09:夜に駆り出す
待ちに待った休日がやってきた。慣れない授業の連続で、疲れ切っていたトラヴィスの一年生としては、正直な所誰もが待ち望んでいた休日だろう。
セシリアももちろんそうだが、特にレドリーなんかは、前日の時点でもう嬉しそうで、聞かずとも予定はびっしり詰まっているのだろうことが容易に想像できた。しかし、そんな予想を裏切って、レドリーは昼近くまで眠りこけていた。昼からのんびり出掛けるのかと思いきや、彼はその後も部屋でダラダラするばかりで、出掛ける様子など微塵もない。はてさて、もしや単に休日であることが嬉しいのかと思っていた矢先――丁度夕方になった頃――レドリーは出掛ける支度をし始めた。セシリアとしては、どうしてわざわざこんな時間にどうして、と不思議でならない。
「どこかに行くの? こんな時間に?」
「ああ、この時間だから行くのさ」
「一体どこに?」
「聞きたいか?」
やけに嬉しそうにレドリーは聞き返してきた。普段のセシリアならば、面倒に思って適当にあしらうのだが、今回は単純に興味の方が勝った。
「うん。どこに行くの?」
「抑圧されればされるほど行きたくなる場所――酒場さ」
始めは何を言われたのか分からず、きょとんとするばかりだったセシリアも、やがて合点がいくと、呆れたような顔になった。
「何だ。もっと楽しいところに行くのかと思ってたのに、そんなところか」
「そんなところとは何だ。さてはセシル、酒が苦手なんだろ?」
「別に苦手って訳じゃ。そもそも飲んだことないし」
「飲んだことがない!?」
レドリーは大袈裟な声を上げた。
「誕生日に飲まなかったのか? 祝い酒ですら?」
「うん。元々興味なかったし、お父さんも下戸だから」
「なんともったいない……」
心からそう思っているような口ぶりだった。セシリアとしては、別段飲めないことを苦痛にも恥にも思っていなかったので、何を言っているんだろうとは思ったが。
「俺なんか、十五になるずっと前から飲んでいたのに」
「法律違反を自慢話のように口にするんじゃない」
部屋の片隅で読書をしていたハロルドが、突然顔を上げた。彼は終始静かだったので、さすがのレドリーも、いつもの小言同室生が同じ空間にいることをすっかり忘れていたらしい。慌てたように両手を振る。
「な、なーんて、冗談だ! 本気にするなよ。そんなことしてないって」
「言い訳はしなくてもいい。普段の行いを見れば、嘘か真実かは分かる」
「ひどい言い草だな……」
「悪い方に受け取ったということは、自覚があるということか?」
「うっ」
図星を指され、レドリーはそうっと視線を外した。どうしてこうもハロルドは鋭いのか。
冷や汗を流しているレドリーが気の毒だったので、セシリアは助け船を出すことにした。
「ハロルドは飲んだことあるの? お酒は好き?」
「少し嗜む程度だ。あまり強くはないな」
礼儀正しくハロルドはセシリアに顔を向ける。自分への追求が止んだと思ったのか、レドリーはすっかり余裕を取り戻した。
「意外だな。顔色一つ変えずにグビグビ飲みそうなものだが。ま、たとえそうだとしても、俺には勝てないだろうがな。俺は小さい頃から――」
セシリアに腰を小突かれ、レドリーはハッとした様子で口をつぐんだ。ジトッとした目でハロルドが睨んでいるところだった。
「……ま、まあとにかく、俺は一杯やってくる。セシルも行かないか?」
「うーん、どうしようかな」
「私も同行していいか?」
ハロルドの突然の申し出に、レドリーは目をぱちくりさせた。彼の言葉がようやく頭に染み渡ったとき、レドリーは口元を引きつらせた。
「あ……ああ、まあ構わないが」
「ありがとう。じゃあ準備をするから、少し待っていてくれるか」
「うん」
了承を得ると、ハロルドはいそいそと身支度を始めた。そんな彼を横目に、レドリーはセシリアに耳打ちした。
「お願いだセシル。一緒に行ってくれ」
「なんで? 二人で行けばいいじゃん」
「あの説教魔とか? 勘弁してくれ、ストレス発散のために行くのに、逆にストレス溜まるようなことされて嬉しいわけがない」
「そんなこと言っちゃ可哀想だよ……」
口では擁護しつつも、セシリアも半分ほどはレドリーに賛同していた。ハロルドは、悪い人ではない。むしろ、正義感に溢れていて格好いい人だ。――だが、時折、本当に時々、むやみやたらに説教をする癖がある。それさえなければ、普通に頼もしい人なのだが、なんとも残念な話だ。
