05:逢引 −1−
ミリアムは普段よりも多少様相を整えてから家を出た。と言っても、持っている服は仕事着と普段着くらいしかないので、大したお洒落もしていないが。
ミリアムが用意をしている後ろでは、ジョセフがもっと可愛らしい恰好をした方がいいんじゃないかとか、今からでも遅くないから買ってこいだとか苦言を呈していたが、全て無視した。どうせ今日一日の関係だ。気にしたって仕方がない。
まだ真夏じゃないくせに、外は干からびそうなくらい暑かった。常備しているハンカチで額の汗を拭いながら、大広場を目指した。この調子なら、遅刻することなく着けそうだ。
大広場に辿り着くと、ミリアムはすぐにベンチへと向かった。そこは、僅かながらに木の影となっていて、少しは暑さから逃れられそうだった。
この猛暑の中、外で遊ぼうという勇気のある子供はいないらしく、いつもはたくさんの子供や若い男女で賑わっているこの広場も、今は数人ほどしなかった。その数少ない人々も、それぞれ暑さから逃れる様に木陰に避難している。
早めに着き過ぎたか、とミリアムは思ったが、その考えを打ち消すように九時の鐘が鳴った。きょろきょろと周りを見回してみるが、彼の姿は無い。
「寝坊したのかな」
汗を拭いながら、ミリアムはぽつりと呟いた。
そして時が過ぎ、ついに十時の鐘も鳴る。
彼はまだ来なかった。
「――からかわれた、とか」
ミリアムはぼそっと呟いてみる。冗談のつもりで言ったのだが、余計に悲しくなった。
「それとももしかして、知らず知らずのうちに、あの人の記憶も食べちゃってたのかも」
あり得ない話ではない。現に、小さい頃は食欲の制御が効かず、手あたり次第に身近な人の記憶を奪い、そして忘れ去られていった。最近はそんなことは無いに等しいとはいえ、ミリアムも自分の力の全てを知っている訳ではない。もしかしたら、無意識のうちに記憶を食べてしまっていたのかも――。
「ミリアムさん!」
ハッとして顔を上げた。目の前に、汗だくになりながら肩で息をするあの青年が立っていた。
「え……!? ちょ、大丈夫ですか!?」
「すっ、すみません。走って来たので……!」
「と、とりあえず汗でも……」
思わずミリアムは青年にハンカチを差し出した。彼は頷き、それを受け取った。しかしすぐにミリアムもハッとした。そういえば、ずっと待っている間に何度そのハンカチで汗を拭ったことか。
「あっ、すみません。それ、私の汗を拭いたもので……代わりのものがありますから、それを――」
「気にしないから大丈夫ですよ」
私が気にするんですけど……。
ミリアムが止める間もなく、青年は躊躇なくそれで汗を拭う。まあ彼がいいならいいか、とミリアムも諦めた。
「すみません、これ洗って返しますから」
「そんな、いいですよ!」
「いえいえ、明日持っていきます」
言いながら、彼は懐にハンカチを仕舞った。ただの古臭いハンカチにそれほど気を使ってもらって、ミリアムは申し訳ない思いになった。
「あの、それで……何かあったんですか?」
遠慮深げにミリアムは問う。見た目からして、怪我をしているわけではないようだが……。
「あ……いえ、その」
「どうかしたんですか?」
「ちょっと僕たちの間に情報の食い違いがあったと言いますか……」
「はい」
「僕の言う大広場って言うのは、中心街の側にあるミスタンド大広場のことなんです」
「え?」
聞き慣れない言葉に、ミリアムはきょとんとした。理解が追い付かない。
「え……っと、じゃあここは……?」
「ただの公園……ですね」
「え……」
「すみません、ややこしい言い方してまって」
青年はバッと頭を下げた。そんな彼に、ミリアムは慌てる。
「そんな! 私の方こそすみません! 私ったら普段あまり外出することもないので、てっきり近所のこの公園が大広場なのかと……!」
言いながら、何だか空しくなってくる。一体自分は何年この街に住んでいるというんだ。
あまりの恥ずかしさから、次第にミリアムの言葉は言い訳がましくなってくる。
「だって、だってそれにこの公園、人もたくさんいますし、意外と広いですし!」
