05:逢引 −4−
結局、広大な植物園は時間内に回ることができなかった。東屋で大分時間を食ってしまったせいだろう。多少の名残惜しさを残しながら二人は植物園を後にした。
「本当に大きい植物公園でしたね」
「あそこ、小さい頃に来たことあるんです。その時は、すっごく広く感じて……。でも正直今も大きく感じた」
「ですよね。――あの、でも私のせいで全部見て回ることができなくってすみませんでした」
「気にしないで。これで居眠りさんの称号は二人のものだから」
「――っ!」
不意打ちでからかうのは止めてほしい。しかし実際に長々と居眠りをしてしまった身としては何も言えない。
「あ、ほらミリアムさん!」
しかも当の本人は全く意に介していない。一人で怒るだけ無駄という訳だ。
「ここがミスタンド大広場ですよ」
ディアンが手を広げて指し示した。何気なくその方向へと目を向けたミリアムだったが、次第に驚きに目を見開かれた。
「……確かに、すごく広いですね」
ミリアムは圧倒されたように呟いた。ただの広場に大がつく理由が分かる気がする。近所のあの公園なんか比じゃなかった。
子供も大人も恋人たちも、皆各人楽しそうに過ごしていた。夕方とはいえ、辺りはまだ暑い。にもかかわらずにこれだけ人で賑わっているのは偏に待ち合わせや遊び場、語らいの場として活躍しているからだろう。
もう二度とあんな恥ずかしい間違いをしないよう、ミリアムはしっかりと目に焼き付けた。
*****
「じゃあ、ここで」
二人は、西日が沈む前に朝のあの公園へとたどり着いた。ミリアムはくるっと振り向く。
「家まで送りますよ」
「いえ、大丈夫です。少し買い物もしなくちゃいけないので」
「……そうですか」
二人の間が静かになった。ともに、何を言おうか迷っているようだった。
「あの、今日はありがとうございました」
「こっちの台詞です。俺の方こそ今日は本当にありがとう」
ミリアムの言葉を区切りに、お互いにぺこぺこと頭を下げた。と、それで踏ん切りがついたのか、ディアンが緊張した面持ちで顔を上げる。
「あの……ミリアムさん。あと少しだけ、あちらで話をしませんか」
「……はい」
緊張した様子で、二人はベンチに腰掛けた。植物園にてずいぶん打ち解けたはずなのに、一気に朝の頃に戻ったような気分になる。
何を言われるのかは分からない。しかし、言われる前に自分自身の手でケリをつけなくてはならないと思う。それは東屋でも改めて誓ったこと。
しかし、しかしだ。
なぜ自分はこんな体質なのだろうとつくづく思う。もしも、もしも私が普通の人間だったら、普通の女の子らしい生活を送れていたのだろうか。両親もいて、婆やも皆もいる。
でも、もしそうだったとしたら、お爺さんやグリンダさん、ディアンさんには会えなかったのだろうか。私が街をうろついていなければ、お爺さんと共に住むこともなく、グリンダさんと世間話することもなく、ディアンさんと出会うこともなかった。それは、とても悲しい、寂しいことだ。
でも、こんなに苦しい思いをせずに済むのなら、それも良かったのかもしれない。始めから私がこんな体質でなければ、私はこんなに苦しい思いをすることもなかった。全ては、この体質のせいなのに。
ミリアムはそっと隣からディアンの顔を盗み見る。今日一日でずいぶんたくさん見た顔だった。しかし、きっとこれから会うことはあっても、きっともう二度と彼と言葉を交わすことは無いだろう。見ず知らずの他人としてすれ違うだけだ。その時は胸が痛むかもしれない。いや、きっと痛む。でもそれも時間が解決してくれる。だって、記憶なんて脆いものだから。貧弱なただの小娘の手によって簡単に奪われるほど脆い存在だから。きっと、すぐに忘れる。
願わくば、私のことなんか忘れて、どうかこの人が、誰かほかの人と幸せに暮らしてくれますように。
ミリアムはギュッと唇を噛んだ。
そうだ、今日一日だけだったけど、それだけでもディアンさんがどんな人なのか大分分かり得たと思う。始めはとても紳士的な人だと思った。口調も丁寧で、物腰も柔らかだった。私の意思を聞いてくれるし、歩く歩幅も合せてくれる。
それが覆されたのは植物園でのこと。だんだん緊張がほぐれてきたのか、次第にミリアムのことをからかうようになってきた。グリンダにもよくからかわれることはあったが、彼の比じゃない。最初は余裕な笑みを浮かべるディアンに腹が立った。自分だけが彼の言葉に翻弄しているようで、悔しかったのだ。しかし、いつの間にか彼の柔和な笑みは、やがてミリアムの一挙一動に無邪気な笑顔を見せるようになった。その変化が、心の中では堪らなく嬉しかったのだと思う。――と言ってもやはり、何度もからかわれるのは腹が立ったが。
でもそんな彼とももうお別れだ。私は自分の手で決着をつけなくてはいけない。
ミリアムはもう一度改めて決心する。
私は彼の記憶を頂かなければならない。それは、近ごろ自分の食欲が抑えきれなくなって、でも共に暮らしているお爺さんの記憶だけには絶対に手をつけたくない。だからこそ、他の人から調達するしかない。そのためである。