「じゃあ分かった。僕も行くよ」
「本当か? ありがとう!」
「セシルも行くのか?」
ハロルドは意外そうに尋ねた。酒が飲めないのにどうしてと言いたげな視線だ。セシリアは曖昧に微笑んだ。レドリーが気の毒になったからとは言えまい。
「うん、ちょっと楽しそうだし。よろしくね」
笑みを浮かべながら、セシリアは部屋を見渡した。折角の休日だが、セシリア達の他に、ノエルやソルも外出はせずに部屋にいた。ノエルは机で勉強を、ソルはベッドでダラダラしているのだ。彼らも誘ってみようか、とセシリアはふと思った。この流れで誘わないのはおかしいし、皆で行った方がむしろ仲良くなれるかもしれない。
何か言いたげな視線をレドリー、ハロルドに向けると、彼女の意図を察してくれたのか、二人は仕方なさそうに肩をすくめた。セシリアは、喜々として残り二人の同室生に声をかけた。
「ねえ、ノエル、ソル。二人もお酒飲みに行かない? この際だから、仲を深めようよ。この前のことは水に流してさ」
言わずもがな、厩舎でのことである。あれから、ソルとの仲はなんとも言いがたいほどぎこちない。とりあえず、ソルが不機嫌なのだ。セシリア達もやり過ぎたと思わないでもなかったので、時々ソルのご機嫌を取る形で話しかけてはいたのだが。
「群れる趣味はねえ」
「興味ないな」
そんな風に一掃された。だが、二つの声は、それほど不機嫌そうではなくて、むしろ本心からの言葉なのだろうことがうかがい知れた。
良いのか悪いのか、とにかくセシリアは安心して彼らの言葉を受け入れた。ハロルドとレドリーに向き直ると、準備はできたとばかり頷く。
「じゃあ行こうか」
「ああ、いざ酒場へ!」
辺りが夕闇に包まれ始めた頃、三人は歓楽街に赴いた。昼とはまた違った賑わいを見せる街に、セシリアは興奮気味に声を漏らした。
「田舎育ちだから、こういう所初めてだよ。何もかもが真新しいや」
「これくらいまだまだ序の口さ。夜は始まったばかりだからな」
「門限があることを忘れてはないだろうな? それなりの時間になったら帰るぞ」
「はいはい、分かっていますとも」
折角の浮かれた気分に水を差され、レドリーは情けない顔になった。ここで口を挟めば、ハロルドの小言が長くなること請負なので、セシリアは素知らぬ顔で受け流した。
歓楽街を進みにつれ、辺りは魅惑的な雰囲気へと取って代わった。言葉にできないその不思議な感覚に、セシリアはキョロキョロと見回した。
丁度その時通りかかったのは、娼館のすぐ側だった。田舎育ちで、しかも女である彼女は、その建物が何なのか、はたまた何をする場所なのか分かっていなかった。
「綺麗な建物だね」
「興味あるのか?」
建物の用途が分かっていないだろうことを見越して、レドリーが悪戯っぽく笑った。
「そうだな、そろそろセシルもそういう時期だろうな」
「そういう時期って?」
「本当の男になるってことさ」
しばらくレドリーの言った言葉を考えたが、やはりセシリアにはその意味が分からない。もの言いたげな視線を彼に向けると、レドリーはだらしない口元を隠そうともせず、セシリアの首に肩を回した。
「娼館だよ」
「娼……館?」
口の中で呟いてしばらく。
セシリアにはようやくその意味が分かった。途端に顔を真っ赤にして俯く。
「初な奴だな。だが、興味が無いわけでは無いだろ?」
「う……」
どう答えたものか、セシリアは迷ってしまった。十五の少年としては、確かに興味が出てくる年頃だ。しかしセシリアの性別は女。興味どころか、恥ずかしさの方が圧倒的に勝る。 的確な返答ができなくて、セシリアは黙ったまま歩く速さを早めた。おいおいと呆れたような返事が彼女を追う。
「待ってくれよ。そんなに急ぐことはないだろう。もうすぐ娼婦達が入り口に出てくる時間なんだ。ちょっと見ていかないか?」
とんでもない発言に、セシリアはますます身体を硬くする。冷やかしじゃあるまいし、どうして見ていこうだなんて発言ができるのか。まして、女性達が入り口に出てくる時間まで知っていると言うことは、よほどレドリーはここに通い詰めていたということの証拠でもある。
全く、なんて節操のない人だ!