だからこそ、待ち合わせにはうってつけだと思った。傍を通る時も、若い男女が待ち合わせをしているをよく見かけ、そのせいでミリアムの中に固定観念が作られてしまったのかもしれない。
あわあわとミリアムが見苦しく言い訳をする中、次第に青年の肩が震え始めた。困惑して、顔を覗き込むようにして見上げると、楽しそうな笑みを浮かべる彼を目が合った。
「な……なに笑ってるんですか!」
「いや……だってミリアムさん、いつもしっかりしてるから、何だかおかしくなっちゃって……!」
「そりゃ、そりゃあもちろん勘違いした私が悪いですけど、何も笑うことはないんじゃ……!」
「すみませんっ……」
何がツボにはまったのかは知らないが、彼の笑いはしばらく止まなかった。
ミリアムは呆れて彼が静かになるのを待っていたが、その間にやはり少しずつ申し訳なさが込み上げてきた。何がどうあれ、彼を長い間待たせ、そして走らせたことは事実だ。
「――あの、でも本当にすみませんでした。この暑い中、走り回らせてしまって」
「いや、大丈夫です。ミリアムさんが来てくれただけで俺は嬉しいから」
笑いが止まったのか、彼も神妙な顔になる。そのことで、ようやくミリアムも溜飲が下がった。
「そろそろ行きましょうか」
「そうですね。まずは植物公園に行こうと思ってるんですけど、大丈夫ですか?」
「植物公園ですか?」
「はい。――今度は植物広場じゃなくて、公園の方だけど」
「――もういい加減怒りますよ」
未だなお笑いを含んだ彼の言葉に、些かミリアムもへそを曲げる。
「いや、すみません、つい。じゃあ行きましょう」
ニコニコと笑う彼に、ミリアムは不服気な顔をしながらも隣に並んだ。
「あ、あの! ちょっと待ってください!」
しかしすぐに思い出し、彼の裾を掴む。
「どうかしましたか?」
「私、あなたの名前、まだ知りません」
「――っ!」
今度は青年の方が羞恥で真っ赤になる番だった。
*****
「す、すみません。俺としたことが……」
植物園へ向かいながらの道中、まずは互いに自己紹介をしようということになった。その間、ずっと彼は落ち込んでいた。
「別にいいですよ。私もすっかり忘れていましたから」
ミリアムは青年の方に向き直ると、軽く頭を下げた。
「私、ミリアムと言います。ジョセフさんのところでご厄介になっていて、ご存じのとおり、あの書店で働いています」
「俺はディアンです。今はギルティ商会のところで働いています」
「ギルティ商会……? あ、知ってます。確か、貿易で有名な……?」
「はい、そうですね。もともとは国内で売り買いしてたんですけど、最近は国外にも進出し始めて」
「でも、それなら今は余計に忙しい時期なんじゃないですか? なのに今日一日なんて……」
「大丈夫です、一日くらい。親方の方には言ってきたので」
「そ、そうですか……」
そうは言われてもやはり気にかかる。今日は早めに解散した方がいいのだろうか、と思い始めていると、ディアンが空気を変えようと咳払いした。
「あの、俺もちょっと聞いていいですか」
「あ、はい。何でしょう」
「ミリアムさんは、よくカウンターで本を読んでおられますけど、何を読んでるんですか?」
「別に、特定のジャンルが決まってるわけじゃないんですけど……」
ミリアムは言いよどんだ。
「恋愛とか、歴史書とか……」
「恋愛、読むんですか?」
やはり突っ込まれた。
グリンダにも以前意外そうに尋ねられたことがあった。恋愛に興味があるのか、と。その時も必死になって否定したが、こんなに面白そうなことに、はいそうですかとすぐに彼女が納得するわけがない。あの後、いつものニヤニヤ笑いで散々弄られた。
「べっ、別に恋愛だけを読むわけじゃ……! 他のだって読みますし!」
他のだって!とミリアムは強調する。そんな彼女の思惑に気が付いたのか、しかしディアンはそれ以上突っ込むようなことはせず、微笑するだけにとどまった。
「お勧めの本があったら、今度教えてくださいね」
「あ……はい」
ディアンの方が一枚上手だったようだ。
ミリアムは悔しくなったが、もう何も言い返す気概は無く、そのまま黙り込んだ。