くるくるとグリンダは店内を見回る。次第にその音は止み、今度はカウンターの前に椅子を引きずるような音がした。
「仕方ない。帰ってくるまで陣取っておくか」
諦めて帰ったらどうですか、と突っ込みたいが、しかし未だ目の前の染みは取れない。ごしごしと静かに集中する。
「――こんにちは」
新たな来客がやって来た。
「あ……あなた――!」
「ミリアムさんはいらっしゃらないんですか?」
その声に、はたとミリアムの動きは止まる。
「そうねえ、どこかへ行ってるみたい。……ってそうじゃなくって! あなた一体ミリアムに何したのよ! あれから全然会いに来ないし! 見損なったわよ!」
「え……? いえ、俺は別に何も……」
「何もしなかったわけないじゃない! ミリアム、あなたが全然来ないから元気なかったんだからね!」
「え……っと、ミリアムさんが?」
声は困惑している。ミリアムも困惑している。
「何よしらばっくれちゃって……! あんた、もしかしてミリアムのこと振ったんじゃないでしょうね!?」
「え!? いや、俺は――」
「そうなのか!? そうだったら俺らも承知しねえぞ!」
ガタゴトと常連客達が集まってくる音がする。ミリアムは未だ困惑していた。
なぜ、記憶を失っているはずの彼がいるのか。あの日、確かにミリアムはこの手で記憶を奪ったはずだ。本当に根こそぎ奪ったのか、と言われれば彼女も自信はないが、しかし一週間は持つほどの量は頂いた。その後も随分満足感を得たのである。ミリアムのそれだけの量を補うほどの記憶と言われれば、あの充実した一日分以上が相当する。それならば、きっとミリアムのことすら忘れているはずだ。にもかかわらず、彼はここに来ている。しかも、先日の記憶もきちんと持ち得ている状態で。
ミリアムはさっぱりわからず、カウンターの下で縮こまっていた。そんな彼女を他所に、彼らはワイワイと騒ぎ立てていた。
「あれから大変だったんだぞ! ミリアムちゃん泣いちゃうし!」
「あ、それは私のせいなんだけね……」
グリンダが遠慮深げに訂正する。
ていうか泣いてない。
ミリアムも心の中で訂正する。
「可愛い可愛い看板娘、ミリアムちゃん泣かせたら承知しねえからな!」
「ごめん、だからそれ私のせいだって……」
グリンダがすっかり大人しくなっていきり立つ常連客達に突っ込んでいる。ミリアムが取り乱したあの日のことは、すっかり彼女の中で弱みとなっているようだ。
「あ……あの、何が何だか状況がよく分からないんですけど、ミリアムさん、俺が来なくなって落ち込んでた……ってことなんですか?」
「そうそう、そうなのよ! ったく、罪な男よね! 自分から熱い告白しておきながら振るだなんて!」
「そうだそうだ、最低だぞ!!」
「いや……ちょ、皆さん落ち着いてください! 俺……何の話か全く分かりませんけど、ミリアムさんを振るなんてそんなこと、絶対にしません!」
声はきっぱりと断言する。頬が熱を持ったのを感じる。
「え……? でもミリアムがすごく寂しそうにしてたから――」
「それは……よく分かりませんけど、でも俺はミリアムさんのことが今も好きです! 今日だって少しでも彼女の顔が見たいからこうして来ているのであって――」
グリンダと常連客達は、呆気にとられたように彼を見つめた。あまりに熱心な彼の熱い告白に、何だか自分がそれを受けているような錯覚をし、恥ずかしくなってきたのである。
「も……やだあ! 皆の前でそんなこと……! ミリアムの前で言いなさいよ。全くこっちが照れちゃうわ!」
うんうんと周りが同調するように頷く。
グリンダはパタパタと手で顔を仰ぎながら伺う様に見る。
「じゃ……じゃあさ、この前のデートはどうだったの? ミリアムが全然教えてくれなくってね」
「それは……もちろん、楽しかったです」
声の主の頬が赤くなっていることが、容易に想像できる。
「それは良かった。ミリアムもきっと同じ気持ちよー。良かったわね!」
勝手に私の気持ちを代弁しないでほしい。ってそうじゃなくて、そんなことじゃなくて――!
いい加減、いつまでもこの場にいるわけにはいかない。早く、この目で確かめねば。彼自身を。
もう心の奥では分かっていた。声の主が誰かということくらい。しかし、信じられなかった。今までこんなことは一度もなかったのだから。何度後悔しても恨んでも、彼らの記憶は元に戻ることは無かったのに――。
ミリアムは意を決して立ち上がろうとした。しかし自分がカウンターの下に潜り込んでいたことをすっかり忘れていた。案の定、頭頂部をしこたまぶつけた。何とも情けない登場の仕方だった。
「うっ……!」
「ミリアムさん!?」
「ミリアムそんな所にいたの?」
心配そうに彼らが顔を覗き込む。ミリアムは涙目になりながらも大丈夫だと小刻みに頷いた。そしてゆっくりと立ち上がる。
彼と真っ直ぐに目を合わせた。逸らすことなく、じっと。
先に目を逸らしたのはディアンの方だった。次第にその頬が赤くなっていく。
「あ、あの、ミリアムさん……。もしかしてさっきの聞いて――?」
「今更何照れてるのよ。あなたの気持ちなんてもう周知の事実じゃない」
「おい青年! なかなか恰好よかったぜ!」
ヒューヒューと外野が囃し立てる。現在の常連客はおおよそ五、六人ほど。彼らは皆ガタイのいい男であったり、声の大きい老人であったり。彼らが一斉に囃し立てたら、それはそれはうるさくなるに決まっている。外の通行人たちが、何だなんだと店内を覗く様が目に入った。
ああ、また変人書店と呼ばれ、人が遠のいてしまう。
ミリアムはどこか冷静な頭でそんなことを考えていた。