男がそういうものだということはセシリアも分かってはいるが、こうもあからさまに口に出すものだとは思いも寄らなかった。セシリアの知らないところでやるのならまだしも、なにが楽しくて同室生にしつこく女関係を示唆するようなことを口にするのか。
「あまりからかうな。可哀想だろう」
「ハロルドは興味ないのか?」
セシリアが一層足を速めたのを見かねて、ハロルドが助け船を出した。が、レドリーはそんなことお構いなしに、今度はハロルドに狙いを定める。
「ほら、どの女が好みだ?」
客寄せのために、娼館の入り口に娼婦達がぞろぞろと出てきた。皆胸や足を露出した格好で、通りを行く男達は、だらしのない顔でチラチラと彼女たちに視線を向ける。
「興味が無いな。さっさと行くぞ」
そんな中、ハロルドは見向きもしなかった。こちらに目を向ける二人組の見目の良い男ということで、ハロルドとレドリーは人一倍娼婦達に熱い流し目を送られていたのだが、そんなことハロルドは意に介さなかった。そんな彼の後ろ姿を唖然と見つめ、思わずレドリーは毒づく。
「なんてつまらない奴らなんだ。男なんて酒と女と賭け事で生きてるようなもんだろ。じゃあ何を楽しみに生きてるって言うんだ」
レドリーの声は届かず、ハロルドはセシリアに追いついた。二人のやりとりは所々耳に入っていたので、セシリアは不思議そうにハロルドを見上げた。
「ハロルドは……そういうこと興味ないんだ?」
「そうだな。それよりも、あからさまに貧富の差が激しいことが気にかかる」
「貧富の差?」
言われてみて、セシリアははたと気づいた。中心街に近かった歓楽街の入り口付近は、まだ人通りも多く、賑やかで露店も多かった。が、先に行くにつれ、次第に閑散としてきて、通りを歩く人たちの表情もどこか暗かった。着ているものもくたびれているし、治安も悪そうだ。街へ着いた当初は、都会の雰囲気に圧倒されていたばかりだったが、やはりどの街も明暗が分かれるものだ。
思わず言葉少なに黙り込むと、ようやくレドリーが追いついた。
「相変わらず優等生な発言だな」
ハロルドの肩にポンと手を置くと、自分に注意が向いたことを確認した後で、顎で右方向を指し示した。
「到着したぞ。馴染みの店なんだ」
「ここ? 気づかなかった」
セシリアは純粋にそう呟いた。
レドリーの言う馴染みの店は、随分と古ぼけた外観をしていた。周りの暗い雰囲気と妙に馴染んでいて、気をつけていなければすぐに見落としてしまうだろう。
「今日はトラヴィスに入ってから初めての酒だ。堅い話は無しにして、思う存分酒を煽ろう」
特にハロルドを注視しながら、レドリーはそんなことを言った。ハロルドも頷き、それに了承する。セシリアの方も、初めてのお酒と言うことで、特に異存は無かった。
扉を開けると、ムッとした酒の匂いにすぐにセシリアはクラッとした。鼻に皺を寄せながら、レドリーの後を追う。
酒場には、多くの男達でごった返していた。見るからに粗野なものや、裸のもの、中には、誰が一番大きいおならができるかという勝負をしている者たちまでいる始末。
今まで見てきたものとは打って変わって別次元のその光景に、セシリアは思考を停止させていた。こんな所に出入りするなんて、着実に女としての大切な何かが削り落ちていっているような気がしたからだ。
「ここが開いてる。座ろう」
慣れた様子でレドリーが注文をしていき、セシリアは合間に一度か二度頷くだけで終わった。そわそわと辺りを見回しているうちに、最初の酒が届く。レドリーは上機嫌で杯を掲げた。
「乾杯!」
「か、乾杯……」
「乾杯」
レドリーはいち早く、ハロルドはゆっくりと、そしてセシリアはというと、なみなみ注がれた酒を見つめたまま、微動だにしなかった。
「なんだ、尻込みしてるのか? 男らしく思いっきり行け!」