ディアンと目が合った。彼が何か言おうと口を開く。しかし、その先はもう聞きたくなかった。
ミリアムは静かにディアンの記憶を取り入れた。その量は、膨大だった。きっと、今日一日の出来事から彼が書店に初めて訪れた頃までの量だろう。それだけたくさんの量がミリアムの中に突然入ってきて、彼女は苦しそうに呻く。しかし彼女だけでなく、ディアンも呻き、頭がフラッと揺れた。慌ててその頭を抱き留める。
「だ、大丈夫ですか!?」
軽く頬を叩き、ミリアムは声をかけた。しかし彼はただ気を失っているだけだと気づくと、すぐに彼の頭を自分の膝の上に置く。そうしてようやくミリアムはホッと息をついた。こんなことは今までなかったので随分焦ってしまった。一度に大量の記憶を失ってしまったので、脳がその処理に追いつかないのかもしれない。こんな事態になるとは思わなかったので、ミリアムは申し訳なく思った。
ディアンの記憶をあらかた取り込むと、ようやくミリアムは息をついた。彼の量は本当に膨大で、一週間は持ちそうなくらいだ。数人分の記憶で、ようやく一日もつ程の量のはずだ。これが、愛情の違いという物だろうか。
自惚れという言葉が頭を過ったが、すぐに首を振る。愛情ではなければ、何だというんだ。彼とその他の記憶の違いは、ミリアムに好意を持っているかどうかくらいしかない。やはり、ミリアムに対して好意を持ってくれている人の記憶は、量が多い。そして、途轍もなくおいしい。
おいしいというのは語弊があるかもしれない。実際に記憶がミリアムの口に入り、咀嚼することでおいしさを実感しているわけではないのだから。おいしいというのは、あくまで比喩のようなもので、満たされる、というのが一番近いような気がする。
自身の中で、生きれば生きるほど何かが失われ、自分の元気がなくなって行ってしまうような感覚。それが、記憶を頂くことによって一気に元気が、気力が湧いてくる。何かが満たされ、幸福でいっぱいになるのだ。
その記憶は、ミリアムに対する愛情や好意があればあるほどより甘く、おいしく感じる。実際に食べているわけではないのだから、そう感じるのはおかしい。だが、おいしいと形容するしかないのだ。その幸福感は。
対して、ミリアムにあまり良い感情を持っている者だとその記憶は当然おいしくない。無意識に彼女の体がその記憶を拒絶するかのように外へ押しやるのだ。しかしそんな勿体ないことできるわけもなく、無理矢理中へ押し込む。その時、彼女は吐き気も伴うし、できれば食べたくないとさえ思う。しかも食べ終わった後の満足感は無いに等しい。
両親が良い例だ。
幼心に覚えている、乳母や両親の記憶の味。無意識のうちに食べていたようだが、彼らの記憶は甘美で、とてもおいしかったように思う。なぜなら、彼らといると、とても心が満たされたような感じがしたから。始めは、安心しているからだと思っていた。でも違う。歳を重ねるごと、様々な人の記憶を食べるほど、分かって行った。愛情が深ければ深いほど、記憶は美味しく、そして甘く感じられるのだ。歯止めが効かないと、無意識のうちにもっともっとと体が欲してしまう。胃袋が空っぽならば、大量の記憶さえも食べつくしてしまう。それほどの魅力を持っている記憶たち。
しかし、愛情に比例して満足感もそれだけ多くなるのなら、なぜ父親の記憶はたった一日ですべて食べつくしてしまったのか。婆やや母親は少しずつ奪っていったのに、父親はどうして。
それはきっと、邸の皆が記憶を失ってから、ミリアムに対して愛情のある記憶を持つことがなかったからだ。いつの間にか邸に住み着く女子などに、良い感情を持つ者がいるわけがない。だからこそ、ミリアムの記憶の胃袋は枯渇し、次第に自身も憔悴していった。そんな時に現れたのが、愛情あふれる記憶を持った父親。目の前にご馳走を出されて遠慮するわけもなく、ミリアムの胃袋は際限なく彼の記憶を一夜で食べつくしてしまったのだ。
ミリアムに対する愛情があればあるほど、その記憶は甘く、そしておいしい。
もう一度ミリアムはその考えを追考する。涙が一筋流れた。
ああ、どうしてこんなにも、彼の記憶は美味しいのだろうか。
ディアンの記憶は、とても甘く、心の隅々にまで広がるような温かさを持っていた。彼の記憶が満たすのは満足感だけではない。幸福も、快楽も喜びも全てだ。全てが、ミリアムの体を駆け巡る。
――これほどまでに、私なんかに心を寄せてくれていたのだろうか。
ミリアムの肩が震える。
もう遅い。そんなことは分かってる。
一度食べてしまった記憶は、もう元には戻せない。今更だ。
でも、それでもミリアムは悔しさに一杯になる。どこに向けたらいいのか分からない怒りでいっぱいになる。
「さようなら」
ミリアムは呟く。ディアンは軽く呻いた。もう少しで目を覚ましそうだ。
「さようなら、ディアンさん」
ミリアムはもう一度ディアンの頬に軽く手を添えると、そっと頭を膝から下ろした。
そのまま、振り返らずに公園を後にした。