06:困惑 −1− 


 翌日も変わらず出勤した。ミリアムの日常は変わることは無いのである。例え、何があっても。

 常連客が次々と入ってくる中、ミリアムはボーっとしながら本を読んでいた。ポカンと口を開けているその様は、碌に目の前の文字も頭に入って来ていないように見える。

 いつもとは様子が違うミリアムを心配そうに見ながらも、常連客達はみな遠巻きに彼女のことを見守っていた。
 しかしそんな緊迫した状況の中、彼女だけは通常運転だった。鼻歌でも歌いそうなほど陽気にステップを踏みながら、グリンダは店に入ってくる。

「ね、ミリアム! 昨日はどうだったのよ!」
 挨拶もそこそこに、グリンダはミリアムの前に手をついた。のろのろと顔を上げると、ミリアムは首をかしげる。

「え……何がですか」
「何がって昨日よ昨日! ディアンさんとのデート!」

 小声で言うと、なぜかグリンダは照れたようにふふふと笑う。ニヤニヤ笑いがいつにも増して暑苦しい。

「え……別に、何とも」
「なによう、つれないわね! 楽しかった? ねえそれだけでもいいから教えてよー!」
「そう……ですね。楽しかった、のかもしれません」

 はあ、とため息をつきながら彼女は答えた。その様子にグリンダは拍子抜けする。

「何よそれ。はっきりしないのね」
 呆れた様にミリアムを見るグリンダは、まだ彼女の様子がおかしいことに気付かない。というよりも、デートの後だからただ興奮が抜けきっているだけだと思っていた。

 腑抜けのミリアムをからかってやろうかとグリンダは一人ほくそ笑む。そのあまりにも下種な表情に、遠巻きに見ていた常連客達は彼女を止めようと口を開きかけたが、もう遅い。

「あ、ディアンさんだ」
 その声に言葉に反応して、ミリアムはバッと指さされた場所に顔を向けた。その表情は明るくも暗くもない、しかし何かに縋り付くような、そんな表情だった。

「冗談よー」
 ミリアムが想像通りの反応をしてくれたので、グリンダは思わずニヤニヤ笑う。

「何よ何よ。やっぱりミリアムもディアンさんのこと気になるんじゃない。隠さなくてもいいのにねえ」

 馬鹿だ。馬鹿は私だ。

 グリンダの声は聞こえていなかった。ただ、自分が情けなくてミリアムは何度も繰り返した。

 本当に馬鹿だ、私は。自分自身の手でディアンの記憶を奪っておきながら、彼がまたここに来てくれるんじゃないかと、そんな期待を持つなんて。今まで何度そんな期待を持って、そして何度裏切られたことか。

 お爺さんの元で暮らし始めて数か月、今まで何度家の前で両親が迎えに来てくれるのを一人待っていたことか。今まで何度両親が住んでいる邸の前で彼らの姿を探したことか。
 希望なんてあるわけないのに。希望なんて持っちゃいけないのに。

「ちょ……!? どうしたの、ミリアム! 何で泣くの!?」
 グリンダの慌てたような声が耳に入る。咄嗟に大きく首を振った。

「な……泣いてなんか、いません」
 断じて泣いてなどいない。ただ顔を俯けているだけだ。涙など、もう自分の中には残っていない。やりきれない思いをギュッと拳を握ることで紛らわす。

「ちょっとミリアム……本当、どうしたのよ。相談なら私が乗るからさ……」
 グリンダがおろおろと手を擦り合わせる。もう放っておいてと言わんばかりにミリアムは首を振る。

「え……え!? 私のせい?」
 周囲の常連客達の非難がましい視線が集まる。グリンダは泣きたくなってくる。

「ご、ごめんって! ごめんよミリアムー!! 謝るから泣き止んでよお」
「だから泣いてませんって」

 ミリアムは憤慨する。しかしグリンダにその言葉は聞こえない。なぜミリアムが泣いているのか、そのことしか頭に無かった。
 自分の言葉に泣いてしまったのは確実だ。では、自分は何と言った? ディアンがいる、と言ったら、ミリアムが落胆するように泣き始めた。なぜ泣いたのだろう。それはきっと、ディアンがいると期待していたから――。