戸惑うセシリアを余所に、レドリーはカラカラと笑った。彼の物言いに、馬鹿にされたと感じたセシリアは、グイッと杯をあおった。熱い液体が喉を通って胃へと降りていく。身体がポカポカするような、と思った途端、口の中にようやく酒の味が押し寄せてきた。
「苦っ!」
「まあ最初はそんなものさ。慣れればそれが病みつきになる」
うえっと思い切り顔を顰めると、レドリーはそれを笑い飛ばした。
「ハロルドはどうなんだ? 随分と涼しい顔をしているな。もしかしていける口か?」
「あまり強くはないが」
「謙遜するなって。ほら、もう一杯どうだ」
ハロルドの返事を待たずに、レドリーはとくとくと彼の杯に酒を注いだ。そのついで、さりげなくセシリアの杯にも注ぐ。後でこっそり果実飲料でも頼もうと思っていたセシリアは、内心気が遠くなった。
「それにしたって、トラヴィスは思った以上に窮屈だな。外出が休日だけだなんて」
串焼きを頬張りながら、レドリーはため息交じりに言った。それに応えるのはもちろんハロルドだ。
「充分だろう。平日は授業の予習復習をすべきだ。それに、トラヴィスは良心的な方だ。もっと厳しい規律のある学校では、門限は夕方らしいからな」
「それは分かってるが……」
レドリーはそれでも不服そうな顔だ。青春真っ盛りのレドリーとしては、もっとたくさん遊びたかったのだろう。だからこそ、彼の両親がこれを危惧し、トラヴィスに入れたのだが。
レドリーはわざとらしくため息をついた。ことあるごとに説教をしてくる友人が、次第に面倒になってきたのだ。
「ここに入る前言っただろ? 今日くらいは思う存分愚痴を言わせてくれよ。そんなに構えずにさ。ハロルドも何か愚痴くらいあるだろ?」
「愚痴か?」
きょとんとした顔で聞き返すハロルドに対して、レドリーは笑みを深くし、波なみょと彼の杯に酒を注いだ。
「悩み事とかだよ。トラヴィスに入って一週間、愚痴くらいあるだろ?」
「そうだな……。トラヴィスの生徒が、やけに居眠りをする者たちが多いことが悩みと言えば悩みだ」
「……はあ?」
「特にレドリーとソル。真面目なセシルやノエルとは対照的に、お前達は一番授業態度が悪い。私は同室生として恥ずかしい」
「…………」
レドリーは片手で顔を覆った。この堅苦しい友人は、どんな話でも説教に繋げる特技でもあるのだろうか? それとも、説教をしなければ死んでしまう病気?
くどくどと小言を続けるハロルドを差し置いて、レドリーは無理矢理セシリアに身体ごと向き直った。もうハロルドの話は聞きたくないとの意思表示でもあった。そのことに気づかなかったのか、ハロルドは一人で話を続けていたが。
「セシルはどうなんだ? 何か悩みでもあるか?」
「悩み? うーん……」
悩みと言えば、たくさんある。だが、それはセシリアの秘密にも関わることで、口が裂けても言えないのだ。
その他に、悩み事と言えば。
セシリアはハッとして手を打った。
「同室生の仲が良くないこと! ソルとノエルなんか、顔を合わせれば喧嘩ばっかりで、こっちまで憂鬱になってくるよ」
「お前……純粋な奴だな」
真面目に堪えたセシリアに反して、レドリーは呆れたように笑った。
「男で仲良しこよしなんて、気持ち悪いだけだろ。威勢良く喧嘩するくらいが丁度いいんだよ。それに、二人とも性格に癖があるしな。あれは一生仲良くできないだろ」
「そうかな」
セシリアは唇を尖らせたまま、頬杖をついた。
折角同室になったのだから、できるものなら皆で仲良くしたかった。性格に癖があるとはいえ、ソルがもう少し大人しく、ノエルがもう少し柔らかくなれば、丁度いいと思うのだが。
しかし、無理強いはできないので困ったものだ。
セシリアは再びため息をつくと、果実酒をちびちびと飲んだ。これは、先ほどハロルドがこっそり注文してくれたものだ。これならおいしく飲めるだろうと気を利かせてくれたのだ。
ほどよく霞がかる視界越しに、セシリアはハロルドを見つめた。何やら、彼は真剣にレドリーに話しかけているようだ。
ハロルドは、女であるセシリアよりも気が利くし、優しいし、しっかりしている。汗臭い男達の中に放り込まれて、それでもセシリアが自分を見失わないでいられるのは、同室に彼がいたからこそだろう。男同士とはいえ、ハロルドはむやみやたら下種な話をしないし、みだりに肌を見せたりしないし、とことん清廉潔白だ。裸で部屋をうろつくソルを注意したり、すぐに女性の話に持っていこうとするレドリーをやんわりと押しとどめたり。
彼はまさに砂漠の中のオアシスだった。彼がいなかったら、セシリアはとうの昔に女という性を枯れさせていたかもしれない。
不意に脇腹を小突かれ、セシリアは煩わしそうにそちらを見やった。肘で必死に合図していたのは、レドリーだった。
「なに?」
「なにじゃない。さっきからぼうっとして、俺を助ける気はないのか?」
「何の話?」
「ハロルドだよ!」
「――レドリー、ちゃんと聞いてるのか?」
セシリアが詳しく聞き返す前に、鋭い声が入った。レドリーはすかさず背筋を伸ばした。
「ちゃんと聞いてるよ!」
「なら良かった。もう一度最初から話さなければならないところだった」
ハロルドは小さく咳払いをすると、レドリーを見据えた。真剣な瞳で何を言うかと思ったら――。
「おかしいと思うだろう? だらしなく居眠りをする生徒たち、それに対して注意もしない教師、それに何より、それがだんだん日常化していることが問題だ!」
「まださっきの話だったの!?」
思わずセシリアは突っ込まずにはいられなかった。確か、一度レドリーに止めてくれと言われていなかったか。ハロルドの性格からして、嫌がらせをするとは考えにくい。にもかかわらず、なぜまた蒸し返したのか。考えられることはただ一つ。
「ハロルド、もしかして酔ってる?」
「いや、そんなことは。全く酔っていない」
「そんなことないよね? レドリー、一旦お酒注ぐの止めて」
「え?」
「いいから!」
セシリアは無理矢理レドリーの手を押さえた。小言を聞きたくないがために、ハロルドの杯が空になる度に酒を注いでいたレドリー。彼のその行動が、返って自分の首を絞めることになっていたのだ。
「私は酔ってないぞ」
「いーや、酔ってる」
セシリアは断固として譲らなかった。ハロルドは温厚だ。彼の説教癖は、時々誰かに注意されることがあるのだが、その時彼はいつも己を恥じ、謝罪をするか引き下がるかのどちらかなのだ。今日に限って我を通すということはすなわち、彼は今酔っているということ!
「じゃあハロルド、立ってみてよ」
「なぜ?」
「いいから」
セシリアの突然の言葉に、ハロルドは不承不承立ち上がった。その瞬間、よろっと彼の大きな身体がよろめき、足がもつれ、その場に盛大に転がる。酒に溺れた男達が転倒することなど、この酒場では日常茶飯事なので、ハロルドはそれほど注目を浴びなかった。が、代わりにセシリアとレドリーによる生暖かい視線を浴びる。
「やっぱりね」
「たちが悪いな。顔色一つ変わってないのに、実はベロンベロンだなんて。しかも説教癖がもっと酷くなってる」
「私は酔ってない」
「酔ってるよ、どう見ても。大人しくしていた方が良いよ」
「水を頼んだから、酒の代わりに飲むといい」
仲間達から温かい言葉をかけられるが、それでもハロルドは釈然としない表情だ。そんな彼を何とか宥めるが、ハロルドは頑として、私は酔ってない、酒をくれと喚くばかりで、いつものあの冷静沈着なハロルドとは打って変わって別人だった。
砂漠の中のオアシス。いつもいつも動植物に水を与えてばかりの人生に、時として一矢報いたくなったのだろうか?