 グリンダは一度言おうと思ったことは、口に出せずにはいられない性格だった。首をかしげながら、爆弾発言をする。

「ねえ、やっぱりミリアムもディアンさんのこと好きなの?」

 時が止まった。常連客は戦慄した。修羅場が始まると。
 しかし彼らの想像通りにはならなかった。ミリアムの震えは止まり、俯けられていた顔が上げられた。

「――どうなんでしょうね。私にもわかりません」
 淡々と告げるその顔は無表情だった。

*****

 その後、更に深く問いただそうとしたグリンダだったが、さすがに常連客達はそれを看過しなかった。すぐに数人で彼女の口を押え、ミリアムから引き離した。そして一人はジョセフを呼びに行き、一人は店番、残りの数人はミリアムを落ち着かせようと奮闘した。

「大丈夫です。別に何ともありません」
「い、いやー、でもね……」

 表情も口数も乏しく仕事をする様は、確かにいつものミリアムだ。しかし先ほどグリンダの言葉で何度も感情が揺さぶられていたのもまた事実。
 常連客達は今日くらいミリアムの助けになろうとジョセフをミリアムの前へ押しやった。そうして彼に任せれば安心だと、自分たちは顔を見合わせて静かに出て行った。

「お爺さん?」
 しかしミリアムの方は驚きでいっぱいだった。家でゆっくりしているはずのお爺さんがどうしてここに。

「なに、ちょっと店に出たくなっての」
「でも今日は一日私が当番なのに……」
「たまにはいいじゃないか。わしら二人で店番しよう」
「……はい」

 ミリアムは頷き、しかしすぐにハッと思い当たる。二人が今ここに居るのなら、店の方はどうなっているのだろうか。

「でも、それならすぐに行かなくちゃ」
「気にせんでいい。今は罰としてグリンダに一任してきた」

 きょとんとミリアムは目を丸くした。何をどうしたらグリンダが罰を受けることになるのだろう。

「あの、取り乱したのは……完全に私のせいです。グリンダさんは悪くありません」
「そうなのか? 皆の話を聞く限り、てっきりグリンダがミリアムを苛めたのかと思ったぞ」
「ち、違いますよ!」

 確かにグリンダの言葉には大分揺さぶられたのは事実だ。しかしそれも当然。まだミリアムの中で感情の整理ができていなかったのだから。

 いずれは通る道だった。前を向くためにも。グリンダには感謝している。これからもあんな腑抜けのまま毎日を過ごすわけにいかなかったのだから。

「わしはいつもミリアムの味方だからの」
 ミリアムの瞳に光が戻ったのを見越して、お爺さんは彼女の頭にそっと手を置いた。小さい頃、時折悲しそうに俯くミリアムに、よくしてくれていた行為だった。

「はい……はい」

 頑張ろう。今日も、これからも。
 ミリアムは心からそう誓った。

*****

 その後、ミリアムはすぐに店の方に顔を出した。お爺さんからはもう少しゆっくりしていたらどうだと言われたが、体調はもともと元気だ。やんわりと断ってカウンターへ向かった。

 ミリアムと目が合うと、グリンダは気まずそうに謝ってきた。しかしミリアムとしては、謝罪などされる覚えもない。
 ミリアムが震えていたのも口数が少なかったのも、もともと全て自分の中で葛藤し、そして気持ちを整理していたからである。お爺さんと話して落ち着いたミリアムは、そのことをグリンダに伝えた。

 グリンダはすっかり笑顔になり、しかし調子に乗って更なる失言を吐こうとしていたが、それはもちろん常連客の手によって止められた。いい加減口に蓋をするということを覚えろと。グリンダはしゅんとして一人落ち込み、それを見て思わずミリアムは噴き出した。あのグリンダが落ち込むなど、なんと稀なことか。
 ミリアムの明るい笑い声に感化され、次第に常連客達も笑い始め、お爺さんも笑う。その様子に、今度はグリンダが今度は憤慨した。何笑ってる、落ち込んでる私がそんなにおかしいのかー!と。

 しかし一向に周囲の人々が笑い止めないので、怒るのも馬鹿らしくなってきたのか、グリンダも笑い始めた。何がおかしいのかもはや分からないが、とにかく一行は笑い続けた。