果実酒とはいえ、セシリアも食事の傍ら、一杯二杯とおかわりしていったので、いつの間にかほろ酔い気分になっていた。ハロルドのお世話はレドリーに任せて、自分だけ酒や料理をつまむ。時折レドリーからジトッとした視線は感じるものの、セシリアはいつもの図太い神経で我関せずを貫いた。
門限の時間が近づいてきた頃合いを見計らって、セシリアはようやくハロルド達を見た。
「もうそろそろ出ようか」
「……随分満足そうな顔だな」
「そりゃもう。お酒もおいしかったし、料理もなかなかだったよ。さすがレドリーの馴染みの店だけあるね」
「俺は全然楽しめなかったがな。誰かさんのせいで」
「ハロルド? いつもは自分が迷惑かけてる方なんだから、たまには良いんじゃない?」
「だからって、俺だけに押しつけなくてもいいだろう。ずっと自分だけ知らんぷりして」
「ごめんって。ここのお勘定、二人よりも多く払うから、それでいいでしょ?」
セシリアが両手を合わせれば、レドリーは首を振って熱弁した。
「当たり前だ! 俺はほとんど料理に手をつけてないんだぞ! 酒だって一杯しか飲めなかった!」
「また来れば良いじゃん。三人で、ね?」
「次は絶対に一人で来る」
レドリーはげそっとした顔でそう宣言すると、意識が混濁した様子のハロルドを担ぎ、立ち上がった。慌ててセシリアは二人分の荷物を抱える。
「大丈夫? 僕も手伝おうか?」
「いや、セシルの体格じゃすぐに潰れるだろ。それより荷物を頼む」
「うん」
代表してセシリアが支払い、酒場を出た。夜風は少し冷たかったが、酒で火照った身体にはむしろ丁度良かった。セシリアは鼻歌すら歌いながら歓楽街を行く。
「結構楽しかったね。お酒もおいしかったし。果実酒だと甘くて好きだな」
「果実酒なんて子供だな」
レドリーは苦笑を漏らしながら、ハロルドを背負い直した。
「門限があるから急ぐぞ」
「はーい」
セシリアは間延びした返事を返し、レドリーの後を追った。
辺りが暗くなるにつれ、歓楽街は一層賑わいを見せた。千鳥足で酒場を梯子するものが増えたため、余計なゴタゴタに巻き込まれないためにも、できるだけ路の中央を歩くようにする。
やはり夜遅くまで人で賑わう歓楽街だからこそか、時折喧嘩や怒号が飛び交うこともままあった。中心街と違って、あまり整備されていないからか、治安が悪いのだ。
今もまた、セシリアのすぐ横を何者かが慌てたように走り去った。追われているようで、彼の後を何人もの男が叫びながら通り過ぎていく。
今の人、どこかで見たような。
見慣れた姿を見たような気がして、セシリアは思わず足を止めた。酔いで少しばかり霞む頭で彼女は必死に考える。
夜の闇に溶け込んだ黒髪に、細身の身体、そして着崩した服――。
ソルだ!
セシリアはポンと手を打ち、後ろを振り返った。その頃にはもうとっくに彼の姿はなかったが、しかし耳を澄ませば、先ほどの男達の怒声がまだ聞こえるので、それほど遠くに入っていないだろう。
でも、また何をやらかしたのだろうか。あんな大勢に追われるなんて。
セシリアは妙に気にかかった。彼のことが心配――という以上に、もうすぐトラヴィスの門限だ。あの様子で、門限に間に合うのだろうか。もし遅れたら、また連帯責任ということで、自分たちも巻き込まれるかも。
すっかり酔いが覚めていた。気づけば、セシリアは彼の後を追っていた。放っておけなかったからだ。
しかし、行けども行けどもソルの姿はない。ソルを探しているだろう男達の姿は時々見受けられたが、うまいこと身を隠しているようで、ソルはどこにもいなかった。余計なお世話だっただろうかと、セシリアが少々落ち込んでいるとき、視界に赤いものが映った。点々と間隔を開けて地面に付着しているそれは、紛れもなく血。
導かれるようにしてその後を追うと、セシリアは細い裏通りに迷い込んだ。奥へ奥へと進めば、大きな樽の影に隠れるようにして、人が蹲っていた。
「ソル?」
ソルはハッとしたように顔を上げた。険しい顔つきで傍らに置いてあった短刀を掴み、お世辞にも俊敏とはいえない速さでセシリアを壁に押さえ込んだ。首に短刀を押しつけられ、セシリアは目を丸くする。
「な……え、大丈夫? 血が落ちてるの見たけど、どこか怪我してるんじゃないの?」
「は――お前、セシルか?」
緊急事態ではあるが、初めてソルに名前を呼ばれたな、とセシリアはぼんやりと思った。ついで、そろそろと視線を下に下げ、ソルの脇腹から出血しているのを目撃する。
「大丈夫!? さっきの人たちにやられたの?」
「関係ねえだろ。さっさと行けよ」
拘束を解くと、ソルは再びその場に崩れ落ちた。シャツを切り裂き、乱暴に脇腹の止血をする。
「関係なくないよ。放っておけないし」
「余計なお節介なんだよ。こんな所で話してたら見つかるだろ。さっさと消えろ」
確かにそれもそうか、とセシリアはソルの隣にしゃがんだ。彼がそういう意味で言っていないのは分かっていたが、とりあえずの対処である。
彼女は小さな声でソルに囁いた。
「早くここから逃げよう。いずれあの人達も血痕見つけるよ」
「うるせえな。どうしようが俺の勝手だろ」
「そんなわけにいかないよ! 分かってる? もうすぐ門限なんだよ。ソルが門限に間に合わなかったら、僕たちまで責任を負わせられるかもしれないじゃないか!」
今となっては、門限はどうでも良かったのだが、こうでもしないとソルは聞いてくれなさそうな気がしたのだ。
「――行くぞ」
大分間をおいてソルは立ち上がった。セシリア達の事が気の毒に思ったというよりは、借りを作りたくないと思ったのだろう。
怒号はまだ近かった。反対の裏通りから出たが、いずれこの辺りも捜索されるだろう。トラヴィスへは反対方向になるが、二人はできるだけ人の多い場所を選んで進んだ。
ソルの足取りはゆっくりで、見ていて危なっかしい。肩を貸そうと申し出ても、彼が頷くことはなかった。よっぽど借りを作りたくないのか、なれ合うのが嫌いなのか。
やがて、ようやくトラヴィスが見えてきた。辺りの静けさから、セシリアは直感で気づいていた。とうの昔に門限は過ぎている、と。
「あー、憂鬱だね。絶対に怒られるよ。こんな時間まで何してたんだ! って」
思わずソルを見上げるセシリア。しかし、彼は眉間に皺を寄せ、どこか遠くを見つめていた。
「ソル?」
彼が立ち止まったので、セシリアも同じく足を止める。無言のまま、ソルは近くの木に登り、そしてそのままトラヴィスの高い塀に飛び乗った。
「えっ、な、何してるの?」
「じゃあな」
なにが何だか分からないまま、ソルはそのまま塀の向こうへ消えて言ってしまった。後に残るのは、茫然とその場に立ち尽くすセシリアだけだ――。
「誰かいるのか?」
門の前に誰かが立っていたのか、その者はセシリアに向かって歩いてきた。身構える間もなく、セシリアはその者が月明かりに姿を現すのを黙ってみていた。
「セシル=セネットか」
彼女の目の前で立ち止まったのは、ティモシーだった。後ろ手に両手を組み、ほの暗い瞳で彼女を真っ直ぐに見つめる。
「トラヴィスの門限が何時かは知っているな?」
セシリアは項垂れた。
「新入生が、しかも初めての休みの日に堂々と門限を破るなんて前例がないぞ。ソワルドですらちゃんと帰ってきてるのに、これは一体どういうことだろうな?」
「あの……」
「それに、君は新入生代表でもある。新入生の鏡として己を律すべき筈の君が、なぜこの時間に帰ってきた?」
「それは……その」
「君には失望したよ」
理由を言えずにいると、ティモシーは深々とため息をついた。肩をすくめ、くるりと後ろを向く。
「308の生徒には、これから一月、外出禁止を言い渡す」
「そ、そんな! どうして連帯責任なんですか! 悪いのは僕だけですよ!」
「お前達308は何かと問題行動が多い。よって、連帯責任の方がその自覚が出るとみた。連帯責任が嫌なら、これ以上問題を起こさないことだ」
「先輩! どうか今回だけは見逃してください!」
「駄目だ。一度甘やかすとつけあがる」
短く言い捨てると、ティモシーはそのままブルックスの寮棟へと歩き出した。セシリアは絶望に染まった表情で彼の後ろ姿を見つめていた。